親と子の生活リテラシー<その6>「友達」について
今回は「友達」について生活思創します。子供二人(小学6年の娘と小学1年の息子)がいると必然、子供の友達とも会う機会が増えます。特に上の娘は、ほとんど毎日、不登校でフリースクールに行っているにもかかわらず、元の小学校にも友達がいます。まあ、小学校3年までは通ってたので、そこでできた友達ですね。で、その何人かと我が家に週末に集まっては、ゲームしたりしています。根っからのフレンドリーなのか、それとも、サバサバしている姉御肌なのか? 自分だったら気後れして疎遠になっていくであろう、だが、そうはならない動きに感心します。子供の友達関係といえども、強度の高い友情って、人間関係へのメッセージ性があるなって感じるのです。
娘「今週の日曜日にも、イツメンとうちで遊びたい。テレビ・ゲームしたいから、その日はリビングに集まってもいいかな?」
父「イツメンって誰?」
娘「いつものめんつ、A君(男子)とBさん(女子)の二人だよ」
父「小学校の方の子たちね。どうやって連絡取り合うの?」
娘「下校の時にフリースクールに寄ってくれる時があるから、その時。ほら、結構、元学校の子がこっちのフリースクールに来てるから、知り合いも多いんだよ」
父「いいね、友達関係が続いてて。トーチャンが不登校だったら、縁が切れてたと思う」
娘「人は誰でも面白そうなところに集まるんじゃないかな」
父「親から見ても、あなたは歯応えのある生き方してるからな〜」
◼️「友達」リテラシーを試考するための見取り図
今回のお題は友達です。始まる前に友達(Freiend)と友情(Freiendship)を定義します。
友達(Friends)、互いに知り合いで、共通の興味や活動を通じて定期的に交流する個人を指します。つまり、人単位です。友達が多いとか、少ないとかは、人でカウントします。一人、二人、三人・・・・
友情(Friendship)友情は、友達間の感情的な絆や関係性を表します。つまり、気持ちの単位です。気持ちの単位なので、友達かどうかは、友情を感じる気持ちの量で測られます。 なし、少なめ、半々、多め、かなり多い・・・
さて、ここを起点に試考します。進め方ですが、こんな感じの段取りで行いきます。
・1:友達を友情視点で深掘りしていく
・2:友達には、人数という量の観点、付き合う様子という質の観点があるので、この2点を分けてアプローチ
・3:親友、ソウルメイト(Soulmate)という単語があるので、これは量でも質でもなく深さという観点でアプローチしてみる
目次を図解してみたのが図表136。友達の質・量・深さの3方向を試考しながら、友達についてのリテラシーを思創してみます。
◼️<友達の質>友情感という概念で試考してみる
友情ってあまりにも望洋としてます。「友達の質」なんて言うとあまりにも解釈の個人差がありすぎます。「美味しい料理」みたいな表現でしかないのかもしれない。 誰も反対しないけど、誰も前に進めないw
ということで、そのままでは小生の手に負えないので、友情感(体感ベースのフレンドシップ)という概念を設定して、扱えるような工夫を施してみます。
友達の存在があるとして、そこに友情が働いている。ということは、「私は、見えないけど何かしらの友情感をあなたに感じているはず」という論法です。行動と身体から挟んでみよう!
