【小説】砂糖と悲しみ
僕には表現する事のできない彼女の事を書こうと思う。
彼女と僕は、大学4年生の時に、友達の友達になった。とても優しくて、しかもとびきり優秀な友達と僕が話している時に、彼女が割り込んできたのが始まりだった。来週に迫っていたテストの話を僕達はしていたから、それに興味を持ったのだろう。僕の友達はとても気が利く人だから、僕達が知り合いでない事を確認して、それから僕に彼女の事を紹介した。彼女は浅井と言った。ヴィオラが弾けて、テニスが出来た。音楽も運動もできるのなら、絵も描けるんじゃないかと僕は思ったのだが、その予想は外れていた。彼女の服は、若々しく、少しスポーティで、それでいて上品だった。積極的に話をする方ではなさそうだったが、気の利いた返答が多く、そして笑顔が絶えなかった。お陰で僕は、自分の無表情を心の中で反省する羽目になった。笑顔はやはり素敵なものだ。無表情でいて良い事なんて1つもない。僕は、少なくとも彼女と話している時は笑顔でいようと決めた。
テストの日になって、僕が試験開始15分前に教室に着くと、丁度上着を脱いでいる彼女が目に入った。この前テストについて一緒に話したから、僕は彼女の所に行って、「調子はどう?」と聞いた。すると彼女は、「循環器は出来る」と答えた。その日はテストが2つあった。循環器と脳神経だ。僕は、「脳神経は?」と聞いた。すると彼女は、笑顔で「5割」と答えた。「5割?」「うん」「それじゃあ受かんなくない?」「今からやるしかないんだよね」「ええ……」
僕は、自分事では全くないのに、何故か絶望的な気持ちになった。彼女の事を僕は心配する。「大丈夫?」「うーん、まあきっとね。大丈夫だと思う」
彼女は笑顔を絶やさなかった。でもこれを落としたら追試だし、追試は今回のテストより絶対に難しい。彼女は、笑顔でいられる状況にはないのだ。僕は怖くなって、彼女に頑張ってとか何とか行って、自分の席に逃げた。
循環器の試験は1時間30分で、試験開始後45分から退出が可能だった。しかし全問題記述だったから、そんな時間に退出できる筈はなかった。退出する人は、既に留年を覚悟している人だけだった(残念ながらそういう人は実際数名いた)。僕はそう思っていたのだが、試験開始45分、僕が教室正面にある時計を見た目の端が、浅井さんを捉えた。彼女は、筆記具を筆箱に閉まっていた。
彼女は循環器の試験も駄目だったのか? 僕は一瞬、疑問に思った。さっき彼女は、彼女は循環器は大丈夫と言っていた筈だ。それは嘘だった? しかしその時の僕は、目の前の問題を解く事に集中しなければならなかったから、彼女の事を考え続ける事は出来なかった。結局僕は、1時間15分で問題を全て解き終え、教室を出た。
そこには、懸命に勉強している彼女の姿があった。教室を出てすぐの廊下に立って、彼女はグミとタブレットを手に持って、暗記に集中していた。その時、僕は理解した。彼女は本気だった。本気で、きっと大丈夫だと言っていたのだ。試験を解き終えてから次の試験までの時間を、勉強時間に当てれば大丈夫だと、彼女は言っていたのだ。
試験が終了して1週間した時、とても優しくて、しかもとびきり優秀な友達が僕に彼女の成績を教えてくれた。「ああ、浅井さんは毎回、可だから。今回もそうだった」
彼女が何かしらで僕のライバルになるような事があれば、僕は絶対に彼女には勝てないだろうと、僕は思った。
僕と彼女は、音楽の趣味が比較的一致していた。と言っても、正確には、僕の音楽の趣味が彼女の趣味に含まれていたと表現する方が適切だろう。僕はクラシックは全く聞かないし、洋楽もほとんど聞かない。一方で彼女は音楽なら大体何でも聞いた。これは彼女自身の主張なので、彼女が本当に何でも聞いたのか、例えばラップとかも聞いていたのかは分からないけれど(もしかしたら彼女は、ラップは音楽ではないと考える過激派だったのかもしれない)、僕よりも遥かに音楽に関して教養が深かったのは間違いなかった。だから、趣味が一致していたなんていうのは、僕の傲った表現だったと思う。それでも、僕達がどちらもTen pencilsを大好きだった事には間違いがなかった。
そのグループは、ジャズっぽい曲調で若者にかなり人気だった。ジャズと言っても色々あるだろう。それは僕にだって分かっているけれど、どんなものがあるのか、僕には1つも分からない。だから僕がTen pencilsについて音楽的に述べられる事はこれだけだ。あとは、歌詞が良かった。とにかく歌詞が良かったのだ。ひたすらにぼんやりと、夢を抱き続けているような歌詞で、夢の存在を決して否定しようとしない、そして疑う素振りも見せないその歌詞が僕は大好きだった。
けれどリーダーがその年の10月に死んでしまったから、Ten pencilsは解散になった。
解散の翌日、僕達は大学で実習をしていた。そのお昼休憩で、僕と浅井さんは、他数名のメンバーと一緒に、近くの中華料理屋でご飯を食べた。誰かがTen pencilsを話題にした。正直僕はその話はしたくなかった。深いショックを受けていた訳ではないけれど、僕なりに思う所も考える所もあったし、やはり僕は、結構悲しんでいた。そして、Ten pencilsの音楽的な面については僕より何百倍も詳しかった彼女も、僕と同様に、いや僕より何百倍もも悲しんでいるかもしれないと考えていた。悲しんでいるかもしれないと。
