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細川藤孝の動向 -スパイの交替-

大河ドラマ『麒麟がくる』では、足利義昭の動向は、
駒→明智光秀→織田信長
乱波(実は透破)→木下秀吉→織田信長
というルートで織田信長に漏れているようですが、実際には、
明智光秀→織田信長
であり、明智光秀が足利義昭から離反すると、
細川藤孝→織田信長
に替わったと思われます。

■元亀3年(1572年)略年表


1月18日  細川藤孝、足利義昭の面前で上野清信と口論。
      ・上野清信:武田信玄と組むよう提案
      ・細川藤孝:織田信長との関係維持を提案
9月3日    織田信長、革島秀存の父・革島一宣を細川藤孝の与力とする。
10月3日  武田信玄、出陣(西上作戦)。
12月6日  細川藤孝、三条西実澄より「古今伝授」開始。
12月22日   徳川家康、三方ヶ原で武田信玄に敗れる。

■元亀4年(1573年)略年表


2月23日 織田信長、細川藤孝へ書状を送る。
2月26日 織田信長、細川藤孝へ書状を送る。石山城、開城。
2月29日 織田信長、細川藤孝へ書状を送る。今堅田城、落城。
3月6日   織田信長、細川藤孝へ書状を送る。
3月7日   織田信長、細川藤孝へ書状を送る。
3月25日 織田信長、上洛を決意。
3月29日 織田信長、上洛。知恩院に本陣を置く。
3月30日 足利義昭、京都奉行・村井貞勝邸を包囲。
4月3日   織田信長、洛外の寺以外に放火。
4月4日   織田信長、上京(賀茂~嵯峨)に放火し、二条城を包囲。
4月6日   勅命により、足利義昭と織田信長、和睦。
7月10日 細川藤孝、織田信長より領知拝領。「長岡藤孝」に改名。
7月18日 槇島城、落城。室町幕府、滅亡。
7月20日 「羽柴秀吉」初見(改名月日は不明)

1.元亀3年(1572年)の事


 細川藤孝は、兄・三淵藤英と共に将軍・足利義昭に仕えていた。
 元亀3年(1572年)1月18日、足利義昭の面前で上野清信と口論になった。上野清信が織田信長と手を切り、武田信玄と組むよう提案したのを、細川藤孝が、このまま織田信長との関係を維持するよう主張したのである。

※上野清信と細川藤孝は二条城の築城の時から犬猿の仲になっていた。
★惣奉行・上野清信の足軽と、細川藤孝の妻の甥・荒川輝宗の歩卒との喧嘩に細川藤孝が介入
https://note.com/senmi/n/n36845b2a77a3

 上野氏は河内源氏の流れを汲む足利氏の支流で、上野清信は、備中国鬼邑山城主・上野信孝の子だというが、実は養子である。彼の正体は、覚慶の寵童で、覚慶(後の足利義昭)の興福寺脱出以来、側近となって行動を共にしている。敵に回したら、幕府内での居所がなくなるという厄介な人物である。

2.元亀4年(1573年)の事


 織田信長が新年の挨拶に来たが、昨年、織田信長が足利義昭に「17ヶ条の異見書」を出していたので、両者の仲は最悪だった。それで、細川藤孝が間に入って、織田信長を岐阜城へ帰した。

 細川藤孝は、足利義昭に織田信長と仲良くするよう求めたが、聞き入れられず、逆ギレして怒られたので、鹿ヶ谷の別邸に約20日間引き篭もり、出家しようとした。
 これを知った杉原友之が足利義昭に伝えると、足利義昭は、兄・三淵藤英を派遣して、細川藤孝を二条城へ連れてこさせた。この時、細川藤孝は、高倉範国、伊勢貞隆等と相議して、足利義昭に「三ヶ条の願書」を提出した。

一、織田信長と対立するのを止めること。
一、若江城主・三好義継へ何度も使者を派遣しているが、三好義継は兄・足利義輝を殺した仇である。誅殺すべき人物と懇意にし、さらに、京都へ召し出されるとのこと。一体これはどうしたことか。
一、「近習」と称して尼子高久、番頭義元、岩成慶之、荒川政次を近づけておいでだが、この4人は、永禄8年に兄・足利義輝を討った仇である。それを知っての上で厚遇されるのは、彼等を助けた信長の心中を察して慎むべきであり、軽率すぎないか。