<行動からの言語化>友情感を行動から試考する:
人間関係には何らかの行動が伴いますよね。手間暇がかかるようになっています。もちろん、友人関係も同じです。関係力で友情感を支えるであろう、友達関係を関係力にまで言語化してみます。
図表137では、生成AIで健全な友達関係の条件を出してもらって、これを叩き台に、友達として成立する関係(友情感を発生させる力が出ている状態)を整理しました。AIからの提示は7条件。これを4つの行動に圧縮してみました。
・階層除去力:対等であり、信頼があることが友達の前提なので、友情感を発生させるには上下関係や、外部と内部の関係といった階層(断層)を除去する力が必要です。
娘が元学校、フリースクールの断層?(小生的には気後れとか後ろめたさ)に意識を向けないように。大人なら、年齢的な差を相手に意識させないように配慮する力が求められます。もう年配なので、フラットな言い回しも気をつけねばなりません。カジュアルさが上からっぽく受け取られる可能性がありますよね。
・過剰求心回避力:どちらからもお互いに近づきすぎない。プライベートがあっての友達関係なので、相手の都合を慮れる意識の力が必要です。
娘がイツメンを集める時は、相手が自分のホームであるフリースクールに立ち寄る場面に限定し、こちらから出かけない・押しかけない。小生なら、お互いの話すネタが溜まるぐらいのインターバルを意識して会うタイミングを提案するような配慮でしょうか。
・過剰遠心回避力:どちらも離れすぎない。会う期間が長くなれば疎遠になるのが世の常です。自分からメンテナンスにいく、いい意味での厚かましさは必要です。
娘の場合も、「うちに集まろう!」というのはイツメンにも居場所を提供する機会になるので、様子を見計らって積極的に誘ってるようです。いいだしっぺであることは美徳です。また、具体的であることも大切。「また、一緒に遊びたいね」みたいな表現は、友達とは言えないですよね。
・関係修復力:好きなことが言える、好きなことを言われても許せる、ここまではいいでしょう。でも、許せないことが起きても元に戻せる、というのは本当の友達であり続けるための必須条件でしょう。
娘もそうですが、イツメンたちとのトラブルからの関係復元力は大したものです。というか、子供の頃って、このあたりの素直さがピークです。羨ましいね。小生のような大人になると、変なプライドやら妄想が修復のタイミングを逸しさせることが増えていきます。
<身体からの言語化>
今度は体の中から眺めてみましょう。質の良い友達との語らいやら、活動って、何か気分がいいわけです。楽しかったりホッとしたり。身体的な変化が伴っているからこその気分です。ここでの友情体験が引き起こす気分は、体内分泌物が発生していると考えられます。
AIで、気分による体内的変化の一般論を押さえてみましょう。
友達との場の共有は何らかの「楽しい」体内的変化が起きてるはずなので、楽しい時の体内的変化にある主要4分泌物(ドーパミン、エンドルフィン、セロトニン、オキシトシン)のどれかを体の中に感じている可能性が高いわけです。軽さも友達関係の良さなので、大袈裟にドーパミンがドバドバではないだろうけどw。
あと、この4種も当然のことながら役割は異なります。大きく区分すると覚醒系と弛緩系です。
すると、こんな自己分析もできますね。
まずは覚醒系。「昨日の友達との会合は盛り上がった。愉快な気分にさせてもらって、ちょっと、仕事での凹みがすっきりとれた」
4つの分泌物で説明するなら、覚醒系(エンドルフィンとドーパミンなど)の体内分泌で盛り上げてくれたのが友情だった、って再解釈できます。
ついでにもう一つ、今度は弛緩系。「久しぶりに会った友達とは、近況のやり取りだけで十分に楽しめたし、ともかく、ほっこりできた」
こちらは弛緩系(セロトニンとオキシトシンなど)の体内分泌でまったりさせてくれたのが友情だった、と再解釈できます。
ここでは分泌物や体内の化学的な反応まで解像度を上げる気はありません。専門すぎるし。よって、この「覚醒系の身体変化」と「弛緩系の身体変化」が、良い友達と会うと起きそうだ、という話に繋げるだけにとどめます。
行動と身体の話をまとめると・・・
図表139みたいな行動と身体で友情感に度合いを与えてみました。友情感という体感通じて、「二人は友達」(「友達と呼べそう」から「友達なのは間違いない」まで)にレベル感を与えてくれるわけです。これが友達の意味としてみます。
