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簡単戦国解説5【三英傑以外の群雄たち】

 このコーナーでは戦国初心者さんに向けての簡単戦国解説を書かせていただいております。戦国時代や戦国武将さんに詳しくないという方にも、分かりやすくお伝えできるよう心がけました。出回っている文章情報よりふりがなを少し多めに記載しております。「それぐらい読めるよ!」って方も暖かく見ていただけると幸いです。

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 今回のテーマは【三英傑以外の群雄たち 】 


前回は三英傑について書かせていただきましたが、戦国時代には、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人以外にも魅力的な武将さんたちがたくさんおられますので、そのなかで何人か簡単にご紹介させていただきます。
 


武田信玄


 戦国最強と名高い甲斐国(かいのくに)の戦国大名。戦のみならず外交にも長けた戦略家で、「甲斐の虎」と呼ばれ恐れられました。畏怖される対象ではあるものの人を大事にすることでも有名で、彼はこんな言葉も残しております。

「人は石垣、人は城、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

人こそが重要であり、自分を、ひいては国を守る財産であるといった意味で語られることが多いです。たしかに、いくら頑丈な石垣・壮大な城・深い堀があったとしても、味方の将兵が本気で働いてくれなかったら効果は下がりますし、ましてや裏切られてしまうようでは何の意味もありませんよね。人心掌握に長けた信玄ならではの言葉といえます。

 また武田信玄といえば「風林火山」の旗印を思い浮かべる方もおられるかも知れません。これは古代中国の兵法家・孫氏の言葉で

 その疾(はや)きこと風の如ごとく
 その徐(しず)かなること林の如く
 侵掠(しんりゃく)すること火の如く
 動かざること山の如し

からきております。が、じつはこれには続きがあることはご存じでしょうか?

知りがたきこと陰のごとく
動くこと雷霆(らいてい)のごとし

これが続きの文章であります。なかなか深いですね。強そうです。信玄が使っていたから強そうに感じるのかも知れませんが。

ちなみに戦国最強と目される武将さんは何人もおられます。検証しようがないので本当に最強かどうかは分かりませんが、いちばん名が挙がるのはやはりこの武田信玄ではないでしょうか。
 

上杉謙信

 武田信玄のライバルとして描かれることの多い戦国大名で、この上杉謙信もまた戦国最強と目されております。「越後の龍」「軍神」といったニックネームがつけられるほど戦術に長けた武将さんです。戦の勝率に関しては、戦国武将のなかで最高というデータもあります。 もしかしたらカウントの仕方によっては変わるかも知れませんが、トップクラスに強かったことは間違いないでしょう。

 また武田信玄と比べられることも多く、戦略家だった信玄に比べ謙信は直感タイプだったともいわれます。計算に計算を重ねて戦いを勝利に導くのが信玄だとすれば、謙信は感覚的に勝利につながるインスピレーションを降ろすのが得意だったのかも知れません。  

宿敵・信玄との川中島の戦いは5度にわたって行われ、とくに第4次川中島の戦いは激戦となりました。結果的に戦場となった場所は信玄が占領することとなったのですが、この戦いにて武田軍は重要な家臣たちが何人も討ち取られたのに対し、上杉軍の重要な家臣たちはみな生還しております。

また双方犠牲者は多くでたものの、トータルで見ても武田軍の被害の方がやや多かったようです。このことから、戦略的には信玄の勝ち・戦術的には謙信の勝ちと言われることも多く、引き分けといった感じで語られることも多い印象です。
 

北条氏康

 戦国最強とも目される武田信玄・上杉謙信をも撃退したことから、この北条氏康(ほうじょううじやす)もまた戦国最強候補に入れてもいいのではなかろうかと個人的には思っております。相模国(さがみのくに)の戦国大名で、彼が有する小田原城は鉄壁の防御力を誇り「相模の獅子」の異名を持ちます。また戦のみならず政治にも長けていたようです。

 三英傑との絡みがほとんどないことや、インパクトのあるエピソードが少ないこともあって一般的な知名度としては高くない印象です。残念ながら、戦国ファン以外の方からしてみたら知らない人の方が多いのではないでしょうか。戦国ファンのなかではけっこう人気者だとは思うんですけどね。  

