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視聴記録『麒麟がくる』第38回「丹波攻略命令」2020.12.27放送


<あらすじ>

坂本城にいる三淵(谷原章介)に、ついに信長(染谷将太)より切腹の沙汰が言い渡される。戦は依然として続き、光秀(長谷川博己)は三好の一党や一向一揆の連合軍との戦で戦果をあげる。そんな折、美濃から斎藤利三(須賀貴匡)が主君・稲葉一鉄(村田雄浩)のもとを逃れ、家臣にしてほしいと光秀のもとへやってくる。利三の扱いをめぐり信長に呼び出された光秀は、家臣一人の命も大事にしない主君では国は治まらないと説く。すると利三の命の代わりに、依然として敵対勢力が多い丹波を平定するように言い渡されるのだった。

<トリセツ>

帝の譲位にかかる1万貫はいくら?
御所での信長、関白・二条、大納言・実澄の密談で、信長は帝の譲位には新たな御所造営や儀式を行う費用に1万貫はかかると話しました。
この費用を現代の価値に換算すると、1貫=約15万円。1万貫=およそ15億円という多額の金を出資することになります。
しかし、信長が後ろ盾となって帝の譲位を進めることができれば、親交を深めている帝の嫡男・誠仁親王を通じ、朝廷との関係をより強固なものにすることができます。

<紀行>

京都府京都市。三淵藤英(みつぶち・ふじひで)の居城があった伏見は、水陸交通の要所として栄えていました。伏見の産土神(うぶすながみ)、御香宮(ごこうのみや)神社。藤英の城は、この社(やしろ)の東にあったと記録されています。
代々、足利将軍家に仕えた三淵家。嫡男・藤英は、義昭の将軍擁立に奔走しました。反信長の旗を掲げ、義昭が出陣すると、将軍不在の二条城を守り、最後まで抵抗したといいます。
弟の細川藤孝の菩提寺、高桐(こうとう)院。細川家の記録に、藤英の位牌(いはい)があると書かれています。しかし、今ではその所在は明らかではありません。
坂本城で非業の死を遂げた藤英は、将軍への忠義を貫き通したのです。

★戦国・小和田チャンネル「麒麟がくる」第38回「丹波攻略命令」
https://www.youtube.com/watch?v=9v-l2Xv6U9Q

1.【復習】細川藤孝、三淵藤英の差「家臣の器」


■元亀4年/天正元年
2月26日 石山城、開城し、城割。
2月29日 今堅田城、落城。
4月6日   勅命により、足利義昭と織田信長、和睦。
7月10日 細川藤孝、織田信長より領知を拝領して「長岡藤孝」に改名。
7月18日 槇島城、落城。足利幕府滅亡。
7月21日 渡辺宮内少輔の一乗寺城を稲葉一鉄が攻め落とし、破城。
7月24日 明智光秀、山本対馬守の静原城を包囲。
7月28日 「天正」に改元。
8月2日   石成友通、細川藤孝&三淵藤英に淀城を攻められ討死。
9月24日 織田信長、北伊勢へ出陣。
10月8日 織田信長、東別所(桑名市)に本陣を移す。
10月日   明智光秀、東別所に山本対馬守の首を持参。
10月25日  織田信長、撤退。
10月26日  織田信長、岐阜城に帰城。
■天正2年
5月日  三淵藤英&嫡男・秋豪、坂本城へ。居城・伏見城は破城。
7月6日   三淵藤英&嫡男・秋豪、坂本城で自害。
■天正6年
2月9日   磯谷(磯貝)久次、吉野で討死。

