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簡単戦国解説9【日本史と世界史を重ねて考察する】

 このコーナーでは戦国初心者さんに向けての簡単戦国解説を書かせていただいております。戦国時代や戦国武将さんに詳しくないという方にも、分かりやすくお伝えできるよう心がけました。出回っている文章情報よりふりがなを少し多めに記載しております。「それぐらい読めるよ!」って方も暖かく見ていただけると幸いです。

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 今回のテーマは【日本史と世界史を重ねて考察する】 


 突然ですが、弥助(やすけ)という歴史上の人物をご存じでしょうか? 戦国好きな方にはおなじみですが、聞いたことないという方もおられるでしょう。弥助とは織田信長に仕えた黒人男性であります。

イエズス会の宣教師・アレッサンドロ・ヴァリニャーノが信長に謁見(えっけん)した際、奴隷として連れてこられた人物です。現在でいうモザンビーク出身。

信長は最初、彼は肌に墨を塗っているのでは? と疑い信用しませんでしたが、身体を洗わせたところ本当に彼の肌が黒いのだと納得し、おおいに関心を示しました。彼を気に入った信長はヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立てたばかりか、身近に置き、ゆくゆくは城主にまでするつもりだったそうです。奴隷から城の主へ。凄まじい好待遇ですね。

珍しいもの好きな信長さんらしいエピソードですね。といった感じで語られてきたことが多かったのではないかと思うのですが、本当にそれだけでしょうか?
近年では違った見方も出てきたようです。

信長の対外政策

先ほど宣教師というワードが出てきました。これは海外からキリスト教を広める目的でやってきた方々ですが、武将さんのなかには彼らを信用しない人たちも多くおりました。信長さんもその一人。侵略しにきた可能性があるからです。だったら追い返せばいいじゃないかって話ですが、そうもいかない理由があったのです。

ときは戦国時代。諸説ありますが1543年に日本に伝来したとされる鉄砲はものすごい勢いで普及していくものの、火薬の原料となる硝石(しょうせき)は日本では産出されず、海外からの輸入に頼っておりました。

宣教師は布教と貿易をセットで持ちかけてきており、貿易したいんだったらキリスト教を日本に広めることも許可してねと求めてきます。なので信長はそれを受け入れます。
が・・・ 

宣教師の言うことをそのまま信じるのは危うい。侵略者が表面上だけいい顔してるという可能性もありますから。そこで、奴隷の立場である人物とも親しくなって意思疎通し、実情をより正確に、より立体的にとらえようとしていたのではなかろうか? という説を耳にすることが増えてまいりました。

そりゃそうですよね。いじめっ子といじめられっ子の両方から話を聞く。支配する側とされる側の両方から話を聞く。片側だけの話しか聞かなかったら、偏った情報になりかねません。この説がどれほど信ぴょう性があるかまでは分かりませんが、とても理にかなっていると私は思います。だとすると信長さん、ほんとうに理知的な方だな~と思います。

ちなみに、信長さんは石山本願寺と戦っていたこともあり宗教全体を排除しようとしていたと見られることもあるのですが、敵対していない寺院に対しては保護をしております。また先述しました通り、キリスト教の布教も許可しております。

海外勢力による侵略

当時はスペインとポルトガルが世界へと勢力を広げていた大航海時代。特にスペインはヨーロッパ最強の軍事力を誇っており、南米やアジアを侵略し植民地を増やしておりました。先住民に対する容赦ない略奪と虐殺が行われ、日本にもその矛先が向いていたのです。

が、征服しきれていないタイミングで侵略者だとバレれば抵抗される恐れもおおいにあり、艦隊を率いたマゼランも先住民の反撃を受け戦死しております。ましてや戦国時代の日本は、意外かも知れませんがなかなかに軍事大国でありました。

1543年(諸説あり)の鉄砲伝来からわずか1年で国内での生産が可能となり、信長が台頭した時期からは少しあとにはなりますが、西暦1600年の関ヶ原の戦いにて、西軍・東軍合わせて3万丁の鉄砲が使われたとも言われます。さらには日本全体では約6万丁もの保有数があったとか。

この数はスペインどころかヨーロッパ全体の合計より多かったのです。そういったことから、いきなり武力で侵攻するのは得策でないと考えたスペインは、この頃やり方を変えておりました。

どうゆう方法にしたかというと、まずは宣教師を派遣してキリスト教を布教し信者を増やします。次に信者たちを使って反乱を起こさせる。その対応に追われている隙を突いてスペインから軍隊を送り込み武力制圧。そして植民地にしてしまうというものです。

日本にて表立ってその作戦が歴史に登場するのは西暦1549年。宣教師・フランシスコ・ザビエルが日本へと送り込まれます。そして九州を中心に信者を増やしていくこととなります。

信長は相手の意図を完全に把握していたわけではないでしょうが、信用しきることもなくイエズス会と付き合っておりました。が・・・
1582年、本能寺の変。家臣・明智光秀の謀反(むほん)により自害に追い込まれます。

なぜ光秀は反旗を翻したのか? 黒幕がいたのではないか? だとしたらそれは誰なのか? いろいろな説はあるものの、その中にイエズス会黒幕説というものがあります。

本能寺の隣にはイエズス会が建てた教会の、南蛮寺(なんばんでら)がありました。また光秀の娘・細川ガラシャはカトリックに改宗しており、そのつてで光秀と結託し扱いづらい信長を亡き者としようとしたという説。真実は闇の中・・・
 

