多様性の話をしよう。

多様性が叫ばれる今日この頃

我々はいやでも多様性について考えなければならない時代に生まれてしまっています。

ちなみに僕は、

多様性を認める社会=みんな仲良し

ではないと思っています。あくまで主観ですが。

多様性を認める社会とはそんな優しい世界ではなくて、
ある意味非情で悲しくもある世界で、

なぜなら

多様性を認める社会=互いが無関心で干渉しない社会

だと思うからです。

人は誰もが主観で生きています。

先日、電車に乗っていたら空の色が秋になっていると感じました。
その後職場に着くと、隣の席の同僚が、シャツをパタパタと靡かせて「今日は夏ですね」と話しかけてきました。

こんなふうに一人一人見えている世界はまるで違います。

そしてこの主観からは人は絶対に逃れられないのです。
絶対というのが当てはまることは中々生きている上で少ないです。
人はいつか死ぬとか、そのレベルです。

確かに色々な経験を積んで、多くの人の気持ちがわかる人もいます。
でも、それすら主観なのです。

客観で物事を見ることは、
その人が自分を辞めて別の誰かに乗り移らない限りはあり得ません。
そんなことは絶対に起こらないから、
主観からは逃れられないと言えるのです。

つまり、
人というのは他人の気持ちを100%は理解できないのです。
当然理解できないものを、受け入れることはできません。

よって、
みんなが受け入れあって仲良しになる世界などは一生来ないのです。

僕は多様性というに言葉を繋げるときに

「多様性を受け入れる世界」
ではなく、
「多様性を認める世界」
と表現します。

これは、
到底受け入れることはできないこの多様性を、認めることはできると思うからです。


Mr.Childrenの「掌」という曲の歌詞にこんな一節があります。

一つならなくていいよ。
認め合うことができるから。
それで素晴らしい。

わかるはずのない、人の気持ちや人の価値観を、わかったふりをするのを辞めて、
全ては、主観であると自覚をし、
認め合うことができれば多様性を認める社会に近づくのではないでしょうか。

そしてその次のステップが、

認めた価値観を放っておく。


ということです。
ここが1番大切だと思っています。

違う価値観を持つ人で構成されたこの社会において、
価値観の強要ほど、多様性を認めていない行為はありません。

自分と他の人、他の人と他の人は違うのだと認めたらば、それらに関わらないことこそが多様性な気がしています。

自分のテリトリーに誰も侵入せず、
自分も人のテリトリーに入らない。

まさに、互いが無関心で干渉しない社会

仲良くならなくていい。
無関心でいいのではないでしょうか。

多様性を認める社会=互いが無関心で干渉しない社会

これこそ多様性を認める社会だと僕は思います。
あくまで主観ですが。

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