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戦国note

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2021年5月の記事一覧

呪将 城井(宇都宮)鎮房

生誕は1536年、城井長房の子として誕生。1588年に黒田長政の策略で謀殺されています。祖先は藤原氏にあたるため艾篷(がいほう)という弓術を使える唯一の一族で弓術儀式で吉凶の占い、邪気払い、戦勝祈願することができたようです。 はじめは大内氏に属していましたが、大内義隆が陶隆房に謀反で殺されると大友宗麟の元に服属。宗麟の妹を娶ります。 鎮房も怪力無双、強弓の名手。北部九州に大友氏進出の足がかりとして活躍します。銀山も押さえていたのかな? 耳川の戦いで大友軍が島津軍に敗れる

老黄忠 立花道雪

さて、いろいろ大友家臣を紹介していますが、立花道雪こそ大友宗麟の家臣では随一の武将でしょう。 生誕は1513年。死没は1585年です。73歳の生涯を戦場に預けた老黄忠です。(老いてますます盛んという意味です。) 立花道雪といえば、雷を斬りつけて半身不随になった。娘に家督を譲った。義理息子が立花宗茂。武田信玄から訓えをこう手紙きた。などなど。 実際に輿に乗って出陣した記述があるのは1570年の今山合戦ですので道雪50歳くらいまではなんとか歩いていたと思われます。若くして雷

【関ヶ原合戦 年表①】慶長3年(1598年)8月~慶長4年12月

豊臣秀吉の死去の慶長3年(1598年)8月16日を起点として関ヶ原合戦の全体像を年表としてまとめています。 関ヶ原合戦の研究は、笠谷和比古氏の「関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制」をはじめ多くの研究成果が発表されており、新事実が明らかになっています。そこで私は、個々の学説を「関ヶ原合戦」という通史として捉えた時に、はたしてどのような流れになるのか、自分なりに内容を吟味しながら全体像を把握してみたくなり、年表としてまとめることにしました。 随時作成していく予定です。 慶長3

菅谷館~鎌倉時代に起源を持つ名城

 菅谷館は、杉山城と同じ埼玉県比企郡嵐山町にある。最寄り駅も同じ武蔵嵐山だが、駅からの方角は逆だ。  武蔵嵐山駅から徒歩15分程度で、傾斜はほとんどない。鎌倉幕府の有力御家人である畠山重忠の居館で、12世紀末に築かれた。中世の武家の居館跡で、ここまで保存状態がいいものは珍しいそうだ。「続日本百名城」にも選定されている。 城全体が、土塁でぐるりと囲まれている。はっきりと戦闘を意識してのことだろう。 三の曲輪・二の曲輪の間にある堀。右側には土塁が築かれ、高低差をつくっている

攻めの姿勢で拠点を変える

住む場所が変わると仕事も変わります。 というか、「仕事の都合上、住む場所を変えられない」と思いがちかもしれません。 ここで、戦国時代において、拠点を次々と変えた革命児・織田信長を紹介します。 ▼ 拠点を変えない常識当時の武将(大名:だいみょう)の間では、拠点を変えないというのが常識でした。何故なら、大名というのは元々「守護大名」という職業で、室町幕府により割り当てられた土地・地域一帯を警護・治安維持する代わりに年貢の取り立てを行うという領国管理職です。足軽という戦役時の軍

塙団右衛門で考える🤔~就職・転職の心得とは~

私も無職の期間が長くなると、昼前に起きてゴルフ⛳行ってから、ゆっくりランチしてと、まるでセミリタイア生活のような優雅な雰囲気になってますが、実は家計は火の車💦 何か就職や転職の参考になるような、多数の主君を渡り歩いた戦国武将のエピソードなんかはないかなぁ?と考えてみると… 池田輝政?藤堂高虎?確かに大大名になった人物達だが、就職・転職と言うより、世渡り上手のイメージが強い(もちろん武将としては一流)。 可児才蔵?うーん、個人的な戦闘能力は圧倒的だが、一般人が彼を真似るのは

