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ギュスターヴ・フローベール『素朴なひと』(『ボヴァリー夫人』とマリオ・バルガス=リョサ『若い小説家に宛てた手紙』とフリオ・コルタサル『夜、あおむけにされて』からも)

 今回紹介するのはギュスターヴ・フローベールの三つの短編からなる『三つの物語』から、『素朴なひと』。フローベールは十九世紀フランスを代表する小説家。この小説は、完成した小説としてはフローベール最後のものとなる。フェリシテという家政婦が主人公なのだが、わずか76ページでフェリシテの18歳から死ぬまでをあつかっている。そのため、「そして何年も過ぎた」とか、「三年後には、耳が聞こえなくなっていた。」などと、説明文で時間がぼんっと飛ぶところ(あるいは章と章の間で飛んだり)があるのだが、それでもこの小説を読んでいて、ただただあらすじだけ読んでいるような、つまらない気分になることはない。
 それは情景の描写が巧みだからだ。前に『失われた時を求めて』を紹介した時に、情景を括復的情景と単起的情景にわけて考えるジェラール・ジュネットの物語論を紹介したが、この小説では長い年数をあつかっているため、必然的に括復的情景が多くなっている。こういう人の一生をあつかうような小説は大抵どれもそうなるのだが、この小説の素晴らしいところは、括復的情景が説明っぽくなく生き生きとしているところ、さらに単起的情景はもう本当にその場にいるように臨場感があるところだ。論より証拠。
 まずは括復的情景の引用から。フェリシテはオーバン夫人という二人子どもがいる未亡人のもとで家政婦として働いているのだが、客によって応対が変わってくる。19ページから

 特にいつという決まりはなかったが、グルマンヴィル侯爵もちょくちょくオーバン家に顔を見せにきた。侯爵はオーバン夫人の叔父にあたる人物で、放蕩のために一文無しになり、今ではファレーズ残されたほんのわずかな土地で暮らしていた。侯爵がやってくるのは必ず昼飯どきで、そのうえ、しつけのなっていないプードル犬を連れてくるものだから、家じゅうの家具が足あとでべたべたにされた。ひとかどの紳士らしく振る舞うことにひどく心をくだいており、「亡き父上が」と口にするたびに帽子をちょっと持ちあげたりしたが、常日頃の習慣はごまかせないもので、自分のグラスにどんどん酒を注いでは、あれやこれやと卑猥なことを口走るのだった。フェリシテは、この男には丁重におひきとり願うことに決めていた。「グルマンヴィルの旦那さま、もうずいぶんお召しになりましたから、どうぞまた今度」と言って、ばたんと扉を閉めてしまうのだった。
 その扉は、かつて代訴人をしていたブーレ氏がやってきたときには、快く開かれた。その白いネクタイも、禿げあがった頭も、ワイシャツのひだ飾りも、たっぷりとした茶色のフロックコートも、嗅ぎ煙草をやるときのもったいぶった腕のしぐさも、この男の何もかもが、フェリシテには、ひとかたならぬ人物を目にしているときのような、あのどぎまぎした気持ちを覚えさせるのであった。

 いいですね。夫人に忠実で、夫人にとって好ましい人と有害な人を厳しく選別するフェリシテの生真面目な感じがこれだけの分量でよく表現されている。
 次は単起的情景の引用。フェリシテはオーバン夫人と二人の子ども(ポールという男の子とヴィルジニーという女の子)と一緒に農場まで散歩するのが習慣となっている。21ページから

 ある秋の晩、家まで帰るのに、牧草地を抜けていったことがあった。
 上弦の月が空の一角を照らし、曲がりくねるトゥック川の上に、霧がスカーフのようにかかっていた。芝生に放たれた牛たちは、四人が通りすぎるのを静かに見つめていた。三つ目の牧草地では、幾頭かの牛たちが身を起こし、輪になって立ちふさがった。「こわがることはありません」フェリシテは言った。そして、なにか哀歌のようなものをそっとくちずさみながら、手前にいた一頭の背中をさすってやった。牛はくるりと向きを変え、ほかの牛たちもそれに倣った。だが、次の牧草地を抜けると、一声、ぞっとするほど野太い声がわきあがった。霧にまぎれて、一頭の牝牛がいるのに気づかなかったのだ。こちらに近づいてくる。オーバン夫人が駆けだしそうになった。
「いけません! もっとゆっくり!」
 とはいえ、ふたりは足を速めた。背後に迫る鼻息は、しだいしだいに荒くなる。ひづめは、槌の連打のように、草の大地を打っている。そして、ああ、とうとう、牛が走りはじめてしまった! フェリシテはくるりと向きなおると、芝土の塊をつかみあげ、牛の目をめがけて投げつけた。牛はぱっと鼻面を伏せると、角を振りたて、全身を怒りに震わせて、恐るべき唸り声をあげた。オーバン夫人は、すでに牧草地の果てまで行き、子供たちと共に最後の土塁を越えようと半狂乱になっていた。フェリシテは、なおも牛を前にして、後ずさりをつづけていた。芝土を投げつけては目つぶしをくらわせ、そのあいだにも「お早く、どうかお早く!」と叫びつづけていた。
 オーバン夫人は掘割りの底におりると、まずはヴィルジニーを、次いでポールを盛り土の上に押しあげた。それから自分でも這いあがろうとしてが、幾度も転げ落ち、それでも気力を振りしぼって、最後にはどうにか上までたどりついた。
 牛はもうフェリシテを柵のところまで追いつめていた。よだれが顔に撥ねかかり、今にも腹が突き破られる、と思ったその瞬間、フェリシテは、柵木と柵木の隙間から、反対側へと身をすべらせていた。巨体の持ち主はすっかり虚をつかれて、足をとめた。

