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斎藤利三なる人物

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※『太平記英勇伝』齋藤内蔵助利三(さいとうくらのすけとしみつ)
美濃齋藤の一族。光秀に仕へて忠孝。山崎の役に敵陣を破る事6段。され共、味方、利無きを知りて戦場を退(のが)れ、秀吉を討たんとしてならず、病(やまひ)に倚(よ)って臥(ふ)せたる折りから、堀尾吉晴が為に生け捕られたり。(斎藤利三は、明智光秀に仕えて忠孝を示した。山崎合戦では、敵・豊臣秀吉の陣を6段まで破ったが、味方が「勝ち目がない」として戦場から離れていったので、豊臣秀吉を討つことができず、堅田で病に臥せっていたところを、山崎合戦で一番の武功を挙げた堀尾吉晴(『麒麟がくる』で明智光秀を演じた長谷川博己さんの祖先(松江藩士)の主君)ではなく、西近江衆(堅田衆)・猪飼昇貞の子・明智(猪飼)秀貞に生け捕られた。)

1.斎藤利三の出自


《両親》

 斎藤利三は、斎藤利賢と蜷川親順の娘の子だというのが通説であるが、母は明智光秀の縁者だともいう。斎藤利賢は、蜷川親順の娘と離婚し、兄・頼辰(前室・蜷川親順の娘との子)を石谷光政(前室・蜷川親順の娘の再婚相手)の養子にしたので、斎藤利三(後室・明智光秀の縁者との子)が斎藤家を継ぐことになったという。
 
蜷川親順┬蜷川親世┬蜷川親長(新右衛門。道標。連歌の達人)  
    │    ├蜷川親政     
    └女      └斎藤親三(齋藤利賢の養子。妻は石谷頼辰の娘)
     ‖─────┬石谷頼辰(母の再婚相手・石谷光政の養子)
    斎藤利賢      ├女(牧。明智光秀正室)
         ├斎藤利三(斎藤利治の養子)
         ├斎藤三続
         ├女(栄春。蜷川親長室)
         └女(長宗我部元親正室):石谷光政の子

・父・斎藤伊豆守利賢:斎藤豊後守利忠とも。白樫城主。
・母:前室・蜷川親順の娘(後室・明智光秀の縁者(叔母説、妹説)とも)
・姉・牧:妻木煕子(照子)は明智光秀の側室で、正室は斎藤牧だという。
・石谷家:明智家同様、土岐家の分家の1家。
・蜷川家:室町幕府政所代(政所執事は伊勢家)。旧領は丹波国船井郡。
https://note.com/senmi/n/n1e3b12e4c402

《生年月日》

 生年月日は不明。次の2説がある。

①天文3年生まれ説:「享年49」から逆算(織田信長と同い年)
②天文7年3月生まれ(享年45)説:『美濃国諸家系譜』による。

《妻》

前妻(正室)は斉藤道三の娘。
後妻(継室)については、
 ・稲葉一鉄の娘・安(あん。『海北家記録』では「於阿ん様」)
 ・稲葉一鉄の姉の娘・於阿牟(おあむ)
 ・稲葉一鉄の兄・通明の娘
と諸説あるが、主君・稲葉一鉄の縁者であることは間違いなく、稲葉一鉄に将来性を見込まれたのであろう。それなのに、出奔するとは・・・。

《子供》

斎藤利三┬斎藤利康 ※山崎合戦で討死
    ├斎藤佐渡守利宗(利光) ※加藤清正の家臣「加藤十六将」
    ├斎藤与惣右衛門三存(津戸右衛門) ※小早川秀秋の家臣
    ├斎藤七兵衛
    ├女(柴田勝全正室)
    ├女(柴田勝全継室)
    └女:稲葉重通養女・福(稲葉正成継室→徳川家光乳母・春日局)