細川藤孝「ともあれ、兄上もご無事で、ようございました」
三淵藤英「無事? 儂が無事で何がよいのじゃ。藤孝、お主、義昭様や幕府の内情を、密かに信長に漏らしておったな。いつから裏切り者に成り果てた!」
細川藤孝「私は気がついただけです。政(まつりごと)を行うには、時の流れを見ることが肝要だと」
三淵藤英「時の流れ?」
細川藤孝「この世には大きな時の流れが有る。それを見誤れば、政は淀み、滞り、腐る」
三淵藤英「それが、公方様を見捨てた言い訳か!」
細川藤孝「信様からの御沙汰をお伝えします。石成友通が篭城しておる淀城を、私と兄上、2人で落とせとのこと。よき機会を与えられました。この上は兄弟、力を合わせ・・・淀城攻めの手はずを、また後日。私はこれにて」
三淵藤英「十兵衛殿、儂は負け、そなたは勝った。儂は二条城で死んでもよいと思うた。説得に応じたのはただ一つ。義昭様のお命を助けていただけるかどうか」
明智光秀「私と三淵様の間に、勝ちも負けもございませぬ。あるのは、紙一重の立場の違い。私は今、そう思うております。この上は、この十兵衛光秀にお力をお貸し下さいませ。何卒」
(1年後、坂本城にて)
明智光秀「三淵様にはこの1年、山城の一乗寺、静原山の城攻めをはじめ、幾度もお力添えを給わりました。その三淵様の居城をいきなりお取り潰しにするとは・・・信長様のお考え、時に測りかねることがございます」
三淵藤英「主とはそういうもの。その時にこそ、どうつき従うか、そこが家臣の器。もはや古い考えかもしれぬが」

 元亀4年2月、足利義昭から離れた明智光秀への嫌がらせであろうか、(足利義昭の指示で?)明智光秀の居城・坂本城(近江国志賀郡)の北では今堅田城(近江国志賀郡)が補強工事を始め、南では石山寺(近江国志賀郡)を石山城にする改修工事が始められた。

 ──このままでは、坂本城が挟み撃ちにあって明智光秀が討たれる!

 織田信長は兵を派遣し、両城を落として事無きを得たが、この時、明智光秀の家臣である山本対馬守(山城国愛宕(おたぎ)郡岩倉)、渡辺宮内少輔(山城国愛宕郡田中)、磯谷(磯貝)久次(近江国志賀郡山中)が離反した。

吉田兼見『兼見卿記』「元亀4年2月6日と29日条」
6日丁巳、岩倉山本、渡辺、磯谷、対明智別心云々。
・・・
29日庚辰、明智至今堅田手遣、彼在城責落、悉明智討取云々。此時、千秋刑部少輔[注:千秋輝季(てるすえ)]討死了。月斎[注:千秋刑部少輔輝季の父・千秋晴季(はるすえ)]愁嘆絶入了。不便之次第也。明智者数輩討死云々。

 今堅田合戦の明智方の死者は18人で、リストを見ると、千秋輝季以下、「斎藤」「藤田」といった美濃衆の名がみられる。(斎藤利三も、藤田伝五も坂本譜代だとする説がある。)明智光秀は、「兵が足りない」として、美濃国、近江国志賀郡を中心に、兵をかき集めているようだ。

 さて、ドラマでは、3月に足利義昭が出陣したかと思ったら、「槇島城攻め」に切り替わった。省略された。
 実は、3月に出陣したものの、正親町天皇の勅命で、4月6日、和議となっている。この時、織田信長の名代として足利義昭の元へ派遣された3人は、織田信広、佐久間信盛、そして、なんと、なんと、細川藤孝である。(細川藤孝の顔を見た時の足利義昭の顔を見たかった!)
 7月に、足利義昭が和議を破り、二条城に三淵藤英を置いて、再び出陣して「槇島城攻め」となり、幕府軍は織田軍に破れた。捕らえられた兄・三淵藤英に対し、弟・細川藤孝は、「わが主君・織田信長公が、兄弟で淀城を攻めろと言ってくれた。つまり、兄を召し抱えるということです!」と喜んだが、兄の怖い顔を見て、「兄弟、力を合わせ」で言葉が止まった。「兄弟、力を合わせ、織田軍の一員として戦い、軍功をあげて、名をあげましょう」と言いたかったに違いない。「淀城攻め」では、兄弟揃って参加し、敵将・石成友通(元・勝龍寺城城主にして「三好三人衆」の1人。実は元亀元年に「長信」に改名している)を細川藤孝の家臣・下津権内(おりつごんない)が討ち、細川藤孝の名は、織田軍内で知られるようになった。