◼️友達の数と人生軸を重ねてみる
今度は友達の量の話です。友達の数の標準数みたいな話って結構ありますね。有名なのはダンバー数150人とかです。俗言う、マジックナンバー(具体的な数が法則として決まっているように流布しているもの)っぽく使われています。これも前提条件や友人の規定が変われば、あまり当てにならない数字です。
※留意。この生活思創もあまり当てになる話ではないけど。目指しているのは「生活に見通しの良さ」を感じさせる話なのだ!w
量的な話も個人ごとの実感差が大きいので、扱いが難しそうです。なので、こういったマジックナンバーを使わないで、友情感はあくまでも量感として参照して、試考してみます。
生成AIの年齢の5区分を反映して横軸を、そして、友達の数の代わりに友情感を感じさせる度合いを縦軸にしてみたイメージが図表140です。ここでの友情感100%が親友となります。ただし、規定はないので「あなたにとっての親友観を反映させてください」ってことです。これであれば、個人差を気にすることなく、自分自身の生活実感で世界を見れます。自分の中で最も友情感が高い人を想定してみてください。「一番親友っぽいのはXさんかな?」みたいな。友情感100%かどうかを眺ればいいのです。
実際の話、ほとんどの人がそうだと想定してますが、親友の数は限りなく少ないでしょう。 いや、むしろ友達の数自体が怪しい。ほとんどがが知人レベルで止まってると感じてる人もいるでしょう。
「友達なんかいなくていいんだよ」(by タモリ)という意見もあります。
自慢ではないですが、小生も友人は非常に少ないです! 生活思創とかやっている人ですからね、面倒くさそうな人物だもんね(苦笑
しかし、小生がコンサルで通用したのは、クライアントからのどんな面倒くさそうな課題にも、まるで自分ごとのように取り組める態度があったからだとも思っております。ええ、本性を生かした職業だったのです。
友情感と人数感をシルエットにして、イメージしてみたものが図表140です。
・幼少期は、与えられた環境で出会う人と全て友人状態になれる。ただし、友情感はそれほど必要としないので度合い50%上限みたいな感じにしてます
・青少年期は、学校での出会いが大きく、一律に知人が増えます。同時に、友達もセレクトされますので、友情感も50%以上の友達が多く出てくるイメージです。ただし、親友となるとまだ保留段階です。意図的な友情感を相互が高く維持できることはあるでしょう。でも、まだ交友の期間自体が長くないので、100%と言うにはやや足りない感じかな。
・若年青年期は、社会人前半を想定しています。社会に出ることでの知人の数が増え、そこから、自分と気の合う友人が出て、また、身体性も充実してますし、効力もあります。当然ながら、手持ちの友情力は高いと言えます。なので、その中から親友と呼べる人も現れる段階というイメージです。
・中年期は、社会生活が落ち着くので、同時に知人が増える機会が減っていきますね。ベースが減っていく感じなので、友情度合いは過去資産の継続になっていきます。
・高齢期は、社会との距離が徐々に離れたりしますし、行動量が減ってきます。行動と友情感はリンクしているので、友達も減ってきます。
このイメージ図の精度は当てになりませんが、年齢変化での友情感の変化に関しては実感してもらえるのではないでしょうか。
親と子の生活に友達の意味合いを重ねてみます。
先の友情感の年代別変化を眺めると、子育て期である幼少期に親が貢献できそうなゾーンがありそうです。(黄色い矢印)
①「友情感に配慮した親子の場」って、親が子供の親友に該当する存在になることです。友情感を体現する機会提供になります。4つの態度(階層除去、過剰求心回避、過剰遠心回避、関係修復)で、相手である2つの身体変化(覚醒系、弛緩系)に貢献することです。って、書いてみると、素敵なパパの振る舞いっぽいな。
しかしです。親が親友と同等になるってことは、やや趣が異なります。親である自分も同じ友情感を得る付き合いになるってことです。友情感を高める行動様式(4つの態度)と友達的な体感(2つの身体変化)を意図した生活が、子供の幼年期の親の目指すゴールです。そう、情操教育ではないのだ。父の仕事も重要だが、父の親友も大切なのだ。親としては正しい、しかし、親友としてはナイスなのか? 問いの幅がゆらぎをくれます。