インパクトのあるエピソードが少ないと書きましたが、ないわけではない。 川越夜戦(かわごえよいくさ、もしくは、かわごえやせん)がまさにそれ。日本三大奇襲に数えられる戦いで、なんと10倍もの敵に勝利しています。

す、すごすぎる!!!ってな感じですが・・・ じつはこの川越夜戦、分かっていないことも多く「じつは大規模な戦闘はなかったのではなかろうか?」といった意見もあります。史料があまり多くなく、実態が不明瞭なのです。
 


今川義元


 「海道一の弓取り」、つまり東海道で一番強い武士と目された人物。桶狭間の戦いにて圧倒的な兵力差だったにも関わらず織田信長に敗れたことから暗愚な印象で語られることも多かったのですが、じつは優れた戦国大名です。

以前の記事にも書きましたが、今川義元が領する駿河国(するがのくに)・遠江国(とおとうみのくに)・三河国(みかわのくに)の三国と、織田信長の尾張国(おわりのくに)一国とでは、じつはそれほど圧倒的な国力差があったわけではないのでは?という見方が強まってきております。


さらには織田信長は昭和の時代、テレビの影響で人気が出てきました。それに伴い彼の引き立て役として描かれることが多かったことも、義元に対し暗愚なイメージを定着させてしまった要因だったように思われます。ですが近年においてはテレビ以外の媒体にて簡単に情報が得られるようになったこともあり、わりとフェアな見方がされるようになった印象です。


毛利元就

 智将として名高い中国地方の覇者・毛利元就(もうりもとなり)。厳島の戦いにて4倍~7倍(諸説あり)の敵に勝利し、その名を轟かせます。戦術のみならず、敵方の有能な家臣を敵に誅殺させるなど巧みな方法で開戦前に戦力を削ぐことも得意。

さらには息子を他家へ送り込み支配下に置いてしまうことも。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ送り込んでおり、この吉川・小早川は「毛利両川」として本家を支えながら勢力拡大していきました。

 息子であるこの吉川元春(きっかわもとはる)は戦に強い猛将として、小早川隆景(こばやかわたかかげ)は知略に長けた智将としてそれぞれ名を馳せており、孫にあたる毛利輝元は関ヶ原の戦いの際、西軍の総大将となりました。
 


島津義久


 九州の覇者である島津氏。最盛期を迎えたときの当主・島津義久は四兄弟。

総指揮に長けた長男・義久(よしひさ)
武勇に長けた次男・義弘(よしひろ)
知略に長けた三男・歳久(としひさ)
戦術に長けた四男・家久(いえひさ)

兄弟間でも争いの多かった戦国時代において、この四兄弟はとても信頼関係があったようです。各々の長所を活かし勢力拡大をつづけ、九州の三大勢力の一つにまで成長。他の二大勢力であった大友宗麟(おおともそうりん)・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)を打ち負かし、九州統一まであと一歩のところまで迫りました。残念ながら豊臣秀吉の大軍勢の前に屈服してしまいますが、とても強い勢力です。

 島津氏にはその強さにまつわるインパクトあるエピソードがいくつも残されております。島津義弘が関ヶ原の戦いにて行った敵中突破もその一つ。敗戦が確定的となった戦場にて、あえて敵陣に突撃し活路を見出します。逃げるために敵に突っ込んだのです。おそらくは普通に後方へ逃げるよりも生還率が高いと判断したのではなかろうかと思うのですが、なかなかに凄いことだと思います。

さらには捨て奸(すてがまり)という戦法も用います。小隊をあえて退路に残し、彼らは死ぬまで戦いつづけて敵の追撃を遅らせます。それが全滅すれば、また小隊をあえて退路に残し、彼らは死ぬまで戦いつづける。その繰り返し。退路に残って戦う者は生存率ほぼ0%の超絶ハードな戦法です。  

多くの犠牲を払いつつも義弘はなんとか生還します。が、関ヶ原の戦いの勝者は東軍。西軍についた島津は勝者・徳川家康から咎められる立場です。ところが、今度はそれを義久が上手く収拾しお咎めなしにまで持ち込んでしまいます。島津、恐るべしです。
 