 ドラマで明智光秀が「この上は、この十兵衛光秀にお力をお貸し下さいませ。何卒」と三淵藤英に頭を下げていた理由が分からなかった。唐突に、何?──私(織田家家臣・明智光秀)に力を貸せってことは、織田信長に力を貸せってこと?(このドラマの欠点は、明智光秀が織田信長に仕える瞬間の感動的な描写がなかったことである。このドラマでは「御免!」と言って二条城から立ち去った時点で「織田信長の家臣になった」ということらしい。
織田信長「公方様から飛び出して来たとな? 十兵衛、儂に仕えよ」
明智光秀「はっ、ありがたき幸せ」
織田信長「儂のもとに飛び込んできた鳥は保護しないとな」
って会話がなかった。)
 ラストシーンの坂本城での明智光秀の言葉で、ようやく分かった。「三淵様にはこの1年、山城の一乗寺、静原山の城攻めをはじめ、幾度もお力添えを給わりました」──つまり、「明智軍から離反した静原山城の山本対馬守、一乗寺城の渡辺宮内少輔、磯谷久次の3人を討ちたいが、兵の数が不足しているので、与力になって」ということですね。(足利幕府崩壊後、幕府軍の武士は、明智光秀の家臣になっています。)

 三淵藤英は、織田家家臣(明智家の与力?)になりますが、天正2年5月、突然、嫡男・秋豪と共に坂本城に入るように命令され、天正2年7月6日、嫡男・秋豪と共に坂本城で切腹させられました。切腹の理由は不明です。

・ドラマでは、三淵藤英に「生ある限り、織田殿に付く事は無い」と言わせ、「三淵藤英は、最後まで織田信長の味方はしなかった。足利家に忠節を示した忠義の人」という設定でしたが、実際は織田軍の一員として、細川藤孝と共に淀城を攻めています。

・ドラマでは、明智光秀が三淵藤英の助命懇願を織田信長に直訴しようとすると、三淵藤英に「生ある限り、織田殿に付く事は無い」と断られました。「本能寺の変」の後、細川藤孝は、明智光秀から離れました。その理由は「明智光秀は、兄・三淵藤英の助命懇願をしなかったから」だとか。(天正2年5月に坂本城に入って7月6日に切腹ですから、明智光秀は、2ヶ月間、三淵藤英の助命懇願をしていたのでは?)

・三淵藤英父子の切腹の理由は不明です。ドラマでは、「由良の足利義昭と連絡を取り合って、織田信長を討とうとしているから」としていましたが、足利義昭が由良にいた期間は短く、三淵藤英が坂本城に入った3ヶ月前には田辺にいました。「由良(和歌山県日高郡由良町)」「田辺(和歌山県田辺市)」ですと、地図が頭に浮かばないばかりか、京都府福智山市の由良川や京都府京田辺市田辺が思い浮かんでしまうかもしれません。私が脚本家なら「紀州」「紀伊」とします。「紀州」なら地図が頭に浮かび、「紀伊国は畿内(山城国、摂津国、河内国、大和国、和泉国の5ヶ国)ではないが、畿内に隣接していて、チャンスが来たら、すぐに畿内に戻る」という足利義昭の気構えを視聴者が感じ取れるかと。

※『麒麟がくる』補足・室町幕府の滅亡と義昭動座
https://note.com/senmi/n/n59e1c8195576

・玉が生花(華道)を教えてもらっていました。生けていたのは、白百合と「秋の七草」の撫子でしょうか? ユリの花は上向きでしたね。横向きなら聖母マリアの象徴「マドンナリリー」ですが、横向きの鉄砲百合は九州・沖縄の花であり、坂本だと笹百合が一般的かな。
 ユリは、玉がキリシタンになる暗示、撫子は斎藤利三の登場の暗示でしょう。(斎藤利三の家紋は撫子です。)

・三淵藤英の切腹シーンは「?」でした。辞世を詠まないし、介錯人はいないし、三淵秋豪はいないし、雨が降っていて風が強いし。そして、三淵藤英の涙の意味は?

吉田兼見『兼見卿記』「元亀4年7月23日・24日条」
23日辛丑、令渡辺在城一乗寺、以稲葉伊予守扱退城了。即、東之郷以人足悉破却了。当所人足の事申理無別義也。
 山岡対州、滝川左近允来。石風呂所望の間申付也。羞夕飡了。
 明智十兵衛尉以使者案内也。明日、山本館へ令手遣、今夜此方へ来。直に彼館へ可出陣の由申也。相意得の由返事了。及暮明十[注:明智光秀]来。50人余在之。明朝各認の儀、可申付の由、被申之間、用意了。
24日壬寅、早天、明十、出陣。各認の義、申付了。山本館在所悉放火。未落城也。


