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主体的・対話的で深い学び

毎月開催しているオンライン読書会に参加された方が、嬉しい感想を聞かせてくれた。

一年くらい継続して参加している読書会がある。
センジュ出版主催の『読書てらこや』

課題本はあるけど、その本の要旨について話し合うのがメインではない。

この本を触媒にしてひとりひとりが感じた事、思った事を話す場である。

とくに議論を交わすわけでもなく、ぬるめの温泉に浸かっているようでもある。

でも、長くやっているうちに、自分も何か動きたくなってくる不思議感がある。

自分の体は一つであり、思いもひとつなのだけど、この場にいると思いが交差して、その場に溶け込む感じがする。それは自分という殻がなくなり、他の人の新鮮な考えかたにも馴染んでいくようでもあります。

そのことにより、より自分がわかるようになり、それを表に出したいと思う様になるのかもしれない。


嬉しい、と書いたのは、この方が、
「自分も何か動きたくなってくる」
と表現されたためだ。
主催する、インプットする読書会も、アウトプットする文章講座も、いずれも参加者の自己表現を促すことを目的としている。

編集者は著者の表現に背中を押す。
本来、それは特別な誰かにだけ、選ばれた者にだけなされるものではなく、自分の人生を表現しているすべての人に対しても当てはまるはずだ。
編集者としての自身の仕事の側面を広義に考えたことから、この読書会、文章講座を始めるようになった気がするが、
こうしてご自身の内側に眠っていた表現に主体的に気づいてもらえたことは、主催としてありがたい限りだった。

このところ、とある原稿書きの仕事をする中で、アクティブラーニングについて調べる機会があった。
小学生の息子を持つ一母親としても、この教育方針がどこから生まれてどこに向かうのか興味深く見ているが、
今年4月の朝日新聞EduAの記事を読むと、主体的な学習の必要性は大正時代から唱えられていたものの、より強調されてきたのはバブル経済崩壊後の1990年前後のことらしい。

また、2020年度から小学校、翌年に中学校、翌々年に高等学校で実施される新しい学習指導要領の総則に「主体的・対話的で深い学び」という言葉が登場した、と書かれている。

これは子どもだけでなく、大人にとっても必要なものだと、読書会、文章講座の受講生の変化、その表情や表現を見ているうちに痛感していること。

以下は記事の中から抜粋。

守屋教授によると、かつての日本では、大人が子どもに教え込む「与える教育観」が主流だった。子どもが主体的に学ぶようになるには、完全に子どもに任せてしまう「放っておく教育観」ではなく、大人が必要に応じて支援する「支える教育観」に転換すべきだと強調する。子ども自身が学習する内容を決める「自主学習ノート」の取り組みも「形だけでは一部の子しかできず、その他の子にとっては苦痛でしかないのではないか。教師が手間暇をかけて、きちんと支える必要がある」と指摘する。「子どもは本来、主体的に学ぶもの。周りの大人は、安心して学べる環境を用意してほしい」と力を込める。

人一人の中に眠る「本来、主体的に学ぶもの」、「主体的に表現するもの」を、センジュ出版でこれからも後押しできれば幸いだ。


あなたは今、自分の人生をどう表現していますか?


#今日の (正確に言うと一昨々日の)一冊
#ゼロからはじめる哲学対話
#河野哲也  編
#266 /365

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