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戦国note

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#わたしの旅行記

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

熊本城「宇土櫓素屋根特別公開」訪問記

 2016年の熊本地震によって大きな被害を受けた熊本城。いまだに震災の傷跡が残りますが、少しずつ復旧が進められています。 復旧が済んだ建物 天守は2021年にいち早く復旧し、復興のシンボルとなりました。  倒壊した長塀も2021年に復旧し、重要文化財の復旧第1号となりました。  監物櫓は、2023年12月に復旧が完了しました。(こちらの記事で紹介済) 復興への道は半ば 現在の熊本城に入ると、本丸まで空中回廊を歩くことになります。  数寄屋丸二階御広間(すきやまるにか

高取城~山中に眠る天険の要害

 奈良県で唯一「日本100名城」に選定されている高取城は、高市郡高取町にあります。標高583メートル、比高(麓からの高さ)約350メートルという堂々たる規模の山城です。 高取城の歩み 城が築かれたのは南北朝時代の頃ですが、総石垣の近世城郭となったのは豊臣秀吉の時代です。天正13(1585)年、秀吉の弟・秀長に仕えた本多利久が高取城の改修を命じられました。  17世紀後半には植村氏が旗本から大名に取り立てられ、幕末まで高取城主となりました。植村氏の当主は代々「家」の字がつい

湯築城~見事な水堀を持つ中世城郭

 愛媛県松山市にある名城といえば、言うまでもなく松山城が挙がるでしょう。  知名度では劣りますが、松山城から路面電車で10分ほどの距離に「湯築城」という名城があります。日本100名城のひとつで、道後温泉のすぐ近く。現在は「道後公園」として整備されています。  湯築城は伊予の豪族・河野氏の本拠地です。築城は南北朝時代で、天文4(1535)年ごろに河野通直が改修したとされます。 伊予の豪族・河野氏の城 土づくりの中世城郭ですが、二重の水堀に囲まれている点が珍しいです。中央の

岡山城「月見櫓特別公開」訪問記

 私のnoteを読んでくださっている方は、城の「特別公開」に関する記事が非常に多いことに気づくと思います。  これまで、姫路城・大坂城・明石城・備中松山城の特別公開の記事を公開してきました。江戸城の一般参観の記事もこのカテゴリに入るかもしれません。各地の城の特別公開に行ってみるのが私のマイブームなのです。  昨年11月には、岡山城で重要文化財の「月見櫓」が公開されたため、訪問してきました。 奇跡的に残った櫓 岡山城は第二次世界大戦中の空襲により、天守をはじめとする多くの建

備中高松城~戦国の分岐点となった水攻め

 2023年最後の記事は、今年11月に訪問した備中高松城の紹介といたします。 備中高松城の戦い 天正10(1582)年、羽柴秀吉は毛利方の備中高松城を包囲します。低湿地に築かれた城は容易に落ちませんでしたが、秀吉は堤防を築いて水攻めにしました。城主の清水宗治は降伏し、城兵の命と引き換えに切腹します。  折しも、秀吉は京都で織田信長が討たれたという凶報を得ていました。秀吉は信長の死を秘匿して毛利方と和睦すると、すぐさま「中国大返し」を敢行し、明智光秀を滅ぼします。  歴史

備中松山城に縁のある人々

 先日、備中松山城の訪問記を「建物の魅力」の面から紹介しました。  今日は趣向を変えて、備中松山城に縁のある人やその逸話などを紹介していきます。 備中松山城主の変遷 備中松山城の始まりは鎌倉時代にさかのぼります。近世以前の備中松山城主としては、戦国時代に毛利元就と戦った三村元親が有名です。天正3(1575)年、備中松山城は落城し、元親は自害しました。  その後、備中松山城は毛利氏の支配下にはいります。しかし、関ヶ原の戦いによって毛利氏は大幅に減封され、備中松山城を失いま

岡山の名城・備中松山城の天守を"普段見えない角度"から見る

 岡山県高梁市にある備中松山城は、全国に12しかない「現存天守」のひとつがあることで知られています。  天和3(1683)年に修築され、明治維新以降も解体されることがなかった天守は、国の重要文化財に指定されています。また、天守の背後にある「二重櫓」も重要文化財です。今年11月4日~5日に内部が特別公開され、貴重な機会を逃さないため訪問してきました。 現存唯一の「山城」の天守 備中松山城が築かれたのは、標高430mの小松山山頂です。中世には、さらに奥の大松山に城が築かれてい

