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相対と絶対、ハリガネと電流、救いはどこにあるか

・序文


相対と絶対ということについてしばらく考えていたらあるとき、別々にあった点々がいきなり繋がった。不思議と言うかなんというか、とにかく頭に残っている間に何か書き残しておこうと思った次第である。
 

・相対とは


まず相対ということは、別なひとつがひとつとして存在するときに同時に存在する他のひとつである。例えば犬ということを考えたときに、この世界に犬以外が存在しなければ犬は犬にならない。犬でない人がいて、犬でない牛がいて、犬は犬として相対的に存在を始める。この個体群にはしっぽがないから犬ではない。この個体群にはしっぽがあるが鱗があるから犬ではない。このように消去法を繰り返した先に定義された存在が相対的ということであろう。
 

・絶対とは


絶対ということは一、絶対の一。何とも比較しようのない一。絶対ということを本来は言葉で表すことはできない。言葉がそもそも相対的なものであるから絶対を表せない。そのうえで相対的な言葉の中でも絶対に限りなく近い表現を探すと、一と言える。しかし一という言葉の裏には二が存在している。二がなければ一はない。一となると二があって三があって…と相対的な意味を含む一になってしまう。だから不二というと幾分かマシには思える。絶対、絶対の一、絶対の不二。無知であり全知、全知であり無知。ゼロでありながらにして全てで、全てを含みながらにゼロである。とにかく、言葉を用いて近いところまで言い表したとしても絶対そのものはいつまでも言い表せない。仏教でいうところの悟り・空・仏というのも絶対である。
 

・構造の理由、絶対そのもの


ヒトは行為を離れてその行為の形式・仕組み・構造を考えることができる。牛がモオーと鳴くことがあるが、牛はなんでモオーと鳴いたか疑問に思わない。疑問に思わないから考えることはない。ヒトは鳴かない代わりに喋っていて、なんで喋るのだろうと疑問に思う。疑問に思うから納得のいく理由を考える。ヒトは食事をしながら、なんで食事をするのだろうと考える。食事という行為をしながら、その行為を離れて食事の形式・仕組み・構造を考えることができる。牛ならばただ食事をする。ただ食べる。しかしヒトは食べながら食事から離れる。
行為の理由と言うところのものはヒトが納得のいくようにした後付けである。ただ行為するときには理由を必要としないのに、行為から疑問を感じて理由を考え始めるからである。元々は理由より先に行為がある。だからいくら理由を考えて納得しても、行為の本質・全ての内容は分からない。
水を飲むという行為をするときに、なぜ水分が人体に必要なのか、経口摂取したH₂Oがどのように吸収されどのように身体で働くのか、そもそも水とは何なのか等、さまざまな疑問が現れては勝手に思考を始める。いちいち解決しないことも多く、感じた疑問は頭のどこか端の方に残り続ける。もしこれらの疑問が全て解決されたとして、それは水を飲むという行為を理解したことにはならない。これらの疑問を解決する答えというのは、そもそもヒトが行為に対して後天的に生み出した納得のための理由だからである。水を飲むという行為を全て理解するのは、ただ水を飲むことによってのみ果たされる。言葉によっては理解されず、行為そのもの・身体によって理解する。言葉の介入の無いところにそのものによる理解があるが、ヒトは言葉から離れられない存在であるからそのものを理解することは容易でない。
前述の行為そのもの・身体で理解するときと別の、一般的な理解する・分かると言うところのものは相対的な行いである。行為の形式・仕組み・構造というのは全て相対的である。相対的に生み出した相対的なものを理解することはいつも相対性から離れない。つまり、ヒトは行為の形式・仕組み・構造を相対的に理解する・分かることはできても、行為そのものを理解したことにはならない。何故ならば、行為そのものは絶対性を帯びてあるからだ。そのものというところに絶対が垣間見える。いくら相対の階段を積み上げても絶対には届かない。
 

