見出し画像

老黄忠 立花道雪

さて、いろいろ大友家臣を紹介していますが、立花道雪こそ大友宗麟の家臣では随一の武将でしょう。

生誕は1513年。死没は1585年です。73歳の生涯を戦場に預けた老黄忠です。(老いてますます盛んという意味です。)

立花道雪といえば、雷を斬りつけて半身不随になった。娘に家督を譲った。義理息子が立花宗茂。武田信玄から訓えをこう手紙きた。などなど。

実際に輿に乗って出陣した記述があるのは1570年の今山合戦ですので道雪50歳くらいまではなんとか歩いていたと思われます。若くして雷に斬りつけたというのは伝説的な脚色かと思います。側室が2、3人いますものね。男児に恵まれず家督を長女誾千代に譲るのですが、跡継ぎが欲しい。そこで大友家臣で一番の武将の息子を婿養子にとなるわけです。高橋紹運さんの息子、宗茂に道雪は目をつけます。紹運も未来ある長男を鬼道雪の婿養子なんてとんでもない。と断るのですが。道雪は大友家臣、随一の武将。諦めません。そこで、紹運は次男で勘弁してください。と返事します。道雪はそれでもやっぱり宗茂が欲しいと返事します。「儂が一角の武将として育てるから。頼む。」鬼道雪が何度もしつこくお願いするので紹運もしぶしぶ了承します。道雪はかなり喜んだようです。宗茂には刀術、弓術さまざまな教師をつけて鍛えたようです。おかげで婿養子の宗茂が九州一の武将に教育されていくのです。

さて、道雪の生涯に戻りましょう。最初の手柄は1526年14歳八幡丸(はちまんまる)の時、父親の名代として馬ヶ岳城に籠る大内軍5000を3000の兵で降したことになります。降伏した兵の中にはかつての味方もいたが殺すことなくあたたかく迎えた。とあります。裏切り者の処理が後の戦を不利にしてしまうことがあるのをこの時には理解しているようです。この後、父親の死により元服。戸次氏の家督を相続します。名前も親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)と名乗りますが、家督相続後に大友義鑑に仕え、偏諱を賜り、鑑連(あきつら)と改名します。

1535年肥後国反乱に出陣。鎮圧。

1546年秋月文種反乱に出陣。鎮圧。

1550年 二階崩れの変。大友義鑑が死去。鑑連は義鎮を支持して家督相続に尽力。また、逐電した入田親誠(いりたちかざね)を追討して討伐しています。この方、鑑連さんの正室の父親です。嫡男、義鎮の不在中の政変。鑑連と義鎮はこのことを知っていたのではないか?という説もあります。おそらく、入田親誠さんから鑑連に廃嫡の話はあったと思われます。鑑連さんは謀略が嫌いな方ですのでおそらく義鎮に報告。義鎮が指示して凶行に及んだとみるのが一番しっくりくると思われます。嫡男、義鎮の家督相続により、反旗した菊池義武討伐に出陣。隈本城を攻め落としています。

1553年鎮連を養子に迎えて戸次氏の家督を譲り、隠居。隠居とかかいてるけど40歳の鑑連。まだまだ頑張ります。

1554年菊池義武を護送の中で自害させる。

1556年姓氏対立の謀反鎮圧に出陣。鎮圧。

1557年秋月文種の乱鎮圧に出陣。秋月文種を自害させる。

1560年門司城の戦いに出陣。功績を挙げる。

1561年功績が認められ、加判衆就任。筑後国方分守護代に任命されています。

1562年門司城の攻防戦に出陣。

1563年大友義鎮が剃髪。休庵宗麟と名乗るのにならって、自身も剃髪。麟伯軒道雪と名乗ります。(道雪)

1564年毛利、大友休戦協定締結に尽力。

1567年岩屋城攻略に出陣。宝満城、岩屋城攻略。

1568年立花山城攻略に出陣。立花山城攻略。

1569年龍造寺討伐に出陣。毛利の侵攻により、龍造寺と講和。多々良が浜の会戦に出陣。吉川元春、小早川隆景の毛利軍に苦戦。立花山城を攻略される。吉岡長増の策により毛利軍撤退。筑前国を占拠する。