杉山城~「戦国山城の最高傑作」

 埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城。非常に技巧的な土の城である一方、歴史的な記録が皆無なため、「謎に満ちた名城」として知られる。  以前は、高度な築城技術でつくられていることから、北条氏の城ではないかと推測されていた。しかし、発掘調査では15世紀末~16世紀初頭の築城とみられることから、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築いたと考える方が蓋然性がある。  武蔵嵐山駅から徒歩40分。城まではほとんど平坦だが、やがて小高い丘が見えてくる。標高は95mくらい。山城は急峻ならいいわけ

悲将 一万田鑑実(いちまだ あきざね)

大友家家臣で悲将といえる武将です。生誕は不明。没年は1588年。一族謀反の疑いで処罰されています。 大友義鑑、宗麟、義統と仕えた重臣です。大友軍の要といえる武将。 しかしながらその境遇は複雑で、宗麟の時代で1553年、父、鑑相(あきすけ)、叔父、宗像鑑久(むなかた あきひさ)が討ち取られます。 これにより一族の家督を相続。妹は宗麟の側室になります。 宗麟の下で菊池義武討伐、秋月文種討伐で活躍します。 1568年 叔父、高橋鑑種(たかはし あきたね)謀反。これを討伐に

越前朝倉氏の居城、一乗谷の歴史をご紹介(前編)

越前の名門朝倉氏が11代にわたり居城とした一乗谷は、東西の幅が500m、南北3kmの谷底にある平野に居館を築きました。 谷の入口部分には土塁を築いて城門が作られ、京に近い南側は上城戸、北側は下城戸と呼ばれています。 この間の約1.7kmには、朝倉氏の居館や侍屋敷などが作られ、一大城下町が形成されていたんです。 当時応仁の乱で京の町は荒廃していたので、多くの公家や高僧・文人が避難してきたことで、この一乗谷は飛躍的に発展。 華やかな京文化が開花し「北ノ京」とも呼ばれました。

越前朝倉氏の居城、一乗谷の歴史をご紹介(後編)

こんばんは、ゆうさいです。 今回は前回の投稿の後編です。 前編をまだお読みでない方は、先にそちらを読んでいただけるとわかりやすいので、まずはこちらをどうぞ。 1565年、足利義輝が松永久秀らによって暗殺されるという「永禄の変」が起こります。 朝倉義景さんは、大和国の松永久秀さんのもとに幽閉されていた義輝さんの弟、義秋さんの救出を助け居城のある一乗谷に迎え入れました。 義秋さんもその恩に報いるため、長年朝倉氏と敵対関係にあった加賀一向一揆との和睦を仲介し成立させるなど協

戦国大名の結婚事情~存在感のあった「公家の娘」

 駿河の戦国大名・今川氏親(いまがわうじちか)の正室だった寿桂尼(じゅけいに、写真)は、晩年病気がちとなった氏親の政務を補佐し、夫の死後も3代にわたって当主を後見した。有能な「女戦国大名」との評価が高く、氏親の死の直前に制定された分国法・今川仮名目録(いまがわかなもくろく)の制定に携わったという説もある。こうした女傑のイメージからは以外に思えることだが、寿桂尼は公家の娘である。 公家の娘はなぜ降嫁したか 寿桂尼の父・中御門宣胤(なかみかどのぶたね)は、藤原北家勧修寺流という

才徳勇猛 臼杵鑑速(うすきあきすみ)

大友家の武将紹介で吉岡長増さんの後に紹介する武将となると臼杵鑑速さんでしょうか。生誕は1520年。死没は1575年。とされています。宗麟より10歳くらい歳上ですね。55歳くらい生きたのですね。大友一族の流れを持ち、大友義鑑、宗麟と二代に仕えた武将です。加判衆を務めて、豊後の三老にまで列せられています。主に外交方面で活躍しています。室町幕府との交渉、毛利との交渉、島津との交渉と大友家の外交方面を担当しています。 そうかと思えば戦国武将らしく多くの戦にも出陣。功を挙げています。