生活思創は、視点が変わり、生活への意識の当て方が変わることを目指しています。生活の「見通しが良くなる」選択に貢献したいのです。
②「友情感に配慮した場の提供」というのも図表右下に加筆してます。親が自分で自分のための知人エントリー枠を増やす姿勢を子供に見せましょう、という推奨です。中年期以降の大人になっても知人を増やしていくことは、その中から友達や親友が出現する確率を上げてくれます。その先には、細くなる自分の友情感をアップする機会に通じます。でも、主目的は、知人を増やそうと労力を惜しまない姿勢を子供に見せる、ことなのです。
小生の場合、娘が幼稚園の時に「お父さん会」というのを主催しました。その後も不定期ながら続いています。コロナもあって開催頻度は少なくなってきたものの半年に一回程度、ただ集まって近況をシェアする(お父さんの一人が経営する居酒屋で飲む!も含め)だけの話です。集まりの大小は関係ないのです。自分の父親が場を主宰して、知人・友人を増やそうとしている姿を子供たちに見て欲しいわけですな。いつの日にか思い出す原風景になればいいなあ、と期待しているのです。
◼️親友をベースに「友達の深み」について言語&図解の試み
友達の質の話と、量の話に触れたので、最後は深さの話にいきます。友情感100%を親友レベルとしてみました。親友をベースにした言語化と図解化に進みます。
まずは、親友と言っても曖昧すぎるので、目配せする範囲を絞ります。
AIからは5タイプの親友が提示されてきたので、これをまた叩き台にして、親友分類の図表に押し込んでみましょう。5タイプあっても概念のレベル感が異なるので、整理します。大きくは、交友期間と外部のコンテンツでできる親友3タイプ(楽しい時間、共通の趣味、長年の付き合い)と、質的な友情感を反映している意味重視の親友2タイプ(知的刺激、感情的支援)に分けられそうです。
まずは、図表142の左側が3タイプから。この3タイプを眺めてみると、親友の規定としてやや不安定なのは差し替えが効く可能性があることです。あっさり言うと「それって、親友じゃなくてもいいじゃん」というツッコミです。ただし、グラデーションがありそうです。
「楽しい時間の共有」は親友でなくてもいいのは、外部コンテンツの魅力が高いからです。次の「共通の趣味の共有」になると、これも親友でなくてもOKなのだが、お互いの趣味の背景を知っているなら、外部コンテンツの楽しさは倍加します。そう言う意味で、差し替えは「やや可」。長年の付き合いはその長年の時間がコンテンツなので、さしたる外部コンテンツは入りません。もちろん、親友はなくてはならない状況です。差し替えは「不可」。
こんな親友タイプのグラデーション。
視線を転じて右側へ
この知的刺激と感情的支援は、友情感の2つの方角である覚醒系と弛緩系とつながりそうです。今回はこの流れに「見通しの良さ」を感じるので、この2X2要素で試考してみました。二軸でできたのが図表143です。
知的刺激を「知的覚醒ー知的弛緩」として、感情支援を「感情覚醒ー感情弛緩」にしました。さて、この幹線道路が引かれた白地図に、図解をプロットしていきます。
まず、友達抜きの世界を描きます。感情的と知的の覚醒の楕円(マゼンタ)は、外部イベントへの参画で賄えるゾーンです。つまり、友達なくても成立します。もちろん、先の楽しさを共有するケースと同様に、そこに親友がいるのはもっと楽しいでしょう。コンサートに行く(感情的覚醒寄り)だったり、勉強会に参加(知的覚醒寄り)したりするのが該当します。なので、友達が一緒かどうかは任意。
そして、この反対は内面的な静かな世界(ターコイズブルー)です。基本は一人での休養であったり(感情的弛緩寄り)、読書のような教養(知的弛緩寄り)だったりします。ここは親友や友人のいないプライベートな時間と言えます。むしろ、「一人にして」なので友達は不要です。
さて、やっと本丸の図表に行きつきました。点線の楕円周辺に友達がいます! 親友を含めた友達の特性は、一人ではなかなか行き着けないゾーンにこそ存在意義があるという仮説です。やはり、友達・親友は生きている上で必要なんだな。
特に親友は、この感情的覚醒でありながら知的弛緩が取れる人であり、相手の気持ちの汲み取りと気持ちの発散に貢献します。そして、同一人物でありながらも、二人の置かれた状況に応じて、知的覚醒でありながら感情的弛緩も取れる人になります。この時は、相手の好奇心の創出と発散に貢献してくれるわけですな。