1570年龍造寺討伐。今山合戦で敗退。この時道雪が輿に乗って出陣した記載あります。今山合戦の際は大友親貞の横の陣が道雪です。助けにいって負傷したのか?すでに先の毛利戦で負傷したのか?定かではありません。大友親貞は討ち死にしますが龍造寺とは講和しています。

1571年大友宗麟が道雪を筑前国守護代に任命。立花山城の城主となります。(立花の家督相続)。これにより加判衆辞任。

1575年道雪、娘誾千代に家督を相続。

1578年島津攻略戦(耳川の合戦)に反対する。筑前、筑後国の戦の裁量権を与えられ1585年の死没まで秋月氏や筑紫氏、龍造寺などと幾度となく戦い、休む暇がありません。当然ですが島津攻略戦には参加していません。

1580年道雪9か条檄文を発行。大友義統や家臣団を批判。この頃の道雪が大友政権から離れた位置と大友家同等の立場になっています。家臣筆頭の立場は変わりませんが義統の嫌いなタイプでしょうね。道雪は博多や宇佐神宮の保護など大友家の衰退を必死に支えている姿勢が檄文から読み取れます。

1581年道雪、誾千代の婿養子に宗茂を迎え家督を相続。道雪さん家督相続を何回もしたよと宣言する癖があります。おそらく、感謝とか大事にしていますくらいの気持ちかと思われます。本人はあまり家督を気にしていません。

1584年に龍造寺隆信が島津軍と戦い討ち死に。この機会に筑後国攻略戦に出陣。

柳川攻略の際、高良山にて陣没。遺言に「高良山に埋めよ。大友の守護となり睨みをきかせる。」などと言われたそうですが。「その必要はない。」と婿養子、宗茂は立花山城まで遺体を連れて帰り手厚く葬ったそうです。死後の大友義統の書状には忠節を顕彰していますがさらに家族の労を労う優しい言葉が綴られています。大友義統は道雪に義統廃嫡を宗麟に進言されています。そんな人にも感謝の意を示す義統も素晴らしいですがその様に評価させた道雪も素晴らしいと思います。

おそらくですが宗麟は死後の立花道雪一族の処遇を憂慮していたのではないかと思われます。息子、義統はあまり優秀ではありません。自分より優れた人を受け入れる度量がないようです。秀吉の九州侵攻の際には立花道雪の土地ごと秀吉へ進呈して自国の保護を訴えた。というよりは道雪一族を宜しく頼みます。という大友家内での争い事を憂慮したと考えるのが一番しっくりくる事ではないかと思われます。

あらかたの大友家臣の生涯を書きましたが立花道雪が戦国武将で一番好きな武将です。道雪は孫子や中国の戦記を愛してます。「山に埋めよって」ところも孔明などの逸話が混じっている感もあり、当時の戦国武将の学の深さも窺えます。

花が好きで花の種を部下にあげたりした記載もあります。ちょっとだけ可愛いですよね。

奸計が嫌いです。秋月文種がお忍びで城下に遊びにくるから打ち取りましょう。と部下から進言されますが逆に秋月文種に「ご注意なされよ。」と忠告の文書を送っています。正々堂々と戦う姿勢が望ましいと部下に諭したとあります。

また激しく宗麟を叱責する逸話がたくさんあります。

美女と酒に溺れて宗麟が国政をしない際には、自分も美女と酒に溺れたふりをして、宗麟が遊びに来たところで叱責しています。この時の美女の踊りは後の「鶴崎踊り」と言われています。

宗麟がでかい猿をペットで飼っていた際には家臣がその猿に悪戯されて困っていると聞き、宗麟の前で道雪に悪戯してきた猿を鉄扇で叩き殺します。宗麟が猿を使って家臣を困らせて遊んでいる。と忠告し、「人を弄べば徳を失う。」と叱責しています。

部下に優しい反面、厳しいところもあります。

酒の席の部下の不手際をかばい。「このもの、槍を持てば当家随一。」と部下を持ち上げています。その部下は道雪が危ない時には必死で戦ったとあります。

一年以上の戦の際にこっそり村に帰った兵には、兵だけでなく家族まで処罰しています。「大事な戦、持ち場を捨てて帰る子には家族は追い返さねばならない。」不忠だとして厳しい一面も見せています。

道雪の愛刀 雷切は立花家資料館に現存しています。雷に撃たれた後があるとか…。落ち着いたら是非観に行きたいですね。









よければサポートお願いします。