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アントン・チェーホフ『曠野』(小島信夫『残光』からもちょこっと)

 今回取り上げるのはアントン・チェーホフの『曠野』。この小説を読んだことで、僕はチェーホフがすごく好きになって、全集まで買ったんだけど、この小説を読んだのは、小島信夫の『残光』のなかで著者が読者に必死にチェーホフの『曠野』を読むように頼み込んでいるからだ。まずはその部分を引用する。新潮文庫、小説が始まって間もない12ページ、以下の文を読んで僕は『残光』を読むのを止めて、『曠野』を読み始めた。

 この作品の途中のことは、ふれもしないで、こんなことばかりいうのは作者やこの私の文章の読者にもすまない。(中略)どうか曠野を読んで下さい。

 これ読んで小説だと思う人います? これが小島信夫ですね。小島信夫の小説はまた別の回で取り上げると思います。

 ということで『曠野』です。ちくまのチェーホフ全集5巻の12ページ(岩波文庫の『子どもたち・曠野』では同じ訳で189ページ)からどうぞ!

 そうするうちに馬車で揺られて行く人びとの目の前には、はやくも広々と果てしない平野が、うねうねとして丘に包まれて広がっていた。それらの丘は、ひしめき合い、互いに顔を覗かせ合って台地を形づくり、街道の右手、地平線までつらなって、遠く紫色に霞んでいる。行けども行けども、どこからそれが始まり、どこで終わっているのかさっぱりわからない……。陽はもう街の背後から顔を覗かせ、静かに、屈託なげに仕事にかかっている。はじめ、遥か前方、空と大地とが一つに融け合っているところ、古墳や、遠くからだと小びとが両手を振りまわしているように見える風車などのあるあたりで、幅ひろい、鮮やかな黄色の縞が地を這って行った。やがて同じような縞がもう少し近くで光り始め、右手に這って行って丘を包んだ。何かしら暖かいものがエゴールシカの背中に触れ、後ろから忍び寄った光の帯が馬車や馬を越して、別の帯のほうへ滑って行ったかと思うと、たちまち広い平野全体が朝のほのぐらさをかなぐり捨てて、にこりとほほえみ、朝露をきらめかせた。
 刈り取られた裸麦、丈の高い雑草、高灯台、野生の麻――暑さのために黒ずみ、赤茶け、枯れかけていたあらゆるものが、今や朝露に洗われ、陽に愛撫されて、ふたたび咲き出そうとしてよみがえった。街道の上には海雀が楽しげに鳴きながら飛び交い、くさむらでは畑栗鼠が鳴きかわし、どこか遠く左のほうで田鳧(たげり)が鳴いていた。馬車に驚いた鷓鴣(しゃこ)の群れが羽ばたいて飛び立ち、「トゥルー」というやさしい声を立てながら丘のほうへ飛んで行く。きりぎりす、こおろぎ、かみきりむし、けらなどが、くさむらで軋むような単調な音楽を奏で始めた。

 長い引用をしてしまった。でも本当はこの倍は引用したい。こういう箇所がこの小説には五か所くらいある(のでもっと読みたい方は、ちくまのチェーホフ全集5巻か、岩波文庫の『子どもたち・曠野』をチェックを)。すごいでしょ? 以上!って感じだし、僕がなにを書いたところで蛇足でしかない。でも少しはなにかを書かなければいけない。基本的な説明としては、エゴールシカという少年が中学がある街まで、クジミチョーフという叔父に連れられ馬車で移動する。基本的にそれだけの小説。馬車で長時間、曠野を走る。その時間の長さに釣り合うだけの描写の一部が上に書き出したものになる。こういう小説は書こうと思っても、計画するのは簡単だけど、まあ書ける人はほとんどいないのでは? そのくらい素晴らしい。武田百合子もマルセル・プルーストもアントン・チェーホフもすごい! で、終わるのではちょっと文の量が足りない。いいなあと思うのは、「幅ひろい、鮮やかな黄色の縞が地を這って行った。」辺りから、朝日がだんだんと広がっていく感じがよく伝わってくる箇所。いいなあ~。これ以上書いてもしょうがないので終わります。

 ではまた

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