秀吉の対外政策

信長亡きあとも秀吉が海外勢力と対峙します。
1587年、秀吉は九州平定に乗り出した際に驚愕の事実を知ることとなります。イエズス会によって長崎の港から日本人が奴隷として海外に輸出されていたのです。
それを受け秀吉は伴天連追放令(ばてれんついほうれい)を出します。日本人を奴隷として売ってはいけないことはもちろんのこと、キリスト教に入信するのは個人の自由としつつも、キリシタン大名が家臣や領民に入信を強制してはいけないこととなりました。

これを受けて宣教師・ガスパール・コエリョたちはスペインに軍隊の派遣を要求するも、そちらはそちらで大変なことになっておりました。翌年1588年に起こったアルマダ海戦にてスペインはイギリス艦隊に敗北。日本侵略どころではなくなっていたのです。

そして1596年、またも驚愕の事実が明るみに出ます。遭難したスペインの貨物船 サン・フェリペ号が漂着し、救助した船員を取り調べたところデ・オランディア(または他のスペイン人船員)は世界地図を広げスペインの領土がいかに広いかを説明した。

どのような方法でこれほど領土拡大できたのかを問うと、なんと彼は正直にすべて話してしまいました。つまり、先述しましたスペインの侵略の手口です。
まずは宣教師を派遣しキリスト教を布教し信者を増やす。次に信者たちを使って反乱を起こさせ、その対応に追われている隙を突いて軍隊を送り込み武力制圧。そして植民地にしてしまうというもの。

この応答については、直接目撃した証言や文書も残っていないため、史実であったかについては曖昧ではあるものの、似たようなやりとりはあったとされます。
くわしくは「サン・フェリペ号事件」を検索してください。

この件を受け秀吉は激怒し、イエズス会の土地を没収し布教の禁止を徹底しました。
イエズス会の書簡によりますと、日本を支配したのち明(みん)、今でいう中国を支配するための兵力として利用する予定だったそうです。
 

秀吉は天下統一後、朝鮮に出兵したのですが、その理由はこういった西欧勢力の脅威に対抗するためだったとする見方が強まってきました。明を勢力下に置ければ良し、そこまではできなかったとしても、朝鮮半島にて防衛線を張れれば危険度は下がります。

そして一度は休戦するものの、またも戦端が開かれた1597年。そうなってしまった理由に、前年の1596年に起こったサン・フェリペ号事件にてスペインの真意が明るみに出てしまったことが関係しているのではなかろうか? という話も耳にします。
 

どうでしょう?
この話を知っているのと知らないのとでは、朝鮮出兵に対するイメージがかなり変わるのではないでしょうか。これまでは秀吉の独断的な野望・欲望によってやる必要もない軍事遠征をして、ムダに国力を消耗させてしまった、といったイメージで語られることが多かったのではないでしょうか。

日本史と世界史を別々に見るだけでなく重ねて見ることで、今まで見えてこなかったものが見えてくることがあると思います。とともに、研究が進むことによって見えてきたことでもあるので、あらためて歴史学者の皆さまに感謝であります。
 

徳川家康の対外政策

このように海外勢力と対峙してきた秀吉でしたが1598年に没すると、その仕事を徳川家康が引き継ぎます。家康は1613年、キリスト教禁止令(禁教令)を出します。
これにより国内の教会は壊され、キリスト教信者は追放されます。

そしてその家康もこの世を去ってしばらくした1637年、島原の乱が起こります。キリスト教の弾圧に反発した方々が起こした、日本最大規模の一揆(いっき)です。幕府はこれを鎮圧。すでに関係を絶っていたスペインだけでなく、ポルトガルとの関係も絶つことに繋がります。

1640年に貿易再開を嘆願する使節が派遣されるものの、全員捕らえられ処刑されました。日本はその後、鎖国(さこく)体制に入った・・・と、かつては言われておりましたが、オランダや明(中国)とのやりとりは続いていたため現在では鎖国という表現は使われなくなった印象です。
 

はい、いかがだったでしょうか?
今回のお話は戦国ファンの方でも意外だったかも知れません。私もこれらのことを知ったときは「そうなんだ!」と驚きました。

木を見て森を見ず

なんてことわざがありますが、俯瞰(ふかん)して物事を見つめることの大事さを改めて感じましたし、やっぱり私は(我々は?)知らないことだらけだな~と実感しました。

歴史は常に闇の中

なので私は

 「こうゆう史料があります」

 「こうゆう説があります」

 「私はこう考えております」

 でも!

 「実際にはわかりませんよ」

というスタンスで歴史と向き合っております。ここまで読んでくださりありがとうございました。

あ、念のため書いておきます。この記事を読んで特定の宗教、もしくは宗教そのものに対して悪い印象を抱いた方もおられるかも知れません。ですが、それもまた

木を見て森を見ず

になってしまっている可能性があります。宗教のみならず、特定の国や特定の人種に対しても悪い印象を抱いた方もおられるかも知れません。ですがそれも狭い視野での捉え方だと思います。

願わくば、フラットな視点でこの世界を見つめ、美しいフィルターをかけて世界を観ていたいものです。


戦国パンダ部長のⅩ(旧Twitter)
https://twitter.com/@sengokupandabc

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