長宗我部元親


 四国の覇者・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)。若いころは色白で女性のようにも見えたことから姫若子(ひめわこ)と呼ばれていましたが、初陣(ういじん)、つまり初めての戦にて大活躍!あまりの勇猛ぶりに鬼若子(おにわこ)と呼ばれるようになりました。

 長宗我部元親は一領具足(いちりょうぐそく)という農民兵を率いたことでも有名です。彼らは一領、つまり1セットの具足、つまり武具防具を農作業のかたわらにつねに置き、戦の招集があった際にはすぐに駆け付けれるようにスタンバイしておりました。それによりスピーディーな戦準備を可能としたことも長宗我部軍の強さの一助となったと言われます。

土佐を統一し、さらに四国統一にまで目前に迫るものの、豊臣秀吉の大軍勢の前に屈服することとなります。

 彼が残した名言として次の言葉が残されています。

 「一芸に熟達せよ。多芸を欲張るものは巧みならず」

まずは一つのことに集中し、その道の達人となることの重要性を説いております。それには複数の意味があると思います。

① あれこれと手を出し、中途半端になることを避ける

② 一つのことに長けることで、どの分野にも通じる共通点を知ることができる

③ そのことにより人を観る目が確かなものとなる

などなど。

大きなことを成せる人物ならではの深~~い言葉だと感じます。そんな元親さんですが、秀吉に屈したことにより九州攻めに駆り出され、その戦にて嫡男(ちゃくなん)、つまり跡取り息子を失ってしまいます。そのことに絶望してしまったのか彼は豹変してしまいます。義理深く、家臣の意見にも耳を傾ける人物でしたが、自分の意に反する者は粛清してしまいます。
 

伊達政宗

 「独眼竜」の異名を持ち、生まれるのがもう少し早ければ天下を獲っていたかも知れないとまで言われる名将。彼には知略に長けた片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)・武勇に長けた伊達成実(だてしげざね)らがついており、彼らの活躍もあって勢力拡大をつづけ奥州の覇者となります。が、豊臣秀吉の大軍勢の前に屈することとなります。

 ちなみに・・・大河ドラマなどの影響で人気の高い政宗さんですが、研究者のあいだではじつはそれほど極端に高く評価されているわけではないようです。かくいう私も、突出して有能な戦国武将だったわけではない印象です。

この政宗さん、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康といった三英傑と比べると遅い時期に生まれています。彼が生まれた西暦1567年はすでに織田信長が台頭しており出遅れた感は否めません。

ですが早く生まれていたとしても、武田信玄・上杉謙信・北条氏康などの強豪がひしめいており、なおかつ彼が本拠とした地は京都からかなり離れており、それもまた天下を狙うにはかなり不利だったのではないでしょうか。なので天下を獲っていたかも?とまでいうのは過大評価な気はしますが、どうでしょう。評価の分かれるところかも知れません。

とはいえ、海外に人を派遣しており、当時としてはグローバルな視点を持っていたのも事実です。そういった点も彼の魅力の一つかも知れません。

 

 


 はい。というわけで、三英傑以外の武将さんを何名か簡単にご紹介させていただきました。ただですね、戦国大名は必ずしも三英傑のように天下統一を狙っていたわけではありません。むしろ、狙っていなかった人の方が多かったのではないかと思います。

現代に生きる人々のなかにはゲームなどの影響で「戦国武将はみんな天下統一を目指していた」と誤解されている方もおられる印象です。が、実際には違います。むしろ毛利元就は「天下を望んではいけない」とまで語っています。だからこそ天下統一を目指し邁進していった三英傑は特別とも言えます。もちろん信長・秀吉・家康以外にも天下を狙った者たちはいたでしょうが、やはりその流れの主軸となったのはかの御三方と言えるでしょう。

 ともあれ、魅力ある人物たちが入り乱れた戦国時代。それぞれがそれぞれのカラーを発揮し、創られていった時代だったのだと思いますし、さらには後世に名が残ってない無数の人々が歴史の闇に眠っていることにも想いを馳せます。

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