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戦国note

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2021年4月の記事一覧

明智光秀で考える🤔~新説!山崎の戦い!「人生を賭けた計画が大滑りした時」~

先日の蒲生氏郷を書いた私のnoteに、小学生の男の子(景虎号くん)がスキ♥️をくれた! ありがたいことである。 そんな彼のnoteに、山崎の合戦を囲碁を使って再現している記事があった。で、「どうしたら、明智光秀は勝てますか?」と言う質問! 明智光秀ファンとしては、とても嬉しい。☺️思わず勝たせてみせようと考えた🤔 で、誰かのコメントにもあったように、「天王山自体は、以外と戦いに関係してないんだよ」と… これには私も同感で、むしろ私は、明智光秀が天王山を取られることさえ想定して

経済力で時代を進めた戦国武将

サムネの旗は織田信長軍が使用していた旗印です。戦国時代の旗印と言うと、武田信玄軍の風林火山や、上杉謙信軍の毘沙門天が有名ですが、織田信長軍は「永楽通宝」と呼ばれる貨幣を旗印にしていました。 織田信長は、それだけ貨幣の流通を重要視していて、何なら織田信長が天下統一目前まで成し遂げかけた強さの秘密は、その圧倒的な『経済力』です。 ▼ 経済観念が優れていた織田弾正忠家1550年頃、愛知県西部辺りを指す尾張の守護大名は斯波氏でした。織田家はその下の守護代という役職で、織田信長は織

戦国史上、最も魅力に溢れた男

皆さん、わかりますでしょうか? 「人たらし」と呼ばれる程、上の立場の人からも下の立場の人からも、何なら敵からも信用・信頼され、数々の武将と手を組み、最終的に戦国時代を終わらせて日本を統一した男。 サムネでバレバレかもしれませんが、豊臣秀吉です。 ▼ 血縁は何も持たず、見た目も良くないところから豊臣秀吉は、織田信長や徳川家康、その他多くの戦国大名と異なり、元々の出自・親は大名であったり武家出身ではありません。農民か足軽かというのは各種通説があるようですが、どちらにせよ何も持

失敗から学ぶ (戦国時代編)

サムネの武将の肖像画が誰か、わかりますか? これは、実は徳川家康の肖像画なのです。もっと言えば、若い頃武田信玄に大敗した直後に、自分の「しかめっつら」を絵師に書かせた肖像画なのです。 ▼ 短気で血気盛んな徳川家康徳川家康といえば、豊臣陣営に大坂の陣を引こ起こさせるような「狸親父」というイメージがあったり、”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス” の句でも有名な通り、豊臣秀吉が亡くなるまで辛抱強く待ち続けたイメージが、一般的にはあるかと思われます。 しかし、実は短気で血気

大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1614~15年の大阪の陣において豊臣氏を滅ぼし、天下泰平を実現した。  豊臣氏を追い詰めた家康のやり方に関しては、「陰険な狸親父」のイメージがつきまとう。例えば、大阪の陣のきっかけとして次のような話が知られている。 「方広寺鐘銘事件」のあらまし 豊臣秀吉が建立した方広寺の梵鐘(巨大な鐘)に、「国家安康」「君臣豊楽」という文句があった。豊臣を滅ぼす機会をうかがっていた家康は、これに目をつける。「豊臣」を「君子」にする一方、「家康」の二文

知将 吉岡長増(よしおか ながます)

大友義長(おおとも よしなが)、義鑑(よしあき)、宗麟(そうりん)に仕えた武将。生誕不明、死没も不明。おおよそ1573年くらい。となっています。三代仕えた武将なので70から80歳くらい生きたのではないかと言われています。鶴崎城、千歳城の城主。法名は宗歓。島津侵攻時に活躍した吉岡妙林尼の義理の祖父。この辺の記録があいまいです。島津侵攻、大友家改易などで記録が無くなったのかな。 1532年陶軍侵攻時に記録があり、鏡城を落として輸送路を遮断した。とあります。1533年には大内軍侵

吉川広家で考える🤔~ランチのタイミングを誤るとどうなるのか?~

前回、明智光秀で考える🤔「新説!山崎の戦い!」で、余りにも長文になったので、今回は、前回より短めで行きたいと思います。 仕事をしている人なら、一度はこの問題で迷ったり、悩んだり、実際に人間関係がこじれたりした人もいるのではないでしょうか? そう、「ランチのタイミング問題」。 まさか、明らかに職場が忙しい最中に行く人はいないだろう?と思うのですが? これがなかなか、行ってしまう人もいるんですね! そんな「タイミングの悪いランチに行ってしまった戦国武将」のお話。 「関ヶ

