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本当のやさしさとは捨てないこと。捨てるにしても意味だけは救い上げること。

真実はやさしさの中にコード化されている。やさしさを段階的に発現しようとする意志が、その必然性を鍵として真実の詰まった箱を開けていける。そしてその箱の中に新たな世界がある。その世界を開くためにやさしさを必然とする経験に至り、次の箱を見出すことになる。そうやって芯の真実へ迫っていく。

全ての人から非難の集中砲火を集める人材を理解すること。数の暴力は最も強大だからこそ、その裏にこそ本当のやさしさの余地があるから当然だ。誰も味方がいなくなった状態でそこで決断する心の過程を理解し、自分の精神と同期させると体験してないことを経験に落とし込むことができる。実際的に覚醒を急ぐなら最速。

勧善懲悪などない。あるのは因果応報だ。悪を悪だからと糾弾しているとその糾弾という事実が自分に応報(往訪)してくる。誰かを悪だからと糾弾してよいと信じた瞬間、自分もまたその対象に入る。そして応報がある理由は敗北の後の成長なのだから、糾弾される側の本人はそれを機会として受け止めればいいだけだ。そのときに数など気にしても仕方ない。

そもそも感情には根拠がある。最初はその機構を明らかにしていくこと。その機構は複雑であるので全ての感情に対して構造が一致するとは限らないが、それでも感情には理由があると知っているだけでもその獣性を手放しにしないですむ。龍を眷属としたければその逆鱗を守護する(さらに言うなら鍛え上げる)存在になればいい。その逆鱗の名は信仰。

パンドラの箱の中にあるのは世界には要らないものだが、その要らないものを解放するから箱の中がクリアになる。箱から飛び出たもの(現時点で開闢している世界のあれこれ)に飲み込まれず、クリアになった箱の中身に着目する。伝承でもそこに希望があるとされる。希望とは新たな真実に至る世界なのだ。とっちらかった世界の中で箱を見つけるには希望を目印にすればいい。希望は信じるに通じるからだ。


以上を核心だけを簡単に言えば…

好きに溺れるだけでなく、嫌いを捨て去ることなく、よく味わって分析するのがいいということになる。嫌いを実際に好きに変えるのは容易ではないが、その方法は原理に通じればわかるはずだ。受肉しているならそこが限界ともいえる。それでもその理解への到達で補正が働くので、降りかかる同種の嫌いはなくなる。

好きは己の本質に通じ、嫌いは理解と真実へ至るカギだ。どちらも「それを捨てるなんてとんでもない!」(古代語?)

…簡単じゃなかった。

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