僕が餃子を箸で掴んだ時、誰かが「佐藤くんそういえばファンだったよね」と言った。僕は真顔で「うん」と答えた。少し不機嫌が顔に出ていたかもしれない。けれど彼女の前では笑顔でいようと決めた事を思い出して、僕は頑張って表情筋を伸ばした。「どう思う?」と誰かが聞いた。「うーん、でも理由が分からないからね。そこが分からないと何ともって感じだよね」と僕は、思ってもいない、丸い言葉をスラスラと言った。こんな事が出来るようになったのは、僕が成長した証だった。
「浅井さんもファンだったよね。何か知らないの?」と誰かが聞いた。彼女は自然に「仕方ないよね」と答えた。「もう聞けないのは痛いけれど、亡くなったからね。他の人の曲を急いで探すとか、そういう切羽詰まった状況じゃないしなあ」
僕は誰にも気付かれないように、鼻で深呼吸して、可笑しくて笑ってしまいそうになるのを堪えた。彼女は笑っていた。
彼女の笑顔は、どうしようもなく素敵だった。彼女の前で海老マヨネーズと杏仁豆腐が、滑らかに光を反射していた。僕は、自分には到底理解できない彼女の幸せが、彼女の元から逃げないのであればそれでいいと思った。
大学5年生になると(あまりにも長いが医学部は6年制なのである)病院実習が始まって、班別の行動が主になったから、僕は浅井さんと会わなくなった。そして僕は浅井さんの事を考えなくなっていった。それは精神による健全な忘却であり、僕はその事を悲しいとも何とも思わなかった。そんな事よりも、僕は日々近付きつつある医師という職業からどのように逃げるかを考えるのに必死だった。今更ながら、僕は医師には向いていなそうだった。問題に対して解決策を考えるのも、そしてそれを説明するのも、僕は嫌いだった。そして何よりコミュニケーションを取るのが嫌いだった。
僕はその事を、とても優しくて、しかもとびきり優秀な友達に相談した。友達は非常に親身に話を聞いてくれた。僕にはそれで十分だった。相談というのは、解決策を知る為ではなく、自分の心の内を整理する為に行うものだから。病院から近い大学の学食できつねうどんとミルクレープを食べながら、その友達に相談に乗ってもらっている内、僕の心は落ち着いた。
その時、僕の背後から浅井さんの声が聞こえた。
「久しぶり」
僕はあんまり驚いてしまって、どう反応すれば良いのか分からず、振り返って浅井さんを10秒くらい見つめた。友達が、「おうどうしたんだ」と僕に言ったその声で、僕は我に返って、「ああ、久しぶり」と答えた。彼女は僕の横に座って、ざるそばを啜った。そばの横には蒸し鶏サラダがあった。
「甘くない」
僕は、そう思った。それが口に出てしまっていたようで、彼女はそばを啜り切ってから僕を見た。「すごい、よく気付いたね」「あー、確かに。浅井さん甘いもののの印象あったね。やめてるの?」「そう、何か一時期すごい食べてたんだけれど、そうしたら虫歯になるし体調崩すしで。下手に摂取控えるよりは、いっそやめちゃった方がいいかなって」
僕は質問する。「じゃあ、今はもう甘いものを食べてないの?」「そうね」「悲しくないの?」
浅井さんは顎に右手人差し指を当てて、軽く上を見た。そしてニコッと笑って答えた。「悲しいよお、そりゃあ」
彼女は少し急いでいるらしく、それからはほとんど僕達の会話に入らないで食事を取っていた。ただ僕は、どうしても彼女に聞きたい事が2つあったから、迷惑だと分かっていつつもそれを彼女に聞いた。
「浅井さんって趣味は何かあるの?」
浅井さんはサラダを噛みながら考えた。そしてこう言った。
「趣味はないけど、楽しい事は偶にあるかな」
友達が、「ヴィオラは趣味じゃないの?」と聞いたけれど、彼女はそれには答えなかった。口にサラダを入れている最中だったからだ。
「浅井さんは将来どっち系進むの?」
僕は彼女にそう聞いた。浅井さんは、また少し考えてから、答えた。
「それはわかんない」
そう答えた彼女は、本当に綺麗な笑顔だったから、僕は彼女の事を本当に理解できなくなった。でも僕の表情筋はとても引っ張られていたと思う。僕は大学生になってから一番笑顔だった筈だ。
彼女は本当に上品に、快活に椅子から立った。そして、「またね」と言ってから、僕達の元を去った。それから友達が僕に言った。
「彼女、不思議だよね。変な事してる訳でもないし、間違った事もしてないけど、こう、何かね」
僕はこう答えた。
「あんまり間違えないあまりね、こう、何かね」
でも、違う。そういう事じゃないのだ。彼女があまりにも間違えないのは、事の本質ではない。では何が問題なのか? いや、問題という言葉は不適当かもしれない。言い換えよう。彼女の心にあるのは何だ? そして、彼女と僕を隔てているものは何なのだろう? それが分かれば、僕はこんなに長い文章を書かなくて済んだだろうし、きっとこんなに苦しい思いをしなくて済んでいる。そして僕は彼女のようになれるのに。もし僕が、心の底からそうなりたいと、望む事が出来るのなら。
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