戦国史上、最も失敗し、挽回した男

このタイトルは、仙石秀久という戦国時代の武将のキャッチコピーです。 週間ヤングマガジンで連載中の「センゴク」(宮下英樹先生著)という漫画の主人公であり、実在の武将です。 ここ何回か、「挑戦」をテーマに書いていたので、「挑戦」というテーマに最も近い戦国武将である仙石秀久を紹介します。 ▼ 仙石秀久とは戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名(だいみょう)で、江戸時代において信濃小諸藩の初代藩主となりました。(殖産興業政策として、そばを流行らそうとして、現代に伝わる小諸そ

学校で習った「一向宗=浄土真宗」は正しくないというお話

※画像は本願寺第11世・顕如(けんにょ)の肖像。  戦国時代、一向一揆を率いた僧侶の顕如は、しばしば「信長を最も苦しめた男」と言われる。  信仰で結びついた民衆の頑強な抵抗に、信長は徹底的な殺戮で応えた――というのが、一般的な一向一揆のイメージだと思う。  もともと、戦国期の一向一揆の研究は蓄積があまり多くなく、「民衆が権力者に抵抗した」というざっくりしたイメージが先行していた。しかし、近年の研究は一向一揆の姿を少しずつ明らかにしつつある。 一向宗と浄土真宗は同じでは

立花氏 〜鎮西最強の一族〜

鎮西は九州地方を表す行政区分の西海道の別称 豊臣秀吉は立花 宗茂を鎮西最強と称賛した逸話がありそのことから立花家の三人と宗茂の実父を選出し紹介したいと思う。 立花 道雪 (戸次 鎮連) 1513 〜 1585 立花 誾千代の実父で立花 宗茂の義父 若い頃に落雷に遭うも刀で切り捨てたという逸話から雷切道雪と怖れられることもあるがそのせいか半身不随となっしまった。 ただしそんな中でも輿や馬にのり戦場でも活躍 龍造寺氏と対峙することもあれば毛利氏とも対峙し幾たびも大友氏を救出。名

蒲生氏郷で考える🤔~いいポジションとは~

今回は、蒲生氏郷。またマイナーな戦国武将を持って来たな!と思うかもしれませんが、この蒲生氏郷、そんな小物ではございません。まず基本データから。 ・血統は藤原氏の末裔。 ・所領は会津90万石。(最終的) ・若い頃は、織田信長の直臣。 ・奥様は、織田信長の娘。 と、まあ、なかなかのキラキラぶり! かの、織田信長からは、「その目つき尋常の者にあらず」と言わせたとか、豊臣秀吉には、「蒲生を都の近くに置いておくのは危険だ」と、無理やり所領の配置換えをされた。など逸話に関わる人物もビ

赤備え 〜戦国最強の部隊〜

「赤備え」そんな言葉を皆さん一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。 大半の将兵がその名を聞くと震撼するほどの強さを誇る赤い甲冑を纏った最強部隊です。 かの真田幸村や井伊直政が赤備えを真似し戦場で大暴れしたのだとか。 そんな戦国最強部隊の赤備えを今回は紹介していこうと思います。 武田の赤備え武田信玄の重臣の飯富虎昌が率いたのが最初とされ舞台の甲冑などを紅く染めたその容姿から赤備えと名付けられたとされる。 しかし不忠により飯富虎昌は切腹してしまったため弟の山県昌景が引き継

鉢形城~天然の要害を生かした堅城

埼玉県大里郡寄居町にある鉢形城は、北条氏康の五男で氏政の弟にあたる北条氏邦(藤田氏邦)が整備拡張した土の城(平山城)である。 最寄り駅は寄居駅(東武東上線、JR、秩父鉄道)で、首都圏から比較的行きやすい部類だと思う。城址は公園として整備され、行楽シーズンには人でにぎわう。 鉢形城は、荒川に面した断崖絶壁の上に築かれた天然の要害である。標高は高くないが、川の方から取りついて上るのはまず無理だ。 本曲輪の最高地点からの眺め。上野(こうずけ)方面が見渡せるようになっている。