・ヒトの根源、苦しみの根源


行為から疑問をもつことはヒトをヒトたらしめている所以である。パスカルが「人間は考える葦である」と言ったように、思考することがヒトの特権であることには賛成する。行為から離れることなく行為そのままをすることは動物的・非人間的な行いであるとも言えるだろう。行為を離れて疑問を持ち思考することでヒトはヒトになった。社会が構成された。生活が豊かになった。しかし、行為そのものということは分からなくなった。行為そのものを離れたところで物質的豊かさを得たが、行為そのものから離れたことから悩み・苦しみが生まれた。ヒトの悩み・苦しみはヒトがヒトであることから生まれた根源的な存在であり、ヒトそのものが悩み・苦しみを持つべく生まれたとも言えるであろう。ヒトである限り、切り離すことができない。
 

・『自己とは何か-清沢満之の言葉より-』から


蓋し文字言句(もんじごんく)はなお金線(はりがね)の如し。而して安心(あんじん)はなお電気の如くなり。
テレビは、電気が流れ電波が届かないならば、ただの箱に過ぎません。
仏教も同じです。教えを護持する教団があり、お寺があり僧侶がいても、自己の救いとならないならば、ただの施設です。生涯を仏教研究につくし、浄土真宗の教義の文字言句を知ったとしても、それとても電流を通す電線を学んだに過ぎません。
満之は、教団も教義教学も、電流を流すための電線でしかない、電線と電流はきびしく見極めなければならないと言うのです。(中略)どのような教義も思想・学説も、自己の最後の帰依処とはなり得ません。
安心(あんじん)とは、信心決定のことです。絶対無限者(阿弥陀如来)と自己との直接一対一の関係が定まることです。絶対無限者と自己の間には、教団も住職も、思想も学問も、何一つ挟まってはいけません。いえ、挟まるすき間など無いのです。
何ひとつ支えるものなくたった独り死んでいかねばならない絶体絶命の自己に、絶対の孤独の中で阿弥陀如来の救いのみ声が聞こえたことが、称名念仏です。
「汝よ、我が名をとなえよ。かならず我が国に生まれさせる。滅びゆく汝に、永遠のいのちの名を与えよう。南無阿弥陀仏は、汝の永遠の名である」。
安心とは、阿弥陀如来の雷鳴の電流に打たれたこと。称名念仏は、この身今生のまま、如来の家が我が家になったことです。
(註:信心決定 しんじんけつじょう 浄土真宗の信が定まること。)

『自己とは何か-清沢満之の言葉より-』尼子玄章 欅風文庫

形式・仕組み・構造はハリガネであり相対、行為そのものは電流であり絶対である。相対の階段を積み上げても絶対に辿り着かないならば、絶対が絶対のままで相対にならなければならない。絶対が絶対のままで相対そのものになるところに宗教的な救いがある。相対性の方面に出てヒトになった存在・ヒトが救われる道は相対的なところにはない。
 

・科学、相対、禅、絶対


科学は相対の極みである。相対的に観察した物事を分割して相対的に解釈する学問が科学であり、ヒトに物質的な豊かさをもたらした象徴でもある。しかし、相対は根源的なところではヒトを救えない。ヒトが行為そのもの・絶対そのものになるところに悩み・苦しみの消失・救いがある。これは禅の領域で特徴的であろう。水を飲むならばただ水を飲む。食事をするならばただ食事をする。ただというところにそのものがある。絶対がある。しかし、ただ行為するという方法で絶対にアプローチできるヒトは限られているだろう。
 

・総括


ヒトは行為を離れて形式・仕組み・構造を考えることができ、これは相対的な行いである。ヒトは形式・仕組み・構造は分かっても、その行為の本質は分からない。行為の本質とは行為そのものであり、絶対であるからだ。行為を離れたときに絶対から切り離され、相対性に身をおいたヒトには行為そのもの・絶対が分からない。ここにヒトの根源的な存在・悩み・苦しみがあり、相対に生きる限りは失われることがない。禅の領域で、行為そのものをただ行うことで相対を離れ絶対にアプローチするヒトがたまにいても、大勢にはできない。
清沢満之氏の言葉の言葉を使うと、相対はハリガネであり、絶対は電流である。ヒトが救われるには電流に打たれなければならない。相対から絶対になるのでなく、絶対が絶対のままに相対になる経験によって相対が相対のままに救われる。
この道こそが浄土真宗・称名念仏にあると私は直感している。絶対の言葉・南無阿弥陀仏と口に出す・称名念仏する身になり、相対のままでただ絶対を受け入れる。
言葉とヒトの関係というところも深く関わるため、この先はまた思いついたときに書き残そうと思う。

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