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経済力で時代を進めた戦国武将

サムネの旗は織田信長軍が使用していた旗印です。戦国時代の旗印と言うと、武田信玄軍の風林火山や、上杉謙信軍の毘沙門天が有名ですが、織田信長軍は「永楽通宝」と呼ばれる貨幣を旗印にしていました。

織田信長は、それだけ貨幣の流通を重要視していて、何なら織田信長が天下統一目前まで成し遂げかけた強さの秘密は、その圧倒的な『経済力』です。

▼ 経済観念が優れていた織田弾正忠家

1550年頃、愛知県西部辺りを指す尾張の守護大名は斯波氏でした。織田家はその下の守護代という役職で、織田信長は織田家の中でもさらに分家の織田弾正忠 (だんじょうのちゅう) 家という家に生まれました。

守護大名の下の守護代のさらに下の家老レベル。なのですが、信長の祖父の信定が津島港を支配したことにより、伊勢湾周辺の商圏・流通網からの税金をすべて回収するようになり、莫大な資金を得ていました

数字で言うと、通常の家老は1万石という中で、織田弾正忠家は石高換算で40万石程という一国の大名クラスの収益を上げていました。

▼ 当時の他の大名達

当時の感覚で言えば、守護大名(武将、お殿様)は、自分が統治する土地の農民から年貢を徴収する代わりに、その土地や農民を守ることが仕事です。しかも、少氷河期で作物が育たないため、自国の領民を食わすために領土争いやらが起きて治安が悪くなり、各国の大名は自分達が生き残るために重税を課したり関税を多く取っていました。

甲斐国の武田信玄もその代表で、他に黒川金山から金を掘ることでお金を産み出していました。金山・銀山も各大名の財源で、上杉家の佐渡金山や、大内〜尼子〜毛利が領土争いをしていた石見銀山なども有名ですね。

そもそも、自国の領民を食わすための農地獲得という意味での領土拡大程度しか考えていなかったのが、当時の大名達です。

▼ 織田信長の経済戦略

以上のような大名がほとんどの中で、織田信長は、水運流通網の獲得と、商業活発化による、経済圏の拡大を重視していることが、近年の研究で実績からも読み取れています。

織田信長が行ったことをまとめてみましょう。

・津島港、熱田港(現在の愛知)を領土に治める
・天下布武をとなえる(ビジョンの明確化)
・堺港(大阪)、草津港、大津港(滋賀)を領土化
・尾張→岐阜→安土(滋賀の琵琶湖沿い)への拠点移動
・楽市楽座による、組合廃止&自由商売の許可と関所廃止

これらはすべて、水運流通網の獲得と、商業活発化による、経済圏の拡大です。

他にも比叡山焼き討ち等の既得権益の破棄など、一般的な戦国大名とは真逆ではあるものの、現代の経済政策という観点から見ても非常に理にかなった、当時からすると革命的なことを行った結果、天下統一目前の強さを誇ったのが織田信長なのです。

織田信長は、戦国大名であると同時に、革命家であり商売人でもあったわけです。

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