 ドラマでは、明智光秀が、織田信長に「一乗寺城を落とし、仰せの通りに破却した」と言ってたけど、それ、やったの、稲葉一鉄だよ。

 「家臣の器」・・・主君と家臣の関係は、『論語』「顔淵」の「君君たり臣臣たり(きみきみたりしんしんたり)」(主君は主君の道を尽くし、臣下は臣下の道を尽くすこと)が理想でしょう。「君君たらずとも臣臣たり」の代表が三淵藤英で、「君君たらずんば臣臣たらず」の代表が細川藤孝ですね。

細川藤孝「細川藤孝の動向 -スパイの交替-」
https://note.com/senmi/n/n6693d53d2d69
三淵藤英「『麒麟がくる』に登場する三淵藤英は忠義の人だった。」
https://note.com/senmi/n/n63984fa31ee7

2.「三好の一党や一向一揆の連合軍との戦」


■天正2年

7月13日 織田信長、「第3次長島侵攻」を開始。(『信長公記』)
7月27日 明智光秀、織田信長に戦況報告。
7月29日 織田信長、明智光秀に作戦指示。
8月3日   明智光秀、伊勢長島攻めの後詰めとして鳥羽に在陣。
9月   明智光秀、細川藤孝と共に摂津国~河内国を転戦。
9月29日 長島一向一揆、殲滅。(『信長公記』)
11月13~16日 織田軍、帰陣。明智光秀も坂本城へ。

7月22日、明智光秀が織田信長に戦況を報告すると、

 ──書中具(つぶさ)に候へば、見る心地に候。

と褒められた。

「天正2年7月29日付明智光秀宛織田信長黒印状」(「永青文庫」)
 先書之返事。27之日付、今日、被見候。切々■■■[虫損]寔寄特候。次、南方之趣、書中具に候へば、見る心地に候。先度荒木合戦已来異子細無之由尤候。
 其方、在陣之所、鳥羽近近之由、定無由、断通相聞候。
 敵何時も川を越候者、係合一戦可然候。■■■[虫損]必物やしみを仕候て、聊爾之儀在之事候。其意得分別簡要候。
 伊丹之儀、兵粮於無之者、定落居必然候。仍両城相躵(しのぶ/こらへる)之由候。則時には攻入事成べからず候。於取出者、後巻に及ぶべく候哉。如何分別次第に候。
 将又此表様体、此中細々申し越し候へども、尚以申し遣り候。篠橋と云ふ所、又、大鳥居、此の両所、昨今、弥(いよいよ)執り巻き候。両所ながら兵粮一円無き事、慥かに相聞こえ候。5、3日迄は不可相延、可為落居候。此の両所に、一揆の中(うち)にても随分の者ども立て篭もり候。是をさえ攻め崩し候えば、根本の長島同前に候。長島の事も存之外雑人原(ぞうにんばら)逃げ入り候て、正体無きこと推量の外にて候。はや城中に男女の餓死、ことの外に多き由、相聞こえ候。彼此以て爰許之隙(ひま)、近日明くべく候の間、軈而(やがて)開陣すべく候。然る上は、上洛せしむ候条、万端期面談候。謹言。
 7月29日    信長(「天下布武」黒印)

【大意】先の書状の返信。7月27日付けの書状を今日(7月29日)に見た。奇特である。「南方(摂津方面)」の戦況報告は、詳細でその場で見ている心地がした。先に荒木村重が戦果をあげて以来、特筆すべき戦果、状況の変化が無いとのこと、承知した。
 「其の方(明智光秀)」、鳥羽(上鳥羽(京都市南区)~下鳥羽(京都市伏見区))近辺に本陣を置き、定めなき事、聞いている。
 敵がいつでも淀川を渡河したら、応戦すること。分別が肝要である。
 反逆した伊丹親興の伊丹城(兵庫県伊丹市伊丹)の件であるが、兵粮がなくなれば落ちるであろう。ただ、石山本願寺と連携しているので、即攻しないように。城兵が城から出てきて合戦となれば、御巻(援軍の派遣)をする。後は明智光秀の判断に任せる。
 こちら(織田信長が在陣している伊勢国方面)の戦況であるが、篠橋城(三重県桑名市長島町小島)、大鳥居城(三重県桑名市多度町大鳥居字前並)を包囲した。両城に兵粮が皆無であることは確実で、数日のうちに落ちるであろう。これら両城には「一揆之中にても随分之者共」(「長島一向一揆」の主力メンバー)が篭城しており、これら両城を落とせば、「長島一向一揆」を攻略したも同前である。長島は殊の外「雑人原」(雑兵共)が逃げ込んで正常な状態ではなく、早くも城内で餓死者が多く出ていると聞いた。以上のような戦況であるので、近日で「長島一向一揆」を平定して開陣し、上洛する予定である。

