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知将 吉岡長増(よしおか ながます)

大友義長(おおとも よしなが)、義鑑(よしあき)、宗麟(そうりん)に仕えた武将。生誕不明、死没も不明。おおよそ1573年くらい。となっています。三代仕えた武将なので70から80歳くらい生きたのではないかと言われています。鶴崎城、千歳城の城主。法名は宗歓。島津侵攻時に活躍した吉岡妙林尼の義理の祖父。この辺の記録があいまいです。島津侵攻、大友家改易などで記録が無くなったのかな。

1532年陶軍侵攻時に記録があり、鏡城を落として輸送路を遮断した。とあります。1533年には大内軍侵攻時に大将で出陣。大内軍の撃退に成功しています。

しかし、翌年、加判衆を解任。役を解かれています。この頃の権勢争いに敗れたのでしょうか。もし年齢が80まで生きたとすればこの時35から45歳くらい。悔しかったでしょうね。

1550年の二階崩れの変まで活躍はありません。

1550年二階崩れの変で大友義鑑が死去。遺言状で吉岡長増を重職につけるよう指名されて加判衆に再任します。以後、大友宗麟の重臣として活躍します。義鑑さんもその才能は知っていたのですね。

長増は主に豊前、筑前、肥前方面担当。対毛利の大将として活躍したようです。

1569年の毛利軍筑前侵攻ではほぼ負け状態。起死回生として尼子の遺臣、山中鹿之助を助けて尼子復興の手助けをしたり、大内の遺児、大内輝弘を周防で決起させたりしています。更には村上水軍を寝返らせて、大友対毛利の戦では中立にさせています。本当にやばい状況下だったのでしょう。出来る策全てした感があります。

以後はさまざまな外交方面で活躍。宗麟の正室の一族の争いに仲裁したり、島津貴久と面会したりと多忙な人だったようです。島津勝久が亡命して保護されるきっかけを作った人かもしれません。おそらくですが尼子復興支援の際に秀吉とつながりができたのではないかと思います。これが後の宗麟の秀吉へ九州出兵のお願いになったとすると先を見据えた武将だったかもしれません。

1572年までは重臣としていたようですがその後の記録はなく。翌年くらいに没したといわれています。大友全盛の中で没した武将。ある意味苦労が報われたと思って旅立ったでしょうか?

三国志でいえば呉の張昭、張紘みたいなイメージですね。豊後の知将。どうでしょう。

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