見出し画像

『麒麟がくる』補足・室町幕府の滅亡と義昭動座

1.織田信長と足利義昭との和睦


3月25日 織田信長、上洛を決意。
3月29日 織田信長、上洛。知恩院に本陣を置く。
3月30日 足利義昭、京都奉行・村井貞勝邸を包囲。
4月3日   織田信長、洛外の寺以外に放火。
4月4日   織田信長、上京(賀茂~嵯峨)に放火し、二条城を包囲。
4月6日   勅命により、足利義昭と織田信長、和睦。
4月8日   織田信長、京から出る。
4月11日 織田信長、岐阜城に帰城。


 織田信長は、「このままでは今までの努力が水の泡となり、天下の笑い者になる」として、「今後も足利義昭を粗末に扱わない」という誓紙を提出し、人質を指し出して足利義昭に和睦を申し入れたが、「武田信玄、出陣。織田信長の同盟者・徳川家康を破る」と聞いていた足利義昭は強気で、和睦に応じなかった。

 織田信長は、将軍・足利義昭を脅すために上京に放火させ、二条城を取り囲むと(「御所巻」すると)、足利義昭は、正親町天皇の仲介(勅命)で、織田信長と和睦した。

2.足利義昭の再起と室町幕府の滅亡


7月3日   足利義昭、和睦協定を破り、槇島城に動座し挙兵。
7月9日   織田信長、上洛し、妙覚寺に本陣を置く。
7月10日 烏丸中御門第の三淵藤英、降伏。
7月18日 織田信長、槇島城を包囲、落城。室町幕府の滅亡。

 しかし、7月3日、足利義昭は、和睦協定を破棄し、烏丸中御門第を三淵藤英、伊勢貞興らに預け、自身は槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。
 烏丸中御門第については、三淵藤英が最後まで戦ったが、柴田勝家が説得して、降伏、開城させた。
 槇島城については、巨椋池の島に築かれた要害であったが、7万の織田軍に包囲され、すぐに落ちた。

 織田信長は、他の戦国武将の手前、足利義昭を殺さず、京都から追放した。こうして室町幕府は滅びた。とはいえ、『公卿補任』には、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、正式に征夷大将軍を辞する天正16年(1588年)1月13日まで、足利義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されており、実際、鞆の浦で「鞆幕府」を開いたという。

3.足利義昭の動座


京→槇島城→若江城→泊城→鞆の浦(「鞆幕府」)

 足利義昭は、織田信長と戦うために槇島城に入りますが、破れて、動座します。枇杷荘で1泊し、普賢寺で剃髪し、津田城、尊延寺を経て、三好義継の居城・若江城に入りました。これでひと安心です。約3ヶ月、滞在しました。
 11月16日、 織田軍佐久間隊が若江城を落とし、城主・三好義継は自害するのですが、この「若江城攻め」の情報をいち早く得た足利義昭は、11月5日、密かに若江城を抜け出し、舟で堺に動座し、さらに11月9日、和歌山へ向けて出港し、和歌山市内に足利氏館を建てて住みますが、南北朝時代から足利氏に仕えていた湯川氏を頼って興国寺に動座しました。とはいえ、すぐに湯川氏発祥時の本拠地・泊城に動座し、約1年間、滞在しました。ここで地侍の本宮衆玉置氏を動かすべく、2月6日に書状(御内書)を出しましたが、玉置氏は動かず、毛利氏を頼って、秘境・宮崎ノ鼻(和歌山県有田市宮崎町)から鞆の浦へ動座し、「鞆幕府」を開きました。

※天正2年2月6日付本宮衆宛足利義昭書状(「玉置氏文書」)
就今度信長恣悪逆、至当國候。此刻別馳走可為感悦、為其差越孝宗候。
猶眞木島玄蕃頭可申候也。
  二月六日         義昭(判)
   本宮衆徒中


7月3日    足利義昭、槇島城(京都府宇治市槇島町)に動座。
7月18日  槇島城、落城。
          足利義昭、枇杷荘(京都府城陽市枇杷庄)に動座。
7月20日  足利義昭、普賢寺(京都府京田辺市普賢寺)に動座。
     ※剃髪し、「昌山道休」と号す。(戒名:霊陽院昌山道休)
7月21日  足利義昭、津田城(大阪府枚方市津田)に動座。
7月22日  足利義昭、尊延寺(大阪府枚方市尊延寺)に動座。
7月22日  足利義昭、若江城(大阪府東大阪市若江北町)に動座。
7月28日 「天正」に改元。
11月5日  足利義昭、堺(大阪府堺市)に動座。
11月9日  足利義昭、足利氏館(和歌山県和歌山市屋形町)に動座。

■天正2年
月日 足利義昭、由良(和歌山県日高郡由良町)興国寺に動座。
月日 足利義昭、泊城(和歌山県田辺市芳養町)に動座。

■天正3年
※泊城に在城
■天正4年

2月8日  足利義昭、宮崎ノ鼻から船で鞆(広島県福山市)へ動座。

画像1


足利義昭が枇杷庄で御内書を書いた日付は「7月28日」。
この演出はきついですね。

 ──この日、改元されたことを、足利義昭は知っていただろうか?

ってことですよね。

ちなみに、7月28日には枇杷庄にいません。
枇杷庄には1泊しただけで、7月28日には若江城にいました。

最後に駒に言った言葉

 ──儂は駒を欺いてしもうたのかもしれんなぁ。

この時の顔は、肩の荷がおりて、覚慶の顔に戻ったように見えました。史実通りなら、7月28日には既に剃髪していますので、さらに覚慶の顔に見えたことでしょう。

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!