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徴兵制下の戦前日本では、軍隊への入営、入団、出征に合わせて幟で鼓舞しましたーリサイクルや華美にしない工夫も

 太平洋戦争や日中戦争を扱ったドラマなどで、出征する兵士を見送る場面などに、「祝 出征〇〇君」などとした幟を見ることはございませんでしょうか。徴兵制と言っても、徴兵検査で合格し籤で入営を決められて兵営で2年間生活する「現役兵」が一部であることは以前ご説明したことがありますが、このため一つの村から入営するのはわずかな人数であり、地域の代表として幟を贈り、盛大に見送りをしました。また、赤紙などで出征する兵士らにも同様にしていました。
 表題写真と下写真は、長野県川中島村(現・長野市)の丸田治雄さんが出征するにあたって贈られた幟で、勤め先や親せきなどから合わせて21本も贈られています。まだ物資が豊富で勢いもあった、日中戦争初期のころのものでしょうか。

書家に依頼したり、自分で書いたり、いずれも心を込めて。

 こちらの下写真は長野県内のもので、岡谷市の可能性が高いです。大日本国防婦人会のたすきと軍服の形から、日中戦争初期と見て良いと思います。写真に数本の幟が確認できます。

日中戦争初期とみられる出征前の撮影

 続いて、いずれも長野県の下高井農学校(現・長野県立下高井農林高校)の卒業アルバムより。この下にあるのは同窓の仲間が海軍を志願して海兵団に入団する前の記念撮影で、大きな幟を横にしての撮影で、海軍の場合は「入団」となります。撮影は日中戦争中の1939年5月です。

三年生一同と幟に入っています。

 こちらは、赤紙で召集される先生を駅で見送る前の記念撮影。場所は長野電鉄中野駅で、やはり日中戦争中の1939(昭和14)年6月のことです。ここでも幟が前に出され、はっきりと出征であることが分かります。

学校から駅まで、幟を掲げて歌を歌い日の丸の旗を振ってきたのでしょうか。

 こうした幟は名前を書き込むばかりの既製品もあり、収蔵している石川県松任町(現・白山市)の三浦呉服店の1939(昭和14)年の一時貸帳でみると、ところどころに幟や日の丸の旗の注文が記載されています。

呉服店の販売の記録「一時貸帳」
入営旗一本、と注文が入っています。

 また、神社に武運長久を祈って幟を献納する事例もあり、軍神として知られる諏訪大社には、多数の幟が並んでいたといいます。

青年会などの参拝記念写真(部分)。右手に献納された幟がある。

 インターネットで調べますと、札幌市平和バーチャル資料館には、太平洋戦争末期の1944(昭和19)4月の出征時の幟がありました。防諜目的で出征はこっそり行うようになってきていましたが、もの不足のそんな時期まで続いていたのが分かります。
           ◇
 信濃毎日新聞の1940(昭和15)年5月25日の朝刊に載った読者投稿の「農村雑記」に「出征入営の幟」(牧 枝折)と題した作品がありましたので、当時の雰囲気を感じていただける好例として、転載させていただきます。どうも、いろいろなやり方が地区ごとに違っていたようです。また、幟への思い入れもいろいろだったようです。当時を見た人の貴重な記録と心境です。

 ◇「太一さんとこじゃ幟が20本も立ってるし何しろあそこじゃ親類が多いからなあ」「佐吉さんとこじゃ9本ばかりだ。あそこにや近い親類少ないだがどこでくれたかな」「時さんとこじゃ役場のまで入れて4本しかない。あそこじゃしぶくてそこらへ出しておかねだらずからな」
 入営、出征のある度に、その家に立てられる幟の数が、そんなふうに話題に上るのだった。
 ◇入営の場合など、早くから解っているので2月も前から、親類中から幟が贈られ、出発まで、毎日毎日出したり入れたりするのである。外へ出ていた人の場合には、勤先から小旗などもたくさん貰って来るので、幟がその家の庭いっぱいに林立するのだった。そして出発の日まで立てると、次の日はみんなきれいに、片づけてしまうのだ。
 ◇「ももちゃん人絹の幟染めてさんじゃくにしてたし」「おらとこじゃ、木綿のだけ染めて、ふとんの裏にして、人絹のは染めて羽織の裏にしたし」そのあとでは、又必ずそんな話が出る。丁二さんとこでは、祝出征〇〇〇〇君と墨黒黒と描かれたままの幟を、いくつも剥ぎ合わせて、兎を飼うときの軒端の日よけにした
 ◇その息子は戦死した。家中の悲しい思い出になるだろうと、気の毒に思って眺めていた。だが、今年からは幟を廃することと村中で決められ、断然廃されたようである。命をかけての出征を贈る幟のお金など惜しいとは思わないが、そうした尊いものが、其のあそ粗末にとりあつかわれることを思うと、いっそ無い方がいいと思う
 ◇僅か離れてもT地方へ行くと、とうの昔から、幟は村役場から届く縄綿カンレイシャの、幟1本と決められている。そしてその幟は、ああ、あの家からも出征兵がと、誰にもうなづける程に、いつまでもいつまでも、へんぽんとその庭に翻っている。
 一年二年と経つうちには、風雨にさらされて、竹にからみ付いて黒くなってしまっても、帰って来るまでそのまま立っているので、そうした村の様子を話すのか、勤の人達も小旗の1,2本も貰ってくる位で、あまり持って来ない。
 ◇そしてその小旗は、その人の武運長久をお祈りして、村の氏神様へ上げられるのである。私はそうしたところにこそ、出征入営祝の幟の尊さがあるような気がする(筆者は上水内古間村=現・信濃町)

 兵士の無事を祈る気持ちは同じでも、役目を終えた後をどうするか。物資不足の中ではリサイクルも仕方がないと思いますし、また別のやり方もあり、さまざまな見方の一つとして紹介しました。
 また、あまり派手に送り出し、入営先で検査の結果即日帰郷となったために村に帰れず放浪したり自殺したりする例もあったといいます。当時を今に伝える幟が、二度と活躍しないでも良い世の中にと思うばかりです。


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