 ものすごい臨場感。括復的情景とか説明文が続いてから、いきなりこういうのがくると、余計にはっとさせられる。この小説は全体に弛緩するところと、緊張が高まるところ、ピントが引いているようにぼんやりと描かれるところと、ピントが合って、微細な部分までくっきりと描かれるところの対比が鮮やかだ。だから、すいすい読めるわけではないのに面白くって、途中で読むのを止めようとは思わない。
 この小説の最後の場面は一段と素晴らしいものだ。そこは引用しない。引用しないが代わりに(?)、翻訳者の谷口亜沙子の解説を引用する。226ページから

「素朴なひと」の最終章の冒頭、牧場の草いきれがフェリシテの屋根裏部屋に、夏の匂いを運んでくるというシーンがある。死の訪れを待つフェリシテの呼吸は苦しい。全身が震え、口の端には泡があふれる。だが、階下の聖体行列のにぎやかな音が、フェリシテを幸福で包みこむ。室内で進行しつつある個人のドラマと、その窓の下で執り行われる共同体の催し。この対比の構造は『ボヴァリー夫人』の有名な一節の反復である。主人公のエンマが色男ロドルフに口説かれつつある部屋のすぐ下で、田舎における一大イベントである農業共進会が粛々と進められている。歯の浮くようなロドルフの口説き文句とかけあうようにして、およそロマンティックなものとは程遠い、馬や豚や農作物をめぐる大げさな式辞がさしはさまれる。その場面に、フローベールの「ひとの悪さ」が爽快なまでに炸裂しているとすると、「素朴なひと」におけるフェリシテの死のシーンは、フローベールの「ひとの良さ」があますところなく露呈した場面だ。

 引用もしていないのに、最後のシーンの説明を読まされても何のことやらわからないだろう。なので、やっぱりすこしだけ引用する。フェリシテは屋根裏の自分の部屋のベッドに寝ている。あとの状況は上の解説の通り。81ページの終わりから

 フェリシテは、冷汗がこめかみを濡らすのを感じた。シモンのおかみさんは、いつかは自分もいく道なのだと思いながら、リネンで汗を拭いてやった。
 群衆のどよめきがだんだん大きくなり、ひときわ高まったかと思うと、また遠ざかっていった。
 一斉射撃の音がして窓ガラスが震えた。御者たちが聖体顕示台に敬意を捧げたのだ。フェリシテは視線を泳がせながら、やっとしばり出すような声で「あの子は大丈夫かしら?」と言った。鸚鵡のことを心配していたのだ。
 断末魔の苦しみが始まった。喘ぎ声がしだいにせわしくなり、あばら骨が突き上げられる。口の端に泡があふれ、全身が震えだした。
 やがて、吹き鳴らされるオフィクレイドの音が深々と響いた。子供たちの高く澄んだ声と、男たちの太い声が近づいてくる。ときおり、そのどれもがひっそりと静まると、撒き散らされた花びらにやわらげられた人々の足音が、芝生をわたる羊の群れのように聞こえてくる。

 もし、この情景の一部、窓下でおこなわれている聖体祭の情景がなければどんな感じだろう? これまでさんざん苦労し、さまざまな人々(と鸚鵡)の幸福を願い、そのために尽してきたフェリシテが苦しんで死んでいくだけの、どうしたって悲しくて、報われない感じのものになってしまっただろう。それが聖体祭の情景とセットにされることで、聖人ともいうべき人に相応しい最後の場面になっている。
 さて、上に引用した解説ではこの場面が、『ボヴァリ―夫人』の農業共進会の場面の反復だと述べていた。そこもほんのちょっとだけ引用する。新潮文庫、生島遼一訳『ボヴァリ―夫人』の199ページ

