「見通しの良い生活」への道:生活マントラ<その3>
生活マントラの3回目です。今回は2つのお題を試考します。
・<お題「信念習慣症」>
・<お題「多元感情」>
2つとも造語しましたw 信念習慣症は、生活習慣病の医学メタファー、多元感情は、高分子化合物の化学メタファーなのだった。
父「大人になると、ブレがない生き方は正しいって思っちゃうんだよね」
娘「ブレがないって、褒め言葉のようだけど、違うの?」
父「確かに。試行錯誤しながら生きてる人が、あとから見るとまっすぐ歩いてたんだ、って気がつくのは素敵だと思うよ。でも、スタートからブレがないようにって構えると、ロクなことがなさそうなんだよ」
娘「でもさ、ふらふらしてるのもマズイんでしょ?」
父「そうだなあ、父から娘を見ると『ふらふらって、マズイんじゃね』って思っちゃうかも」
娘「じゃあ、ふらふらさにブレがない、っていうのがいいじゃん」
父「そっかー、迷いなくふらふらするんだな。万物流転っぽいぞ」
娘「はーい、私はそれでーす」
<お題:信念習慣症>
◼️「見通しのない」生活は、古い生活信念への固執からおきます。
環境も、自分もお互いがその関係を最適なものにバージョンアップし続けるなら、「見通しは常に良い」はずです。しかし、私もあなたも往々にして、今までの記憶に従った動きをとってしまいます。まあ、いつもの通りでいいかなって。すると、環境と自分がズレます。なぜなら、万物流転の世界で生きているからです。
「見通しのない」まま生活を続けるってことは、生活感情センサーの点滅に反応しないんですな。優越感(そのままでいいんだ、自分)、劣等感(ダメなまま行くしかないのさ、自分)、対抗感(競争することで何とかしよう、自分)、孤立感(もうほっといてくれ、自分)に浸っちゃうんです。
※留意1:前回まで「闘争感」ってしてたんですが、語気がきついなって思い直し、「対抗感」に変えました。
※留意2:ちなみに、生活感情センサーの代表として挙げている4感情は大きく2つにタイプが分かれます。「優越感」「劣等感」は結果固執タイプで、「対抗感」「孤立感」は原因固執タイプです。どちらも、固有の因果関係のズレに感情が反応しちゃうってことですね。タイプは因に重きがあるか、果に重きがあるかだけの違いなのです。
◼️依存による信念習慣症
この代表的な4感情は誰にでもあります。小生も常にどれも感じます。重要な分岐点は「生活感情センサーが反応している」ことに自覚できるかどうかです。
しかし、「見通しの良さ」に向かって自分の信念を変えないならどうなるでしょうか。発達理論ではこれらを中毒(アディクション)とも言っています。人は長く囚われの身になると、囚われていることが楽になってくるんですね。自由より抑圧が良くなってしまうのです。
ここで参照したいのが、エーリック・フロム。
自分の今までの人生の信念に無批判のまま従属することは楽です。でもです。一回や二回ならいいのですが、習慣化してしまうと、今度は抜けるのが辛いのです。
たとえばです。「会社に忠実に生きること」とか「長く休むことは良くない」とか、誰が決めたのか知らないけど、強く信じていればその場その場では正しい判断に見えます。一旦、それに従ったならどうでしょうか。過去の信念に従ったという記憶を正当化したくなりますよね。ええ、「私」の一貫性が保てますからね。悲しいかな、ブレがないのです。すると、ますます特定の人生の信念が不動のものになっていきます。
小生も大会社を辞めてフリーランスになるのに苦労しました。どんな苦労? 自分の中に出来上がった「一つの会社に定年まで勤めるのが良い生き方」というメンタルブロックを取り除くのに、です。
これは一種の慢性病とも言えます。命名するなら、信念習慣症
信念習慣症の原因には各種ありますから、生成AIにも目配せの範囲を出してもらいました。
アイデンティティと認知的不協和などは重なっている感じがしますが、まあ、おおきくまとめると図表202のようにできそうです。
信念習慣症の原因をグルーピングすると大きくは3つ。状況が創る抑圧で今までの信念に縋ってしまうパターン。内部環境からの抑圧は、自分自身の人生体験に一貫性を持たせようとすることで、今までの信念を盲目的に正当化してしまうパターン。外部環境からの抑圧は、自分が育った環境自体に影響を受けて、社会的に従うことが正しく見えるようにさせてしまうパターン。ましてや、原因が複数重なり合ってたりするのがほとんどでしょう。手強いっすね。
逆から言うと、「見通しのない」生活が維持され信念習慣症になってしまう時、人は感情的な依存症になっています。何かで紛らわさなければ「見通しのない」生活には耐えられないはずだからです。つまり、特定の感情が「私」の人格の一部としてカウントされてしまってるんですな。
で、主要な生活感情が依存症に変容するケースを試考しましょう。過剰な優越感はプライド依存症になって常に自分が「すごい」人であるように証明しようとします。過剰な劣等感は逃避依存症になって、チャレンジに対してできない理由や言い訳を追求します。対抗感は敵対依存症になって、相手の足を引っ張ることも含めて勝ち負けに拘ります。孤立感は憐憫依存症になって、自分が社会の被害者であり、可哀想な人であることを周囲にアピールします。
◼️信念習慣症への処方の一つ、箴言マントラ
信念習慣症は負のループを持っています。古い信念を放置しておくと、古い信念に固執する力が自動的に増大してしまう循環が、負のループです。
さて、この反対もあります。負のループから脱出するのが正のループです。しかし、前述したように、負のループは内側への渦巻きがあって、どんどん巻き込まれていくのです。「小学校は、みんないくでしょ」と父として発言すると、父としての発言に一貫性をキープしようとして、ますます「学校は誰もが行くのが、正常な姿だ」みたいに記憶された信念が増幅しちゃうわけですな。
ここには感情エネルギーが報酬になって、古い信念を守ることにメリットを感じてしまうのです。父は自分がキッパリ断言することに小さな陶酔を得るのです。言い切った、「いいぞ、俺」みたいな?
