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「自分はプロ野球選手にはなれないんだ」から始まった。創業4年で辿り着いた、夢へのスタートライン

私たちは、「想像を超える、未来の創造」を理念に掲げ、不動産ビジネスの変革を目指し、京阪神間を中心に不動産仲介・買取再生・不動産リフォーム・不動産コンサルティングなどに取り組んでいます。

弊社は2019年4月に創業し、現在4期目を迎えました。大阪に本社、京都に支社を構えておりますが、12月度より関東エリアにも進出し、今後更に事業規模拡大を目指しています。

今回は代表の今中のキャリアを振り返りながら、そこから導き出された経営に対する考え方や、今後の事業方針などを幅広く語ってもらいました。


生き方を学んだ甲子園常連校での経験

── ビジネスを始める前は大阪桐蔭高校野球部という名門にいたとお伺いしました。

はい。僕の原点であり、今の自分が形成された3年間でした。幼い頃からプロ野球選手を目指して頑張ってきましたが、大阪桐蔭高校野球部では、入部早々とんでもない毎日が始まりました。

まず、校舎が山の麓にあるのですが、なぜかグラウンドが山頂につくられていて。2・3年生はバスで登っていく中、1年生だけは練習の一貫も兼ねて、その山を登っていくところからスタートするんです。
それが約1年間続きました。もう少しで気が狂う所までいきましたが、振り返ると、ここで折れないメンタルを培えたのかなと思ってます。

大阪桐蔭高校野球部在学中の写真

大阪桐蔭高校野球部には、年齢が1つ上に浅村 栄斗さん(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)、2つ上には中田翔さん(現・読売ジャイアンツ)というスタープレイヤーがいて、浅村さんの世代は夏の甲子園で全国制覇を成し遂げられました。しかし、自分達は結果的に甲子園に出るという夢は叶いませんでした。僕自身も最後の夏は怪我で苦しみ、プロ野球選手になるという幼い頃からの夢は打ち砕かれたんです。

今でも高校時代の思い出が夢に出てきて、その悔しさで目覚めることがあります。当時は100%全力で頑張っていたつもりだったけど、「本当に全力でやれていたか?」と過去の自分に問いかけると、どこか誤魔化していた自分がいた気がして。

監督にも「出し切れ。やりきれ。誤魔化すな」と言われ続けていました。
もちろん、当時は全力のつもりでした。しかし、今になって気づくことが多く、後悔の念は年齢を重ねるごとに大きくなっていました。結局そういった油断のせいで、怪我もしてしまったと思っています。

もう、あの頃の気持ちなんて絶対味わいたくない。
誤魔化したり、言い訳なんて、絶対にしない。

これからの人生は、正々堂々とやっていく。
そう、誓ったんです。

新しい夢と、フェラーリ男と、資本主義と。

── 高校野球引退後について教えてください。

高校野球引退後、リハビリを続け、怪我も順調に回復していました。

そのはずが、京都産業大学の野球部に入部し、入部初日の練習で、またもやその怪我が再発。何故なのか分からない、腕も上がらない、何より気力が湧いてこない。そこで、完全に、自分を見失いました。

高校の監督、大学の監督、関わって下さった沢山の方々にご迷惑をかけてしまいました。

当時は、落ちるところまで落ちたと思います。
プロ野球選手になる、という昔からの夢も打ち砕かれ「将来どうすればいいんだろう」と路頭に迷ってました。でも、とにかく時間だけはあったので、とりあえず建設現場でアルバイトを始めたんです。

そこで、人生を変える出来事がありました。

当時、解体現場で汗水流して、土嚢袋に殻を集めていた時、もの凄い勢いでフェラーリに乗った男が現れたんです。

「あの人は、何をしている人なんですか??」

と、現場監督に聞いたら

「ここの持ち主で、不動産会社の社長だよ」

と言われたんです。

18歳ながら、衝撃が走りました。
それまでは、自分が幼い頃から思い描いていた未来は、プロ野球選手になる以外、叶える手段はないと考えていました。
しかし、ビジネスの世界でも努力して結果を出せば、もしかすると…

そんな希望の光が見えたんです。

ここから、僕の夢が確定してしまいました。
まずは、大学在学中に宅建の資格を取って、不動産会社に就職して、5年で社長になるぞ、と。何故「5年」と決めたかは当時の感覚です(笑)

不動産を調べてみると、街づくりに関われたりするし、憧れていたプロ野球選手と同じような、夢や希望があるのではないか、と考えるようになりました。

プロ野球選手になれないんだったら、社長になってそれ以上のことをできるようになればいい」
「僕をここまで成長させてくれた、お世話になった方々、迷惑をかけた方々に恩返しができるよう、絶対に大きい男になってやる」

そう、心に決めました。

経験を積むことに全注力したサラリーマン時代

── 宣言通り大学時代に宅建の資格を取得して、不動産大手企業に就職されたとお伺いしたのですが、実際に会社員時代の話を教えてください。

夢への第一歩を踏み出して、住友不動産販売(株)に入社した僕は、高級住宅街である芦屋で、個人住宅を中心に営業をしていました。上品な街ですのでハードルも高く、あまり積極的に営業に伺われることのない地域です。そんな地域で営業を活動をしていたのが功を奏したのか、結果的に沢山のご契約をいただくことができて、それなりの成績を収めることができました

しかし、大手の看板があるから売れているという感覚も強かったので、この先、独立できるイメージは湧いていませんでした。

次第に”実力を試してみたい””もっと起業に活きる経験がしたい”という想いが強くなり、社長と近い距離で仕事ができる事業用不動産会社に転職を決意しました。同時にそれは、ある程度約束された給与形態から結果を出さざるを得ない給与形態への変化でもありました。

