見出し画像

資源不足対策も、最初は自主的な回収から始まりましたが、やがて強制に

 日中戦争が1937(昭和12)年7月に始まり、政府は翌年12月、弾丸などに使う黄銅を少しでも確保するため、黄銅の一銭硬貨の代わりに、アルミの一銭硬貨を発行します。そして1939(昭和14)年2月16日には、商工省が鉄製品回収を開始します。
 川上今朝太郎氏の写真集「昭和で最も暗かった9年間」によりますと、長野市では長野駅の改札が撤去第一号だったようです。まずは個人や民間の資産ではなく、国の資産から手を付けていきました。
 当時の日本の製鉄業界では、屑鉄を利用する製鉄法が主流だったうえ、軍艦の無条約時代に入って最大の屑鉄輸入国だった米国でも需要が高まって輸出が細り始め、さらに高騰してきたことから、日中戦争遂行のため、国内の屑鉄も活用するのは大事なことだったのです。
           ◇
 そして、民間対策としてはまず廃品回収に乗り出すこととなります。長野市では1938年7月7日の日中戦争(支那事変)一周年を前に、廃品献納運動を呼びかけていて(下写真)、こうした動きが各地にあり、政府を後押しした可能性があります。

長野市の日中戦争時の廃品献納運動

 長野県では国の方針も受けて1939(昭和14)年5月3日に長野県廃品回収協議会を結成。表題写真と下写真は、そのころつくられた買い取り最低価格を定めたチラシになります。買出人組合も組織し、買いたたかないよう設けたもので、このチラシは、各家庭に普及のため配ったとみられます。

スローガンが、まだ柔らかい雰囲気

 金属類はもちろん重要ですが、軍需物資輸入で船舶が圧迫される中、紙の原料のパルプ、服の原料の綿花や羊毛も細ったり、軍事優先になったりしますので、買い取りに力を入れるのは当然のことでした。
           ◇
 一方、日中戦争の泥沼から抜け出したい日本軍は1940(昭和15)年9月、中国軍への海外からの物資援助ルートの一つ、仏印(フランス領インドシナ)ルートを抑えるため、北部仏印(現在のインドシナ半島北部、現在のラオス、ベトナム)に進駐し、同月、日独伊三国同盟も締結します。
 しかし、これによって日本に対する警戒を強めた米国は、屑鉄対日輸出を禁止します。先に述べたように、日本にとって屑鉄は重要資源です。このため、既に制定されていた国家総動員法に基づく「金属類回収令」を1941(昭和16)年8月に制定し、前年に発足してほぼ組織が固まってきた大政翼賛会の下部組織である隣組や実行組織の翼賛壮年団も使った、強引な回収(いちおう買い取り)を実施するようになります。下写真は、このころ長野県が作った供出書類で、鉄と銅に絞っています。隣組などの同調圧力で成果を上げようとしたのでしょう。

禁輸処置を「包囲陣」と表現
「鉄と銅に動員令」「世界平和の為に」といった言葉が煽ります

 翌年には、第二次金属類特別回収で、寺社の金属類も供出されます。下写真は、1942(昭和17)年10月13日、長野県四賀村(現・松本市)の岩田寺の「梵鐘戦時供出記念」の写真で、地元の穴沢区の40人ほどが名残を惜しんでいます。

寺社にも戦争の波は容赦せず

 下写真は、1943(昭和18)年2月の第三次金属類特別回収を伝える山形県の山形市役所の通知です。火鉢、花器、仏具といった「不用のものや不急のもの」は全部供出するようにとし、土蔵の窓格子も候補に挙げています。また、時期不明ですが太平洋戦争当時とみられる上田市のチラシは、「湯沸かしが2つ以上」ある家もあるなど、より強制性を高めた雰囲気です。

切迫感が高まってきた通知
「戦局は今や決戦段階」とあり、1944年ごろのものか。

 このほか、1938年5月に完成したばかりの平穏村(現・山ノ内町)の百八尺観音銅像も、1944(昭和19)年7月から撤去されます。特に屋外にある仏像は、製作年などで絞られ、長野県内でもごくわずかしか残すことが許されませんでした。

現在は小さめの観音が再建されている

 最後に、こちらは長野県や大蔵省によるアルミ貨幣引き換えの隣組回覧です。1945(昭和20)年1月のもので、戦争に銅が必要だからとわずか6年ほど前に代用品のアルミにしたはずだった硬貨を、今度は飛行機の材料とするため回収するというのです。引き換え手数料は出たようですが、これも税金。先を見通せない中、一度配ったものを労力や燃料をかけて集め、それがいかほどのものになるか。理性的では乗り切れないのが、戦時下の生活なのでしょう。

6年前から切り替えたアルミ貨幣をまた回収とは。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。