この連鎖していく負のループに生活マントラで楔を打ちたい訳です。
箴言(しんげん)とは、教訓の意をもつ短い句。戒めとなる言葉です。生活マントラは個々人のオリジナルですけど、別に一般的なフレーズでもいいのです。いや、むしろ、箴言と呼ばれる定番モノの方が、口ずさむ時に「私、戒められてます」ってな感じがするのではないでしょうか。
事例となりそうなものを用意してみました。あくまでも小生の好みでのチョイスでございます。
・選定した箴言マントラ
我唯足るを知る→優越感の反応から保留へ
塞翁が馬→劣等感の反応から保留へ
一期一会→対抗感の反応から保留へ
唯我独尊→孤立感の反応から保留へ
「うちの子は小学校にはいけないのか、とはいっても、フリースクールでの出会いもあるだろう。どこに行っても一期一会やも知れぬ」と自分に語ると、何か第三者から諭されるような気分になります。「子供に押し切られた不快さは、それもまた良し」といった気分に転換されます。そう、少なくとも転換される確率は上がるでしょう。箴言マントラの良さです。
・<お題「多元感情」>
◼️感情を感覚から眺め直す
こうやって生活マントラを押し込んでみて、生活での感情って何かな?って思い始めました。ここまで、生活感情センサーってグイグイ使ってきたわけです。ちょっと異なる角度から試考してみます。
そもそも感情って喜怒哀楽みたいな区分けがなされています。ここでの生活感情センサーは、もう少し複雑でしょう。なので、何か視点を変えられると、「喜怒哀楽から生活感情センサーまで」の距離感が説明できるのではないか?
ということで、対称性を探しに類似カテゴリーへ越境してみます。
身体感覚と思考感情を対比させてみましたBody-Mindで眺め直してみたものです。身体に対して感覚がメディアの役割としたら、思考に対して感情がメディアに該当する、としてみました。身体感覚の五感と同等なのが、思考感情の喜怒哀楽になります。ちなみに、数字使って単純化するなら4つの感情なので4感。これが原感覚と原感情の階層です。
感情の複合系はやや複雑さを持っている感情群です。つまり、原感情が組み合わさってできるものと試考してみます。化学メタファーなら、原子が分子になるやつですかね。
造語である複合的感情も生成AIで整理すると、以下の様相になります。
こうやって複合感情を並べながら、そこからもう一段濃いものとして、優越感、劣等感、対抗感、孤立感を置き、これらを多元感情にしてみました。化学メタファー押しで行くなら、原子ー分子ー高分子化合物か? 生活感情センサーって、特定のタンパク質を利用しているみたいなものにも見えてきますな。タンパク質自体に良し悪しはないので、過剰摂取を避けましょうっていう話なのかも。(過剰な摂取を放置すると信念習慣症の危険が高まります、みたいな?)
身体感覚に戻すと、複合感覚は鑑賞系(映画とか音楽とか)が該当しそうです。目と音、耳と肌みたいな感覚の重なりを当ててみました。そうなると、多元感覚っていうのがあって、ここには行動を伴う自発的な身体感覚(もっと能動的な身体性)が入りそうですね。クリエイティブな制作作業も多元感覚かな。高分子化合物っぽい感覚の組み合わせがそこにありそうですしね。
もちろん、多元という表記の出所は「多元的知能の世界: MI理論の活用と可能性」(ハワード・ガードナー)で、ここから感覚や感情に援用したものになります。
◼️魂的直感に敷衍(ふえん)してみる
感情を感覚と対称性で拡張してみたので、ここまで来たなら、Body-Mind-Soulまで揃えたくなるのが人情です。おいらだけか?w
引き伸ばしちゃおう。
身体感覚;原感覚ー複合感覚ー多元感覚なるものがあるとして
思考感情:原感情ー複合感情ー多元感情なるものを思創してしまいました。
じゃあ、魂的直感はどう書けるかな?という問いでございます。
すると・・・
対称性をキープして話を進めるなら、原直感が最初にきます。原感覚ー原感情ー原直感の並びの原直感は、まさに第六感ですね。数字に置き換わるのは精神衛生上でしかないけど、「見通しの良さ」を感じるな。確かに、五・四で六という番号順がやや気になるが、良しとしよう。
次に、複合直感っているのがあっても良いはずなので、ここって直感からやや俯瞰したニュアンスのある直観か? 兆しや予兆といった環境系の直感群なんかもありそう。
最後の、多元直感となるとどうだろう? 言葉にしずらいけど、意味ある偶然(セレンデュピティ)も含めた霊性直感ってことだろうか?
まあ、あくまでも遊戯でしかないけど、収まりは悪くなさそうです。魂的直感は、たぶん生活思創の最終テーマになると予感します。
いや、予兆を感じるw
娘「古今東西のしんげんには、それなりの意味の厚みがあるんだね」
父「そういうことだ。口ずさむだけでも十分に役立っているのだろう」
娘「父は、心までも習慣病予防っすか?」
父「否定できません。運動不足解消や食習慣の徹底と同じってことやもしれん」
娘「大人になるとダラダラできないし、好きなもの好きなだけ食べれないから気の毒だと思ってたけど、しんげんとかも唱えなきゃならんのか」
父「おまけに『見通しのなさ』を感じたら、再検査ってことかい。トホホ」
娘「泣くでない! 元気な父でいてくれよ」
Go with the flow.
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