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異常という言葉で理解を拒むことの方がよほど異常だ。これが少数派の意見であることがさらに異常だ。(セフィロト解釈断片)

知らないことを恥じる必要なんて全くないが、わからないということには焦りを感じるほうが健全だ。信号では青が進めであるが、皆で渡れば怖くない、という新しい信念を持ち込まれてぶち壊されることなどは日常茶飯事だ。信号の青はなぜ進めだったのか、本気でわからないとしたら、必然の時間ののち、それをわからせるためだけに、いつか「皆」が襲ってくるかもしれない。

異質なものを安易に排斥するか、理解しようという永遠の旅を覚悟するか。前者が許されるのは人生を終えるまでだ。覚悟ができなければ、何度も異質な人生を繰り返して学ぶ。そしてその学びを人生の開始にあたって忘却するから笑い話にもならない。深層だけがその記憶を持つ。

深層を覚えていると、彼は私だな、というのをよく感じることになる。そんなことの繰り返しの中で、必然の偶然によって、彼もそれを思いだしたことを理解したときには、涙は止まらなくなる。相手のかたい部分が溶けることに共鳴して気持ちがいい。この味を知ってるカウンセラーも多いだろう。恋愛もこれの一形式だ。

マルクトとケテル付近では実に価値観が違う。両方を経験してわかっていれば、どちらが優れているとかいう発想にはならないし、どうせ経験したセフィロトの要素(占星術で言うなら惑星の性質)は全ての人が活用し、動員しながら過ごしている。多くの性格を持っているのが標準で、それが統合できないと多重人格になるだけだ。(金星的性質と火星的性質、土星的性質、木星的性質などは確かにあり、人生ではどれかが優位に働いて課題になることが多い。)

多重人格が病的なゆえんは、自分が自分自身のある性格が嫌いだからそれを自分自身が排斥する結果として起こるという点だ。いわば精神上のアレルギーである。本質的には異常なのではない。正常な機構としてそれは起こるのだ。つまり嫌いな自分自身が抗議しているという単純な現象に過ぎない。(この理解に基づけば「治療」もできる。本人が十分に理解・納得しなくてはいけないので、それが厄介かもしれないが…。)

そもそも多重人格を異常だというなら、一つの宇宙にいくつもの人格があること自体が異常だ(=その神秘は驚愕に値する)。もともと精神上の性質が分割されたから地上への道が存在する。そして地上が最も孤独なのだ。地上の孤独を紛らせることなく、自分自身と対決した結果、深淵の絶望を知れば、あとは帰り道だ。(イェソドを見て孤独から脱出する。イェソドは月だからルナティックな体験になるかもしれない。)

異常という言葉で理解を拒むことの方がよほど異常だ。これが少数派の意見であることがさらに異常だ。とはいえ、現象的には当然だ。ハードモードの神髄だ。この状態で横でも上でもなく、下へ向かおうとすることこそ異常だ。だが、それが横を飲み込んで上の上に到達する正解だ。レアとは異常だ。(こういう事情は経験を活かす経験が不足しているとどうにも理解できない。)

理論武装する必要もなく、罪悪感と無縁で楽しんでいられるというなら、それは地上に降りた目的を遂行しているのだろう。罪悪感は他のいろんな感情と同じように羅針盤だが、理論武装でごまかされやすい。自分自身の理論武装を整えるのは、ある意味新しい世界解釈として面白いことが言えるようになるかもしれないが、単純に他の人の武装を使う際には、その武装のもろさと弱点を点検し、使いどころを過たないことだ。そして依存することで提供者に物申せなくなることも覚悟することだ。

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