2.斎藤利三の人生


主君:松山重治→斉藤義龍→稲葉一鉄→明智光秀

 父・斎藤利賢は美濃斎藤氏で、白樫城(岐阜県揖斐郡揖斐川町白樫)に居住して、斎藤道三&義龍父子2代に仕えたというが、美濃国から阿波国に移住し、三好氏の家臣になったともいう。
 斎藤利三は、最初は三好長慶の家臣・松山新介[新助]重治に仕え、京都白河の軍事を勤めていたという(『寛永諸家系図伝』)。
 次いで美濃国へ赴き、斉藤道三の娘と結婚し(一説に斉藤道三の末子・斎藤利治の養子となり)、短期間ではあるが、斉藤道三の息子・斎藤義龍に仕え、「西美濃三人衆」稲葉一鉄[良通]が織田信長に寝返ると、稲葉一鉄の娘(一説に姪)と結婚して稲葉一鉄の家臣となった。その稲葉一鉄とは3度も喧嘩別れし(原因は、武勇に優れているのに重用してくれなかった事)、その度に稲葉一鉄は、あの手、この手を使って引き戻したというが(『柳営婦女伝系』)、最終的には(母の甥とも兄ともいう)明智光秀に仕えるようになった。

 明智光秀に仕え始めた時期には諸説あるが、明智光秀が天正6年(1578年)に黒井城を落とすと、斎藤利三は城主に任命されている(1万石を与えられて丹波国氷上郡の統治にあたる)ので、天正6年以前のことだと考えられる。(娘・春日局は、天正7年(1579年)に黒井城下館(兵庫県丹波市春日町興禅寺)で生まれたというが、白樫城で生まれたとする伝承もあり、明智光秀に仕えたのは、想像以上に早い時期であると思われる。)

《斎藤利三が明智光秀に仕え始めた時期》

説①:天正2年3月以前 『松平記』
説②:天正6年6月以前 『丹陽軍記』
天正6年(1578年)8月9日、黒井城落城。
説③:天正7年      『干城録』
説④:天正8年■月    『美濃国諸家系譜』
説⑤:天正8年6月下旬 『明智軍記』

 明智光秀は、「本能寺の変」では1万3000(2万、3万など異説もあり)の軍勢で本能寺を襲撃したというが、明智光秀の家臣は、最初は少なかった。

《明智家家臣団》

明智光秀┬美濃衆(明智城落城前からの明智家家臣、一族):溝尾茂朝…
    ├西近江衆(「堅田衆」等、志賀郡拝領後の家臣):佐竹家実…
    ├旧幕臣(室町幕府滅亡後の家臣):伊勢貞興…
    ├丹波衆(丹波国拝領後の家臣):荒木氏綱…
    └与力:細川藤孝(国持与力)、筒井順慶(国持与力)…

 坂本城を築いた時の家臣は、集まってきた「美濃衆」(元明智家家臣。直臣と一族衆)と坂本を中心とする志賀郡の「西近江衆」で1500人くらいだと思われる。

 明智光秀は、家臣を常時募集していたのでは? そして、旧幕臣(斎藤利三の実兄・石谷頼辰など)を大量採用した時、主君・稲葉一鉄の扱いに不満をいだいて応募した斎藤利三を実兄・石谷頼辰と共に採用したのでは?

斎藤利三の実兄・石谷頼辰:幕府奉公衆(外様詰衆)で、足利義昭が織田信長に京都を追われると、他の幕臣と共に明智光秀に仕えたとされるが、異説では、石谷頼辰は、足利義輝の時は幕府奉公衆であったが、足利義輝が討たれて以降は牢人だったとする。

 斎藤利三は、武勇に優れ、各書で
・「無双之英勇」(『美濃国諸家系譜』)
・「武功絶倫たり」(『柳営婦女伝系』)
・「隠れなき勇士」(『翁草』)
と絶賛されている。また、津田宗及らと茶の湯を何度も嗜み、明智光秀と共に連歌会に参加する文化人でもある。
 明智光秀にとっては、明智秀満と斎藤利三が両翼で、斎藤利三は、明智家の筆頭家老だったという。

※斎藤利三のことを悪く言うのは『老人雑話』の「天性狠愎(こんひょく、狠戻)の人」(生まれつきひねくれている人)くらいか。

明智四天王:斎藤利三(筆頭家老)、明智秀満、明智光忠、藤田行政
明智五宿老:明智四天王+溝尾茂朝

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3.斎藤利三と「本能寺の変」

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