 ドラマでは、明智光秀が「三好長康を討ち逃した」と言っていました。高屋城主・三好長康(剃髪して咲岩。三好長慶の叔父)は、天正2年(1574年)4月、本願寺が再び信長に反抗し始めると、呼応して高屋城に入って応戦するも、天正3年(1575年)4月8日に降伏しました。1年間もよく耐えたものです。

3.斎藤利三


 ドラマは前回までが第3章で、今回からが最終章です。

 ──そして、斎藤利三の登場

 斎藤利三というと、「春日局の父親」というイメージが強いのですが、実は「本能寺の変」のキーパーソンであり、山科言経『言経卿記』には、

 ──日向守内斎藤蔵助、今度謀叛随一也。

とあります。「いよいよ「本能寺の変」かぁ」と心が踊りますね。「本能寺の変」後に「本能寺の変」について明智光秀と話した山科言経が言っているので、「本能寺の変」の動機は「斎藤利三黒幕説」が史実だと思われますが、このドラマでは、「朝廷黒幕説」が採用されるそうな雰囲気です。(正親町天皇が、明智光秀に「征夷大将軍にしてあげるから、邪魔な織田信長を殺せ」と言いそうです。もちろん、正親町天皇はそんな言い方はしません。雅やかな言い方で指示し、「本能寺の変」後には、「そんな事は言っていない。朕の言葉をそう解釈したのは、その方の誤解だ」と後で裏切るでしょうけど  ガクガク((( ;゚Д゚)))ブルブル。

『柳営婦女伝系』
利三 斉藤内蔵助、為斉藤新五郎養子。
 利三は、稲葉伊予守貞通入道一鉄が壻にて、幕下たり。利三、武功絶倫たりといへども、一鉄、取り立てざることを深く恨みて、立ち退く事、都合3度あり。然れども一鉄、種々に手を下す故、従属す。
 其の後、明智光秀が家臣と成りて、彼の手に属す。光秀は、利三が伯父たるの由緒ある故也。是に依て、光秀、信長公に深く憤りの事有りて、明智謀反を企て、光秀家臣多き中に股肱随一の5人の家臣に申し含む其の1人なり。
 光秀、天正10年壬午6月2日、信長、信忠父子を弑せられ、同12日、羽柴筑前守秀吉と光秀、山崎合戦の時、先登に進んで合戦し、敗北して大津の駅にて生け捕られ、粟田口にて磔罪せらる。
【大意】 斎藤内蔵助利三は、稲葉良通の娘婿で、家臣でもある。斎藤利三は、武勇に優れていたのに稲葉良通が取り立てないことを恨み、3度も出奔したが、その度に、あの手この手を使われて戻された。
 その後、明智光秀が家臣となった。これは、(斎藤利三の母は、明智光秀の妹であり)明智光秀は、斎藤利三の伯父だという縁による。しかし、斎藤利三を明智光秀が召し抱えたことに関して、明智光秀が織田信長に対して深く憤った事があって、明智光秀は謀反を企ることになった。明智光秀の家臣は多いが、斎藤利三は、謀反の企てを聞いた「明智五宿老」の1人である。
 明智光秀は、天正10年6月2日、本能寺で織田信長、二条城で織田信忠を自害させた。12日の羽柴秀吉と明智光秀の「山崎合戦」では、斎藤利三は先陣を務めたが、敗北し、大津で生け捕られ、粟田口にて磔にされた。


 斎藤利三の出奔の理由は、『柳営婦女伝系』に「利三、武功絶倫たりといへども、一鉄、取り立てざることを深く恨みて」(斎藤利三は武勇に優れていたが、稲葉一鉄が出世させなかったのを恨んで)、『永源師檀紀年録』に「一鉄齋ゑ諫言するに却て怒って勘当して逐つ」(稲葉一鉄に諫言したら逆ギレされて追い出された)とありますが、史実は不明です。
 ドラマでは「稲葉一鉄は、『寄らば大樹の陰』と、主君を状況に応じて変える人間で、命を預けたい主君とは思えなかったところに、名馬を売ってくれと言われ、断ると、草履を投げつけられたので堪忍の緒が切れた」としていました。馬の話は作り話で、元ネタは、『信長公記』の織田信長と平手五郎右衛門の話でしょう。