この友達ならではのゾーンから友達を語るなら、「私にはできない、もう一人の私」と「あなたにはできない、もう一人のあなた」が出会う関係、でしょうか。
ちなみに、友情感50%の友人とは、相手の気持ちの汲み取り側での貢献のみ、または、相手の好奇心の創出への貢献のみ、という位置付けになります。一緒であることの魅力はあるけど、一緒にいたい状況は限られているのが、友情感50%の友人(親友と知人の間)の意味です。飲みに行くならあの人、愚痴を聞いてもらうならあの人、みたいな。
娘「テレビゲームもAIモードで友達っぽく遊べるけど、やっぱり、本当の友達じゃないと盛り上がらないよね」
父「一人じゃ引き出せない面白さが自分の中にあるらしい。それを引き出してくれるのが友達ってことだな」
娘「沢山の人と会えば、自分の面白さも引き出されるのかな」
父「そうだね、人と会うのは人生のビタミン剤だ、って諺もあるんだ。生きるのに必須の栄養素なのに、自分自身では作ることができないでしょう。だから、外から手に入れるんだって」
娘「いい話じゃん。友達はビタミンがたっぷり入っているんだ」
父「親友は、人生のビタミンのサプリメントってことか・・・。友情が錠剤になって詰まっているやつね」
娘「薬箱にしまいっぱなしはダメですよ」
◼️<おまけ>ソウルメイト(Soulmate)にまで近づいてみる
こんな感じで親友を規定して、そこまでの友情感の度合いで友達を語ってみました。さて、最後にソウルメイトを<おまけ>で試考してみましょう。
小生もソウルメイトが自分にいるわけではないのですが、過去、何人か「私にはソウルメイトがいる」と公言している人に会っています。ややスピっぽい話なので、本当にそんなソウルメイトっているのかな?なーんて、思ってたりもしてた。しかし、一回は押し込んでみます!
今回の話の流れを最大活用して試考します。でも、あくまでもヨタなおまけ話です、ご留意くださいな。
まずは、ソウルメイト知らない人もいるでしょう。生成AIの「親友とソウルメイトの相違について」を掲載しますね。
もし、親友の先にも「友達の深さ」があるとしたら、このソウルメイトの方角ではないかと考えております。「深い」は量と質とは異なる軸です。つまり、親友とは異なる、それでいて質でも量でもないベクトルを、この「深さ軸」は持っているはずです。特に印象的なのは二人の間でのシンクロニシティ(意味ある偶然)が多発するらしい、ということです。引き合うんですかね?
親友までは、あくまでも人の心(Mind)の中での存在でした。ソウルメイトはここを越えようとしてます。「魂:Soul」-「心:Mind」-「体:Body」の3領域の分け方ならソウルは当然として、シンクロニシティまでも視野に入れるなら、ボディまで拡張できている存在だろう、と試考します。
二軸を、霊性(ソウル)と身体(ボディ)に差し替えます。で、ここに親友の場面と同じように要素を載せてみると・・・
図表147では、霊性と身体の覚醒に社会貢献活動やリトリートなどを置いて、この逆サイドには瞑想やヨガなどがありそうだ、としてみました。「環境にある外部イベントとの出会い」(エンジ色)は、友達と同じようにソウルメイトが一緒かどうかを問わない、つまり、任意。また、「私の中にある内部イベントの時間」(黄色)も、友達と同様に考えるとプライベートの時間ですから、ソウルメイト不要ということになります。
ソウルメイトならではのゾーンは、この2つ(エンジ色、黄色)の楕円でカバーできない場所=点線の斜め楕円っていう見立てになります。
ソウルメイトは、霊性的覚醒ー身体的弛緩「言葉を超えて察し合う感情と理解」のある関係があり、また、状況が変われば、霊性的弛緩ー身体的覚醒「特別な体験や認識を身体的に共有」の関係があるのかもしれません。二人の状況に応じて変化する姿は親友と同じ。もし、こういう形での置き方が許されると、ソウルメイトならではの多頻度な相互のシンクロニシティや夢の共有なども説明できる感じがするのです。
まあ、ソウルメイトの話に「見通しの良さ」は不要なんだけどさ。
Go with the flow.
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