 こういって彼はエマの手を握った、彼女はそれをひっこめなかった。

≪耕作全般に良好!≫と委員長がさけんだ。

「たとえば、さっき私がお宅に行ったとき……」

≪カンカンポワ村、ビゼー君に賞として贈らる≫

「私はあなたとごいっしょにこられるとははっきり思っていたでしょうか?」

≪七十フラン!≫

「百度も私はもう帰ろうと思ったのです。でも、あなたのあとを追って、おそばにいることにしたのです」

≪肥料≫

 これだけの引用だとあんまり雰囲気はわからないかもしれないが、役場の二階の会議室の窓際で、主人公のエンマがロドルフに口説かれている。その下で農業共進会が行われている。もしこの場面で下で農業共進会が行われていなかったどうだろう? そうなればこれは単なる姦通の場面で、もっと気持ちが悪いものになっていたことだろうと思う。それが、≪七十フラン!≫とか、≪肥料≫とか、そういう暮らしに根差した言葉が飛び交う、田舎の人びとの型通りの思考回路がわかるような農業共進会の情景と組み合わされることで、毒をもって毒を制す的に、互いの毒が打ち消し合って、二人の場面について言えば、ロマンチックな感じがぐぐぐっと前面に出てきている。
 以上、『素朴なひと』と『ボヴァリー夫人』で同じだと言及された手法の紹介をしたが、久しぶりのnoteなのでもうちょっと書く。
 これらの小説で共通に使われている手法を、ペルーの小説家、マリオ・バルガス=リョサが『若い小説家に宛てた手紙』という、小説志望の若い人へ書かれた手紙という形式で書かれた小説理論書で紹介している。「第十一章 通底器」に定義がある。137ページ

通底器というのはちがった時間、空間、あるいは現実レヴェルで起こる二つ、ないしはそれ以上のエピソードが語り手の判断によって物語全体の中で結び合わされることを言います。その場合、エピソードを隣接させたり、混ぜ合わせることによって、それらが互いに影響しあい、修正しあって、個々別々に語った場合とは違った意味、雰囲気、象徴などをつけ加えようという語り手の意図が働いています。言うまでもありませんが、この手法が機能するためには、単なる並列だけでは十分ではありません。物語のテキストの中で語り手が隣接させたり、ひとつに溶け合わせたりする二つのエピソードの間に≪結びつき≫があるというのがもっとも重要なことです。

 まあ、そんなもんかという感じで読んでもらえば。具体的には『素朴なひと』と『ボヴァリー夫人』の引用箇所をあらためて読んでください。
 リョサの本は通底器が使われている小説の例として、『ボヴァリー夫人』をあげているが、その他にもいくつかあげている。その中の一つ、フリオ・コルタサル『夜、おあむけにされて』(この小説は『悪魔の涎・追い求める男』という岩波文庫から出ている短篇集にはいっている)からちょろっと引用する。小説は主人公がバイク事故を起こし、病院に運ばれる場面から始まる。45ページ

 そのあとレントゲン室に運ばれた。ニ十分後には、黒い墓石を思わせる写真(まだ、濡れていた)を胸に載せられて手術室に移された。白衣を着た、痩せて背の高い男が近づいてくると、レントゲン写真を眺めはじめた。女の手が頭の位置を変えたが、どうやらべつのベッドに移されたようだった。白衣の男がふたたび笑みを浮かべて近づいてきたが、右手にはなにか光るものを握っていた。彼の頬を軽く叩くと、うしろにいた男に合図した。
 夢にしては妙だった。彼はこれまで匂いのする夢など見たことがないのに、あたりにはいろいろな匂いが漂っていた。最初、沼地の匂いが鼻をついた。ふと気がつくと、左側にはそこから誰ひとり生きて戻ったものがない魔の沼、沼沢地が広がっていた。その匂いが消えると、代りに彼がアステカ族から逃れようとあがいている夜のような、不気味で得体のしれない芳香が漂ってきた。人間狩りに来ているアステカ族の戦士たちから逃れなくては、その考えが当然のことのように頭に閃いた。助かる道はひとつ、彼らモテカ族のものしか知らない細い抜け道を通って、密林の奥深くに身を隠すことだ。
 夢だということは自分でもよく分かっていた。あの匂いだけがなじみのない、なにか異質な、夢の中の遊戯と関わりのないものに思えて、彼をひどく苦しめた。

 病院と密林、二つの情景が交錯する。ここだけ読んでもこの小説の感じは全く伝わらないと思うのだけど、この小説で通底器がどう機能しているのか説明しだすとネタバレになるのでやめときます。是非小説(岩波文庫でフリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』!)を読んでみてください。
 もう読んだよ! とか、読んでないけどネタバレなんて気にしない! という方には、この小説のアニメーションがあるのでYouTubeを貼っておきます。という辺りでまた!


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