 三淵藤英の切腹の理由も、斎藤利三の出奔の理由も「不明」ですが、このドラマでは「由良の足利義昭と…」「名馬をよこせ、やらない…」ときちんと説明しているのがいいですね。それが史実でなくても、視聴者は納得するでしょう。

 斎藤利三が明智光秀に仕え始めた年月日は不明ですが、斎藤利三は、天正6年(1578年)8月9日に黒井城が落城すると、城主として入っていますので、明智光秀の家臣になったのはそれ以前のことでしょう。ドラマでは「天正2年秋」としています。
 斎藤利三の実兄・石谷頼辰は、幕府奉公衆(外様詰衆)で、足利義昭が織田信長に京都を追われると、他の幕臣と共に明智光秀に仕えていますので、この時(天正元年)、兄弟揃って明智光秀に仕えたのではないでしょうか。

《斎藤利三が明智光秀に仕えた時期》

①天正2年3月以前 『松平記』
②天正6年6月以前 『丹陽軍記』
天正6年(1578年)8月9日、黒井城落城。
③天正7年      『干城録』
④天正8年      『美濃国諸家系譜』
⑤天正8年6月下旬 『明智軍記』

※「斎藤利三なる人物」
https://note.com/senmi/n/n4cc7d6cb2075

※今回、「稲葉良通」が「稲葉一鉄」に変わっていましたが、改名した人は他にもいます。

・石成友通→石成長信(元亀元年)
・細川藤孝→長岡藤孝(元亀4年7月10日)
・木下秀吉→羽柴秀吉(元亀4年7月20日以前)
・稲葉良通→稲葉一鉄(天正2年)
・明智光秀→惟任光秀(天正3年7月3日)

「頑固一徹」の由来
 ドラマでは、明智光秀は、織田信長に対して自分の意見を曲げない「頑固者」として描かれているが、それは稲葉一鉄のことであり、「頑固一徹」の由来だという。

学問は身を助ける。
 天正2年(1572年)、織田信長は、「稲葉一鉄が織田信長を裏切る」という讒言を信じて、稲葉一鉄を殺そうと茶会に呼んだ。その時、稲葉一鉄は茶室にあった禅僧・虚堂智愚の墨蹟「送茂侍者」(そうもしじゃ)という詩をを読み下しながら、自分の無実を信長に訴えた。織田信長は、稲葉一鉄の学識の高さに感嘆して殺すのをやめたという。

4.丹波平定戦

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 丹波国は、現在の京都府~兵庫県にかけて存在していた国で、6郡から成ります。(一時期は松永久秀の弟・内藤宗勝(長頼)が席巻したが、彼の死後は)1人の戦国大名が支配していたのではなく、各郡を足利義昭を支持する国衆が支配していました。戦国時代では、船井郡の丹波国守護代・内藤氏、多紀郡の波多野氏、氷上郡の荻野(赤井)氏を三大勢力として、多くの国衆が群雄割拠していました。

口丹波(桑田郡、船井郡、多紀郡)】
・桑田郡:宇津城(宇津氏)→亀山城(明智光慶)&周山城(明智秀満)
・船井郡:南丹市・八木城(内藤氏)
・多紀郡:丹波篠山市・八上城(波多野氏)→明智光忠

奥丹波、奥三郡(氷上郡、何鹿郡、天田郡)】
・氷上郡:丹波市・黒井城(荻野(赤井)氏)→斎藤利三
・何鹿郡:(上林氏)
・天田郡:福知山市・鬼ヶ城(内藤 / 荻野氏)→福知山城(明智光秀)

※上掲の地図は、何鹿郡と氷上郡が逆。
※丹波三大山城:黒井城、八上城、八木城
※「丹波の赤鬼」=赤井直正、「丹波の青鬼」=籾井教業(のりなり)