細川藤孝「三ヶ条の願書」(『綿考輯録』)
 天正元年癸酉(元亀4年7月28日改元)信長上洛。去冬、藤孝君、摂州の御戦功を御賞美。公方と信長、御不快ゆへ、年頭の賀をも述る事無、既に矛楯に及ぶべきを、藤孝君、和順を御取扱ひて、信長、是なく岐阜へ歸城す。因て藤孝君、しばしば将軍を諫むと雖共、聴れず。却て勘気を蒙り、鹿ヶ谷へ退き、既に剃髪せんとす。杉原淡路守友之、これを知て言上す。義昭、大に愕き、三淵大和守を遣はして、藤孝を召さる。依て高倉参議範国、伊勢伊勢守貞隆等と相議して、「三ヶ条の願書」を上つりて曰く、
一、信長と矛楯の思召被止事
一、近年、河州若江に度々上使を立てられ、御懇の儀也。彼は御家の大敵、前将軍の怨也。是を以て、其の器に当たる大将を以て、御誅伐有るべきの処、却て御懇意、兼々京都へ召返さるべきの思召、是、何の謂ぞや。
一、近年、御近習と称し、尼子兵庫頭高久、番頭大炊介義元、岩成主税介慶之、荒川掃部頭政次、右四人の者共は、永禄八年、前将軍を弑奉る怨敵の者なるに然るを却て御馳走也。信長、其の事を相助置申候。信長の志、御了簡あらば、随分御慎み之有るべき処、彼等を御懇情にて卒忽の思召立る事。
 右の趣執達しけるは、公方、御同心にて、先、信長と御和睦也。藤孝君、20日計鹿ヶ谷に蟄居して、此の時出仕するといへ共、将軍の意思、前々に変り、何となく御前疎く、日比の御大切も(後略)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568411/33

 『綿考輯録』によれば、この「三ヶ条の願書」を足利義昭は受け入れて、織田信長と和睦するが、細川藤孝は疎んじられるようになったという。それで、細川藤孝は、明智光秀に替わって、幕府の情報を織田信長に流すようになったようである。

 細川藤孝から織田信長に出した手紙は残っていないが、織田信長から細川藤孝に出した手紙は、2月23日、26日、29日、3月6日、7日の物が残されている(「細川家文書」)。

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 「細川家文書」の織田信長からの手紙59通の内、最も古い手紙は、元亀4年2月23日付の手紙である。
 冒頭の「公義就御逆心、重而条目、執著不残候(公儀御逆心に就きて、重ねて条目、執着残らず候)」を、
「足利義昭の反逆について、重ねてご報告いただき、ありがたい」
「足利義昭の反逆について、何度も情報を提供してくれて、ありがたい」
と、細川藤孝から何通も報告書が来ているように訳しておられる学者が複数おられる。複数の学者に言われると正しいと思い込んでしまうし、実際に(織田信長から細川藤孝に出した手紙の数を思えば)何通も報告書が来ているのであろうが、この文自体の意味は、
「こちらが掴んだ情報(足利義昭の反逆に連動しての諸氏の動向)と対処法を7ヶ条にまとめたので、これらの条文に目を通して(実行して)いただけるとありがたい」
であり、結びの「連綿入魂無等閑通」は、
「これからも絶え間なく情報交換を続けましょう」
だと思うが、学者様達、いかが?(日本史の先生に聞くより、古文の先生に聞いた方がいい?)

元亀4年2月23日付細川藤孝宛織田信長書状(「細川家文書」)
封書墨書「細川兵部太輔殿 信長」
公義御逆心就、重而、条目執著不残候。
一、塙差上、御理申上候処、上意之趣、条々被成下候。一々御請申候。並塙可差上処に、眼相煩に付て、友閑、島田を以申上候。質物をも進上仕、京都之雑説をも相静、果而無疎意通可被思食直候歟。
一、摂州辺の事。荒木対信長無二之忠節可相励旨尤候。
一、和田事。先日、此方へ無疎略趣申来候。若者に候之間、被引付、御異見専一候。
一、伊丹事。敵方へ申噯之由候。就和田令異見之由、神妙候。此節之儀者、一味候様に調略可然候歟。
一、石成事。連々無表裏無仁之由聞及候。今以不可有別条候哉。能々相談候て可然候。
一、無事相破候上には、敵方領中分誰々も、先宛行被引付簡要に候。
一、遠、三辺の事。信玄、野田表去17日引散候。並志賀辺之事。一揆等、少々就蜂起、蜂屋、柴田、丹羽出勢之儀、申付候。定可為渡湖候。成敗不可入手間候。
 世間聞合可申付ため、近日至佐和山、先可罷越かと存候。不円遂上洛、畿内之事平均に可相静段、案中に候。
 連綿入魂無等閑通、此節相見候。弥才覚不可有御油断候。恐々謹言。
   二月廿三日  信長(「天下布武」黒印)