明石城「櫓特別公開」訪問記

 兵庫県明石市にある明石城は、日本100名城の一つでもあります。築城は江戸時代初期の元和5(1619)年。築城者は小笠原忠真(忠政)ですが、将軍徳川秀忠が直々に築城の命令を出しました。明石城は、西国大名への押さえとして築かれたのです。  ちなみに小笠原氏は、信濃守護を務めた家柄です。小笠原長時の代に居城の林城を放棄。その子・貞慶の代に松本城が築かれました。忠真は貞慶の孫にあたります。  忠真はその後豊前小倉に転封となり、以後は松平氏などが明石城主となりました。 現存する

吉田郡山城~毛利氏の繁栄を伝える大城郭

 安芸の国人領主から、中国地方の覇者に成長した戦国大名が毛利元就です。  毛利氏は鎌倉時代から安芸の吉田荘の領主でした。吉田郡山城は毛利氏の居城で、室町時代の享徳二(1453)年以降には本拠地として史料に登場します。  毛利元就が城域を郡山全体に拡大し、西国の覇者に相応しい巨大な要塞となりました。元就の孫・輝元は広島城を築いて本拠地を移し、その後吉田郡山城は廃城となりました。  広島市街地からバスで1時間半ほどで、安芸高田市役所前に到着。安芸高田歴史民俗資料館の脇から登

広島城~西国の覇者の城の楽しみ方

 広島城は、毛利輝元が太田川の河口に築いた近世城郭です。関ヶ原の戦いで毛利氏が敗れると福島正則が入り、福島氏改易後は浅野氏の居城となりました。  明治以降も、天守や表御門、太鼓櫓といった貴重な建物が残っていましたが、1945年8月6日の原爆投下によって全壊。残念ながら現存建築はありません。 二の丸の防御上の役割とは 現在の城址公園の入口にあたる表御門は、平成時代の再建です。ここから二の丸に入ることができます。  現在、広島城の遺構は本丸と二の丸程度しか残っていません。下図

安土城~近世の始まりを告げた城

 安土城は、織田信長が築いた城としてあまりにも有名です。  昨年、彦根城や観音寺城と一緒に訪問しようとしたのですが、台風の接近で安土城だけ断念。今年リベンジしてきました。  まもなく安土城の発掘調査が始まるとのことで、現在の安土城の姿がみられる最後のチャンスだろうと思い、酷暑をおして登城しました。 壮大な大手道 JR安土駅から徒歩約15分。まず目に入るのが、大手門西側の石塁です。  門をくぐると方形の狭いスペースに入り込む桝形虎口になっています。  入城の受付(摠見寺

赤穂城~山鹿流兵学を取り入れた個性的な城郭

 播州赤穂といえば、有名な塩の産地。そして、大石内蔵助に率いられた赤穂浪士の討ち入りが思い浮かぶでしょう。  大石の主君・浅野内匠頭の居城だったのが赤穂城です。赤穂義士ゆかりの町である赤穂市は、もちろん赤穂義士を町おこしの中心として推しています。  しかし、実は赤穂城は城ファンにとって非常に楽しめる城でもあります。  その秘密は、個性的な縄張りにあります。変形の輪郭式で、塁線が折れ曲がっている特異な形をしているのです。山鹿流兵学の祖・山鹿素行の助言を取り入れた結果、この

大坂城「櫓特別公開」訪問記

 大坂城(現在は「大阪」だが本来は「大坂」といった)と言えば知らない人はいないでしょう。町の象徴である復興天守が思い浮かびますね。  地元の人でも意外と知らないのですが、大坂城には江戸時代の貴重な建物が多く残り、13棟が重要文化財に指定されています。 大坂城「櫓」特別公開 大坂城の櫓は原則非公開ですが、時期によっては内部に入ることができます。今年8月の公開期間に地元(奈良)に戻っていたので、見学してきました。  今回公開されたのは、大手口多聞櫓と千貫櫓です。西ノ丸庭園入