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目についたものをぼちぼち収集していたら、それなりに集まってきた上田蚕糸専門学校(現・信州大繊維学部)資料群

 モノの収集は、これを、と決めて一生懸命探すものと、たまたま目について「これ、いずれ使えるかも」と集めるモノが入り混じっています。上田市にあった上田蚕糸専門学校(現・信州大学繊維学部)の資料などは、その「いずれ使えるかも」と集まってきたモノたちです。

上田蚕糸専門学校長署名入りの武運長久の旗

 最近入手したのが、この旗。通常は寄せ書きでいっぱいになるはずですが、時間がなかったのか、あるいは校長単独でつくったものか、いずれにしても在校生、ないしは卒業生の出征にあたって書かれたものでしょう。これは調べていけば時期などが特定できると思います。

こちら、時期不明ですが、上田市の防護地区図

 上の上田市の地図、右手に上田蚕糸専門学校があります。現在も同じ場所に、信州大学繊維学部があります。このような繊維学部は全国でも唯一です。近年は、繊維に限らず幅を広げているようですが、基は製糸の一貫生産地であった長野県らしい、高等教育機関なのです。

1935年当時の学内図面
同じころの学内消火栓配置図

 上の図面は、いずれも防空に備えて作られたとみて入手しました。いずれ現地へ出向いて調べてみたいと思って居ます。

 こうしてぼちぼち集めていたのですが、調査研究の柱となる資料をこのほど入手しました。それがこちら、千曲会報(上田蚕糸専門学校同窓会報)の1934(昭和9)年から1943年までの束です。

千曲とあるから長野関連だろうと入札し入手
繭を乾燥させる機械の広告が上田蚕糸専門学校らしさを示す

 こちらがこの束のトップ。満州事変も終わり、平時らしさがあるとともに、製糸の盛んだった長野県の学校の自負が浮かびます。

1939年当時の紙面

 しかし、日中戦争勃発後は出征している会員への慰問資金を、新たに組織した同窓会銃後会が募集していたり、それぞれの消息が伝えられたり、どんどん戦時色が濃くなるにつれ、殺伐としてきます。たいていの一般向け公報紙は1940年に廃止させられていますが、こちらは同窓会内ということ、上田蚕糸専門学校という威光もあって発行が継続されています。

こちら、束の最後の号

 1943年7月25日発行の会誌には、切ない文字が編集後記に載っています。「近頃、有為なる先輩の訃が次々に至る。母校にとっても業界にとっても誠に惜しき極みである」。これほど、戦争の本質を直截に言い当てている言葉はあるでしょうか。

 まだこちらの分析はほとんど手付かずです。こちらと従来の収集品を突き合わせるなどすることで、戦時下の上田蚕糸専門学校の姿がより浮かび上がるかと思います。それが未来の道の参考になると信じて疑いません。二度と、尊い犠牲が当たり前の世の中にしてはいけないと、皆が思えるような分析をきちんとまとめたいと思って居ます。

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