 ドラマの明智光秀は、伊呂波太夫の手はずで丹波国に潜む近衛前久に会って、丹波国の様子を聞こうとしました。近衛前久の妹は、黒井城主・赤井直正の継室ですので、黒井城がある兵庫県丹波市春日町、あるいは、口丹波(丹波国の入り口)の余部城(丸岡城)がある京都府亀岡市余部町あたりで会うのかと思ったら、船井郡園部(京都府南丹市園部町。後に園部藩初代藩主・小出吉親が園部城を築き、小畠氏は家臣(藩主)となった)を指定されました。なぜ「園部」なのか分かりませんが、明智光秀が会いたい小畠永明の居城・宍人城は、京都府南丹市園部町宍人にありますから、都合が良いです。

 明智光秀は、近衛前久に、「小畠永明に治水とか、丹波の人々が困っていることを聞きたい。会わせて欲しい」と言いました。(明智光秀は、福知山城付近の「蛇ヶ端御藪(じゃがはなおんやぶ)」、通称「明智藪」の治水工事で有名ですね。)これは、「戦わず、調略しよう」という意図でしょうが、近衛前久は「会わせるが、丹波衆の調略は無理。戦いあるのみ。そんなことは1年も丹波に住んでいれば分かる」と言いました。反信長の国衆を倒して、代わりに親信長の国衆を置くという「首の挿げ替え」だけでいいのでしょうか?
 戦って土地を勝ち取っても、住民が従わなかったらダメなので、問題は「勝つこと」よりも、「勝った後の統治」にあり、そのためには「勝ち方」も大事でしょう。

丹波:亀岡盆地(亀岡から園部にかけての盆地)は、かつては「亀岡湖水」と名付けられた巨大な湖だった。「丹」は「赤」「朱」で、湖には海のように赤い波がたっていたことから「丹波」と呼ばれるようになった。都々古和気神社(京都府南丹市園部町熊崎)の縁起に「往古は、この国、湖にて、泥土、赤色なり。風吹けば、即ち、波高なり。その色、日に映えて赤し」とある。弥生後期に「丹波湖水」の水が抜けたようで、鍬山神社(京都府亀岡市上矢田町上垣内)の縁起に「出雲の神、亀岡湖水を開き、国土を開拓す」とある。(他に、「田庭」説、「丹場」説、「古代米(赤米)の穂が波に見えた」説などがある。)


■天正3年(1575年)
3月16日 今川氏真、相国寺で織田信長に蹴鞠を披露。
4月8日   高屋城主・三好康長(笑岩)、降伏。
5月21日 「長篠・設楽原の戦い」
6月9日   織田信長、明智光秀に丹波国への出陣を示唆。
6月10日 織田信長、小畠氏に明智光秀の道案内を感謝、知行安堵。
6月27日 織田信長、上洛して相国寺泊。
7月3日   織田信長、東宮(誠仁親王)の蹴鞠の会を見る。惟任誕生。
7月17日 織田信長、岐阜城に帰城。
7月26日 明智光秀、丹波国桐野河内へ着陣。
8月12日 織田信長、「越前一向一揆平定戦」に出陣。
8月21日 明智光秀、小畠永明の負傷を気遣う。
8月23日 織田信長、本陣を一乗谷へ移す。
9月2日   織田信長、豊原寺の焼討。明智光秀へ再出陣命令。
9月21日 明智光秀、「第一次丹波攻略」を再開。
9月26日 織田信長、岐阜城に帰城。
10月1日 明智光秀、丹波攻略開始。
10月8日 明智光秀、丹波国内に着陣。
10月21日  織田信長、本願寺と和議。
11月4日 織田信長、従三位権大納言に叙位・叙任。
11月7日 織田信長は右大将、織田信忠は秋田介に叙任。
11月16日  織田信長、岐阜城に帰城。
11月28日  織田信長、家督を織田信忠に譲渡。
11月(10月?) 明智光秀、「第1次黒井城攻め」開始
12月2日 明智光秀、丹波国内に「徳政令」発令。
■天正4年(1576年)
1月15日 明智光秀軍の敗北(「第1次黒井城攻め」)。
1月21日 明智光秀、坂本城に帰城。

 天正3年(1575年)5月21日、徳川&織田連合軍は、設楽原で武田勝頼を破りました。これにより東の脅威が無くなり、織田信長は、北(越前国)や西(丹波国)に目を向けることになりました。