しかも、仕事しないと生活すらできない状況にも関わらず、当時付き合っていた彼女の妊娠も発覚しました。
相手の両親には付き合っていることすら話していなかったので、猛反対を受けてしまった上に、彼女が勘当されてしまい。もちろん、僕が悪いのはわかっているのですが、「俺について来い」とか言って。一丁前に彼女を連れ出してしまったんです。

格好良いこと言ってる風に聞こえますが、当時は本当にお金がなくて(笑)まずは、実家の余っている部屋での同棲生活が始まりました。ダサすぎますよね。

彼女の母親に対しては、毎日手紙を送り続けて誠意を伝えていました。せめて、自分を知ってもらおうと私なりのやり方でした。

仕事はというと、やるしかない状況に追い込まれたらとことん強い僕は、掲げた目標を達成していき、余裕を持った生活ができるくらいには稼げるようになりました。日々頑張れたのは、彼女を守る為っていうのもありますけど、やっぱり野球人時代から残っていたモノが、自分を突き動かしてくれていたと思います。

でも、妻の両親に認めてもらうためにも、大先輩方に近づくためにも、叶わなかった夢にたどり着くためにも、まだまだ満足とはほど遠い状態でした。
それに、5年で不動産会社の社長になるって、18歳の時に決めたので。ここでやるしかないと思い、満を持して独立することにしました。

宣言通り5年で独立。創業わずか4年で、売上は40億円に

創業メンバーで撮影した、オフィス近くでの一枚

── 現在、4期目ながら売上は40億円に達しているとお伺いしました。客観的に見ると、起業を志した当初の目的は果たされているのではないですか?

創業当初より取引関係各社様より格別のお引き立てをいただき、大変ありがたいことに、成長させていただくことができています。

しかし、起業当初の目的が果たされたかと聞かれると、まだまだ満足してはいけないですし、お世話になった方への恩返しが、これからやっとできると考えています。

現在、社として上場という目標はあるものの、私利私欲ではなく、あくまで他者貢献や恩返しの手段の一つと考えています。それが果たせるまでは、謙虚に愚直に、ひたむきにやっていきたいと思っています。

ただ、高校時代からお世話になり、プロ野球の世界で活躍されている先輩から突然連絡をいただいたことはありました。

「今中、最近仕事頑張ってるみたいやな」って。

そうして耳に入ることができたのは、頑張ってきてよかったと思えた初めての瞬間だったかも知れません。

というのも、一昨年から、これまで応援してくださった先輩方への恩返しの意味合いも込めて、京セラドームに自社の看板を出したんです。

その看板を見てなのかどうか、実際の所はわかりませんが、ちょうどそのタイミングに連絡をいただきました。先輩はプロ野球選手として野球界を引っ張っていく存在だけど、僕はビジネスの世界で甲子園という夢の続きを見ている。

もちろん、対等になれたなんて思っていませんが、なんだか、清々しい気持ちというか、ここからもっとやるぞという気持ちになってます。

── まだまだ目標への途中地点ということなんですね。最後に、これから新しく成し遂げようとしてることを教えてください。

夢が叶わなかった悔しさからはじまった不動産会社への挑戦でした。しかし、今では、自分の夢を叶えることで、他人の夢も同時多発的に叶えることができる状態を作りたい、という欲求が強くなっています。

本来は、その欲求の方が強かったのかも知れません。
というのも、実はもう一つ"自分のすべきことは何なのか"を考えさせられるターニングポイントがあったんです。

それは、高校一年の冬に突然訪れた、親父の死です。

親父は企業勤めのサラリーマンとして、懸命に家族を支えるために働いていました。もちろん、僕が、野球を続けれたのも親父のお陰です。
ただ、親父の休みの日には、大抵自分は野球の練習や試合があって、親子の深い関わりを持てる時間は数えるぐらいしかなかった記憶があります。

そんな関わりのまま高校の寮生活がはじまり、より物理的な距離も遠くなっていました。

そうして、亡くなる4日前に、突如母親から病状を告げられることになります。両親としては、僕に野球に集中させてあげたい、そんな想いがあったんだと思います。

突然訪れた親父の死。いずれ寮生活が終わって、自分も大人になったらゆっくり話せる時が来るのかな、そんな風に楽観的に思っていた自分を何度も悔やみました。

親父の死から、僕は、自分のことばかりではなく、他人のために何かをできてこそが人生なのではないかと感じました。親父の遺書にも「お母さんを幸せにしてやってくれ」そう、言葉があったんです。

そして、人は本当に死ぬのだなとリアルに感じた初めての経験でした。だからこそ、それまでにどれだけ他人に貢献できるか、それが一つの指針になったように感じます。

自分も、母も、仲間も豊かになってもらって、ステークホルダーやユーザーにも共に幸せになっていただく。綺麗事なんて言うつもりはありません。関わる方々が本当の意味で幸せでないと、誰も幸せになんかなれないと思っています。他者貢献こそが、最大のエンタメですからね。

この僕の考え方を分かりやすく「センスイズム」と題して仲間に共有しています。他者貢献の連鎖によって日本が良くなるって、本気で思っているんです。他者貢献から生まれる感動を伝える手段として、不動産もやっているし、上場も目指しています。

あくまでも目的は、周囲に貢献していくこと。会社として、社会に「唯一無二の感動を届ける」ことなんです。
とはいえ、まだまだスタートラインに立ったばかりだと思っています。人生を振り返った時に、心からやり切ったと言えるように、周りの人が笑顔でいられるように。

常に謙虚さを忘れず、いつまでもプロ野球選手を目指していたあの時のように、ひたむきに突き進んでいきたいと思います。

創業時、初めてオフィス事務所を借りた思い出のビルで

取材協力:株式会社Potential Eight


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