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日中戦争開戦から太平洋戦争敗戦までの雑誌「主婦之友」に見る生活の変貌

 日中戦争が勃発した1937(昭和12)年は、現在からみると87年前。さすがにその当時の本、それも雑誌は手に入りにくくなり、目にする機会も一般的にはほとんどないでしょう。しかし、意外とこういう場所に真実が表れてくるものです。そこで、収蔵品の月刊誌で当時一番人気だった婦人雑誌「主婦之友」の変遷をご覧にいれ、戦時下の生活の変化を感じていただきたいと思います。

1937(昭和12)年11月号

 日中戦争開戦のきっかけになった盧溝橋事件は1937(昭和12)年7月7日ですが、戦闘が本格化するのは9月ごろからです。やっと戦争を取り上げ始めたころといえばこの11月号でしょう。表紙は日の丸を持った赤ちゃんと笑顔で抱っこするお母さん。赤ちゃんの手にする日の丸と「国民精神総動員」のマークが戦時下を感じさせ「上海現地熱血手記」が目玉です。大量の広告が前後に入っているのを別にして568㌻あります。別冊付録付きです。

1938(昭和13)年8月号

 広告量は減っていますが588㌻と本体のページを増量。表紙は農家の若奥さん風です。「皇軍勇士の家庭慰問号」と副題がつくようになり、別冊付録も「非常時裁縫 和洋衣類の更生方300種」と、軍需に面が優先されるようになった状況を暗示しています。そして「少年少女愛国の歌懸賞募集」と戦争を後押しします。

1939(昭和14)年8月号

 この8月号は、表紙が笑顔の水着女性、副題も「夏季特別講習号」とあまり緊張感がありません。ページ数は438㌻と前年の2割ほどの減少を見せていますが、戦闘が一段落したせいか、ちょっと戦争前の雰囲気を思わせます。しかし、別冊付録は姿を消しているようです。

1941(昭和16)年6月号

 実は、1940(昭和15)年のものがありません! 申し訳ないので、こちら、1941(昭和16)年6月号。「結婚難と娘教育号」の副題は、国の「生めよ増やせよ」のスローガンにそったものでしょう。特集は「夏の節米経済料理の作方80種」とあり、前年からのコメ節約の動きを反映しています。ページは1年10カ月前の1939年8月号より110㌻減っていて328㌻となっています。既に紙は政府が統制していました。

1941(昭和16)年9月号

 副題は「育児報国号」となり、6月号の結婚と対をなしているようです。子どもを抱く浴衣のお母さん、2人とも笑顔で余裕を見せます。それでも中身に「戦時生活特集」など入れているのは、情報局の指導でしょうか。この号は238㌻。6月号と比べてわずか3カ月で一気に100㌻の減量です。編集者の苦労はいかばかりか。

1942(昭和17)年8月号

 太平洋戦争も始まりました。表紙の女性については、勤労女性にするよう、徹底されるようになりました。夏ですから、海で漁をする女性を題材としていますが、歯を見せて元気な笑顔です。副題は「子供の鍛錬教育号」で、まだまだ女性は内で子育てをという雰囲気です。「珊瑚海海戦記」が戦時をわずかににおわせています。実物大型紙などはなくなり、ページ数の減少ペースは少し落ちていますが、とうとう198㌻と200㌻を切りました。
 ただ、裏表紙の広告はまだ健在でした。

1942(昭和17)年8月号裏表紙

 さて、その翌年の表紙ですが…

1943(昭和18)年8月号

 こちら、翌年の1943(昭和18)年8月号でも漁をする女性を扱っていて、1年前と変わりませんが、こちらの表情はなんとなく微妙な、感情の薄い表現です。情報局から「歯を見せた笑顔はいかん」と指摘された結果のようで、敗戦まで、この調子です。副題は「勤労報国号」。女子挺身隊など、女性が男性の代わりに工場や鉄道などで働くようになってきた時勢を表しています。ページ数は128㌻に減少。日中戦争開戦間もない1937年11月号の23%、4分の1以下となりました。

1943(昭和18)年8月号裏表紙

 そして裏表紙からも広告が消え、「戦時家庭の栄養早分かり」、少ない素材をどう効率よく使うかという内容で、食糧事情の悪化、配給制度(有料)だけでは補えない生活を思わせます。

1944(昭和19)年8月号

 副題は「生産と耐乏の生活」。まさに、この時期の社会そのものを示します。特集が「戦う育児生活」とあり、それに合わせた表紙となっていますが、過去の表紙のような笑顔がありません。笑顔を描けないため、表紙に占める女性の顔の面積がどんどん小さくなっていきます。しかし、戦う育児生活とは、子育てのあれこれにも事欠くので、子どもを育てることも戦争のような気合が必要ということでしょう。ページ数は前年から半減の60㌻。

1944(昭和19)年8月号裏表紙

 裏表紙は「防空必勝の知識」というシリーズになっています。この号では、台所の防空としてあります。また、ページ数も減る一方、発行部数も減っているのでしょう。裏表紙に回覧できるように押印欄が作られています。

1945(昭和20)年7月号

 空襲で通常の印刷ができなくなり、静岡新聞社に協力を得て、墨一色のざら紙の冊子になりました。ページ数は表紙まで入れて32㌻しかありません。

右が1937年11月号、左が1945年7月号

軍需工場で働く女性が表紙となり、副題は「勝利の特攻生活」。もう、命を張っていくしかない、という投げ出したような感じです。なお、このあと8月号が出ますが、それは敗戦後のことで、この7月号が戦時下最後の号となりました。印刷、運搬、すべてが詰まってきていたのです。そんな情勢下の巻頭言を見てみましょう。

1945(昭和20)年7月号巻頭言

 まあ、読んでいただければよいですが、もう苦しいのは当たり前で、最後まで皇国のために尽くせ、ということです。臣民は守られる対象ではございません。

1945(昭和20)年7月号裏表紙

 最後に、1945年7月号裏表紙です。前年は防空対策でしたが、ここでは空襲でみんな焼かれてしまった罹災者のための地下壕舎を紹介しています。空襲から守るというのが無理なので、焼かれた後の対策に移っているのです。記事でも「すっかり焼かれて清々した」といった言葉が出てくるくらいですから。

 そして、国に最後まで尽くし、空襲で一斉を失った人々に対しては何の補償もなく、戦後の裁判でも許容範囲として裁判所は認めていません。防空法という法律で逃げずに火を消すことを強要したのは政府です。それに従った結果責任は、必ず問い続けなければならないでしょう。

 

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。