 織田信長が、明智光秀に「丹波国平定」を命令した6月、明智光秀は丹波国入りしました。ただ、この時は「丹波国平定」ではなく、「内藤氏&宇津氏征伐」だったようです。

「天正3年6月9日付川勝継氏宛織田信長朱印状」
内藤、宇津の事
先年、京都錯乱の刻、此方に対して逆心未だ相休まず候哉。出仕なく候はゞ、誅罰を加うべきため、明智十兵衛を指し越され候。連々馳走の条、猶以て此時、忠節を抽んずべき事専一に候也。仍て状件の如し。
  天正3
   6月9日 信長(朱印)
    川勝大膳亮

【大意】「京都錯乱」(足利義昭の京都追放)以来、丹波国の内藤氏と宇津氏の反逆が治まらない。このまま出仕しないのであれば、制裁するために明智光秀を向かわせる。協力していただきたい。最高の忠節を示すのが第一である。


 この後、織田信長本隊が丹波国へ乗り込んで、本格的な「丹波国平定戦」が始まるかと思いきや、織田信長は、越前国内で農民と本願寺の関係が悪化していることを知り、織田信長本隊は「越前一向一揆平定戦」に向かい、明智隊も同行したため、丹波国内の戦いは、国衆同士の戦いとなりました。

 小畠氏は、明智光秀の丹波攻略において、亀山城普請、八上城攻め、付城の監察、忠誠を誓った丹波国の国衆が明智光秀に差し出した人質の連行など、明智光秀に協力した丹波衆として知られています。なぜ知られているかと言うと「小畠文書」が残されているからです。(他の明智光秀に協力した丹波衆については、史料がないので詳細不明。)

《小畠氏》

小畠貞明┬国明┬常好─正明
     |   └永明─明智伊勢千代丸
    └永好─信明

・小畠国明:越前守。
・小畠常好:助大夫。小畠家宗主。
・小畠永明:左馬進、越前守。明智光秀から「明智」苗字を拝領。
・伊勢千代丸:明智光秀から「明智」苗字を拝領。

※参考記事:「小畠氏について」
https://note.com/senmi/n/na70171db3bb1

★「越前一向一揆平定戦」時のエピソード

画像3

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明智神社と柴田勝家像(福井県福井市東大味町)

 天正3年(1575年)の「越前一向一揆平定戦」の時、柴田勝家が、明智光秀が、かつて朝倉氏に身を寄せていた時に住んでいた大味地区に兵を送り込もうとしましたが、明智光秀は、住民を討たないよう柴田勝家に申し入れをしたとされ、その感謝の意を込め、明智光秀の屋敷跡に明智神社が建てられました。


9月2日、織田信長は、明智光秀に対し、改めて丹波国への出陣を命令した。明智隊が丹波国へ入ると、連戦連勝であった。「天正3年11月24日付吉川元春宛八木豊信書状」(「吉川文書」)には次のようにある。

 ──丹波国衆、過半残らず惟日一味候。

 明智光秀は、11月、波多野秀治と共に黒井城の荻野直正を討つことにした(「第1次黒井城攻め」)。ところが、天正4年1月15日、波多野秀治が突然裏切り、明智光秀は、黒井城を落とせず、1月21日、坂本城に帰城した。

 ──こうして「第一次丹波攻略」は終了した。


 「徳川家康殿、コロナ感染」というニュースが流れてきましたが、どうも撮影終了後のことであり、『麒麟がくる』は12/27にクランクアップしたとのことです。以下は帰蝶様のご挨拶です。

撮了しました。とんでもない重さの、とんでもない大きさの、なにか大きいものから解放された気持ちです。この1年どこにいても何をしていても大河のことが頭の中から離れず、こびりついてて、有難いことなんですが、不安で苦しくて、プレッシャーを感じる日々でした。でもそれ以上に応援して声をかけてくれるひとがたくさんたくさんいて、私を支えてくれるスタッフがたくさんいて、背中を押してくれて、頑張ることが出来ました。麒麟がくるに参加出来たことが奇跡のようで、感謝しています!
今年は世界中が大変で、激動の年だったかと思います。まだまだ大変な状況ですけれど、こうして素敵な作品に巡りあい、少しでも皆さんに元気や希望を与えることが出来ればいいなと思い日々撮影をしてました!明るい未来がきっと、必ず、またやってくると信じてこれからも頑張りたいです。麒麟がくる、最後までどうかよろしくお願いします!!
1年間本当にありがとうございました!
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