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戦時下の野球雑誌名の変更は、敵性スポーツからの脱却にとどまらずー野球界⇒野球と相撲⇒相撲界⇒国民体育…

 野球は大日本帝国下でも、六大学野球やプロ野球で親しまれていたスポーツです。関連の雑誌も当然発行されていて、1908(明治41)年11月には「月刊ベースボール」が博文館から発行され、1911(明治44)年9月からは「野球界」と改題。野球記事が中心でしたが、同様に人気のあった相撲の記事や特集号も発行していたということです。

 しかし、1941(昭和16)年12月8日に太平洋戦争が始まると、野球は敵性スポーツとして排斥の動きが出てきます。国家総動員法に基づく金属類供出令によって、野球場のバックネットなどは早々と撤去されます。まあ、関係者が国策協力の姿勢を示すことで、存続に少しでも役立てばと思ったのは想像に難くありません。
 一方、1943(昭和18)年1月13日、ジャズなど英米音楽の演奏禁止音楽を情報局と内務省が発表してから「敵性語」の締め付けが厳しくなります。特に野球への風当たりはひときわ強く、もちろん法律の定めはないのですが、自主的にストライク、ボールが「よし」「だめ」に置き換えられるなどします。軍人が「選手交代は敢闘精神に欠ける」として禁止させたという話もあるほどです。
 当然、その波は雑誌にもかぶさり、「野球界」は情報局から指導を早めに受けていたのでしょう。一足早く1943年1月15日発行の号から「相撲と野球」に改題します。

1943年4月15日発行の「相撲と野球」。表紙は双葉山
表紙にこんな標語が
目次に「決戦下の相撲道」とかありますが、まだ普通の相撲雑誌です

 同年9月15日発行号は、岩戸伝説が伝わる長野県戸隠(現・長野市)の戸隠山を望む場所へ大日本国技研修会が建設した相撲道場での、相撲指導者養成講習会の様子を大きく取り上げています。

戸隠山を背景に講習会
錬成の相撲、と精神面が全面に
「決戦下の意気高く」と4ページにわたる講習会グラビア
特集は「決戦生産への相撲道」とか。ページも減っていますが、野球の話題も少しは

 9月15日号は特に精神面強調の内容。野球の記事も載せてはいますが、これも「野球術から野球道へ」「必勝の信念と野球」といった、精神面から語っている記事が目立ちます。こうでもしないと野球が生き残れなかったのでしょう。
 しかし、せっかく「相撲と野球」と改題したのに、これは1年で終わり、1944(昭和19)年1月号から「相撲界」と題名から野球が駆逐され、8月号からは娯楽性を廃した「国民体育」にまたまた改題され、少なくとも翌年の1945(昭和20)年1月号までは発行が続いています。
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 そして敗戦。翌年の1946(昭和21)年1月号で「野球界」の名前で復刊します。以後、1959(昭和34)年10月に終刊するまで、名前はこのまま続きました。

右は1951(昭和26)年12月号、左は1952年1月号
1951(昭和26)年12月号の目次

 最後に上写真に野球界1951年12月号の目次を掲載しました。日米交流の萌芽も見えます(占領政策であったにせよ)。現在は大リーグに次々と日本人選手も挑戦し、さまざまな活躍を広げていて、国籍に関係なく日米で応援するのが普通の時代になっています。相撲にも、ハワイやモンゴルをはじめ、さまざまな国の力士が参加するようになりました。

 戦争がスポーツをどれほどゆがめたか。わずかな資料ではありますが、そんなことに思いをいたしてください。

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