【現代語訳】 足利義昭逆心について(関連して)、重ねて以下の条目をお読み(いただき、実行して)いただけるとありがたい。
一、塙直政を上洛させ、和議の提示をしたところ、足利義昭の思いが条文として示されたが、全ての条文を了承した。了承したことを、再び塙直政を上洛させたて伝えようとしたところ、眼病を患ってしまったので、松井友閑と島田秀満を代わりに上洛させ、人質を差し上げたので、これで「京都の雑説」(足利義昭が織田信長に対し挙兵するという噂)をも静まり、果たして、(織田信長のことを、足利義昭が)疎意(疎んじたい気持ち)無く思し召されるか否や。
一、摂津国周辺の事。荒木村重が織田信長に対し、これ以上のない忠節をもって励むべき旨は、尤もである。
一、和田惟政の嫡男・和田惟長の事。先日、織田信長のもとへ(織田信長に)疎略無き趣を申して来た。まだ若い(天文20年(1551年)生まれであれば23才)ので、お手許に置かれて、意見すること(ご指導、ご鞭撻)に専念されたし。(和田惟長は織田信長の家臣とされるが、ここで細川藤孝に預けられて、細川藤孝の家臣となった?)
一、伊丹親興の事。敵方に内通したという。このことに就き、和田惟長に意見させたことは神妙である。今回のことは、仲間になるよう、調略することがよろしいかと。
一、石成友通の事。これまではずっと表裏無き人物であると聞いている。今は特別に問題はないだろうか。よく相談すべきである。
一、和議が破れた時には、敵方の領地を、味方になりそうな者に誰にでも宛行(あてが)い、味方に付けることが重要である。
一、遠江国、三河国周辺の事。武田信玄は、野田城から去る2月17日に引きあげた。
 並びに、明智光秀領の近江国志賀郡周辺の事。一揆等が少々蜂起に就き、蜂屋頼隆、柴田勝家、丹羽長秀に出陣を命じた。おそらく琵琶湖を船で渡ることになる。成敗(一揆の鎮圧)には、手間がかからないであろう。
 (畿内の)世情を聞きたいので、近日中に佐和山城に入るので、先ず来て(教えて)くれるとありがたい。円満に上洛を遂げたら、畿内の事の平和に静める方策は、頭の中にある。
 絶えず入魂(じっこん)で、等閑(とうかん、なおざり)無く、佐和山城でお会いいたしましょう。いよいよ、あなたの才覚(力量)をもって、怠ることなされぬように。恐れ多くも謹しんで申し上げる。

【参考論文】谷橋啓太「細川藤孝の動向について

 そして、2月、足利義昭は、織田信長との対決を表明し、石山合戦、今堅田合戦となった。
 石山合戦、今堅田合戦を明智光秀らの活躍で制した織田信長は、「今堅田の一揆成敗の儀につきて、世間の顔つきも変わる由」との細川藤孝からの報告を得て、3月25日に上洛を決意して岐阜城を出て、3月29日に上洛し、知恩院に本陣を置いた。この上洛の時、逢坂山の峠で細川藤孝と荒木村重が出迎えたので、
織田信長は、
「出迎え重々(ご苦労)」
とだけ言い、細川藤孝には脇差(貞宗)、村木村重には腰物(遊佐大郷)を与えたという。
 織田信長が上洛すると、細川藤孝と荒木村重を見て、皆、
「え~そうだったの? 織田に寝返っていたの? スパイだったとは…」
と驚いたという。(兄・三淵藤英も、弟・細川藤孝の逆心に気づいていなかったという。)

『綿考輯録』
 3月、信長の使者を追返し、武田、上杉、浅井、朝倉等を初、五畿内、西国迄も信長追討の御教書を伝へられ、御合戦の御用意にて、先、江州石山、堅田に要害を構へらる也。信長、先かたなく、軍勢を指向、石山、堅田を責め落し、其の注進によりて、信長、25日、岐阜を発し、27日(一に29日)、大津に本陳を居へらる。此の日、荒木村重も出向候。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2568411/42
太田牛一『信長公記』
3月25日、信長公入洛の御馬を出ださる。
然るところに、細川兵部大輔、荒木信濃守、両人御身方の御忠節として、29日に逢坂まで両人御迎へに参らる。御機嫌申すばかりもなし。
東山智恩院に至って、信長御居陣。諸手の勢衆、白川、粟田口、祇園、清水、六波羅、鳥羽、竹田の在々所々に陣取り候。
此の時、大ごうの御腰物、荒木信濃に下され、名物の御脇指、細川兵部大輔殿へ。

個人的には、この細川藤孝と荒木村重の出迎えのシーンはあってもいいかなと思っています。「後に明智岸は荒木村重の息子と、明智玉は細川藤孝の息子と結婚します」というナレーション入りで。

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