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アーネスト・ヘミングウェイ『二つの心臓の大きな川』

 今日はアーネスト・ヘミングウェイを取り上げる。ヘミングウェイの短編全部読んでいるが、その中で最高のものは初期、新潮文庫のヘミングウェイ全短編の1におさめされているものだと思う。長篇を含めてもこの時期(ヘミングウェイがパリにいたころ)の短編がナンバー1ではなかろうか? と、無責任に言ってみる。

 そのヘミングウェイの初期作の中でも今日取り上げるのは『二つの心臓の大きな川』。原題は『Big Two-Hearted River』。パート1とパート2に分かれている短編。Two-Hearted Riverというのはアメリカ、ミシガン州のアッパー半島にある。この作品の主人公はニック・アダムスという名前で、後で取り上げるように複雑な事情を抱えているのだが、それはのちほど。まずは自然の描写から。新潮文庫の高見浩訳で、188ページ(パート1の方)からどうぞ!

 松の群落の中に、下生えはなかった。松の幹はまっすぐ上に伸びるか、互いに寄り添うように傾斜していた。幹は一直線に伸びて茶色く、枝はなかった。枝はかなり上方に生えていた。それが隙間なく交錯しているところでは、下の茶色い森の地床に濃い影が落ちていた。森の周縁には、何も生えていない箇所もあった。褐色の柔らかいその地面を、ニックは踏みしめた。そこは松葉が降りつもっている地面で、高い枝の連なりのもっと外側にまでひろがっていた。松の木々が高く伸び、枝も高い位置に移った結果、かつてその影で覆われていた地面が裸のまま日なたに残されたのだ。この森の広がりがとぎれる、まさにその境い目から、ニオイシダの群落がはじまっていた。

  いいですね。無駄がなく、でもちゃんと方々に目が行き届いている。こういう風に対象をつきはなした淡々とした描写はヘミングウェイの特徴だが、こういう文は何度読んでも味わい深いもの。余計な調味料が入っていないから存分に素材を味わうことが出来る料理のように。ということで(?)、次に引用するのは料理の描写。ニックはテントを立てた後、料理にとりかかる。192ページ(パート1の方)から、どうぞ!

 松の切株を斧で割って何本か薪をこしらえると、彼はそれで火をたいた。その火の上にグリルを据え、四本の脚をブーツで踏んで地中にめりこませる。それから、炎の揺れるグリルにフライパンをのせた。腹がますますへってきた。豆とスパゲッティが温まってきた。そいつをスプーンでよくかきまぜた。泡が立ってきた。いくつもの小さな泡が、じわじわと浮かびあがってくる。いい匂いがしてきた。トマト・ケチャップの壜をとりだし、パンを四枚切った。小さな泡がどんどん浮き上がってくる。焚き火のそばにすわり込んでフライパンをもちあげると、ニックは中身の半分をブリキの皿にあけた。それはゆっくりと皿に広がった。まだ熱すぎることはわかっている。その上にトマト・ケチャップをすこしかけた。豆とスパゲッティはまだ熱いはずだ。焚き火を見てから、テントを見た。舌を火傷したりして、せっかくの幸福な気分をぶち壊しにしたくない。これまでだって、揚げたバナナを賞味できたためしがないのは、冷めるのが待てないせいだった。彼の舌はとても敏感なのだ。それでも、腹がすごくへっている。真っ暗闇に近い対岸の湿地に、靄がたちこめているのが見えた。もう一度テントを見た。もういいだろう。皿からスプーンいっぱいにしゃくって、口に運んだ。「やったぁ」ニックは言った。「こいつはすげえや」思わず歓声をあげた。

 すごくおいしそう。こんなおいしそうな描写ってなかなかない。最後にもう一つ。釣りの場面。203ページ(パート2の方)から、どうぞ!

 彼は流れの中に踏み込んだ。ぞくっとした。ズボンが脚にへばりつく。靴底の下に砂利が感じられた。ぞくっとする水の冷たさが、足元から背筋に這いあげってくる。
 打ち寄せる川の流れが両脚をとらえた。踏み込んだ地点の水深は、膝上まであった。彼は流れにしたがって移動した。靴の下で小石がすべる。両脚の前で渦巻く水を見下ろしてから、バッタを一匹とりだそうと壜を傾けた。
 最初のバッタは壜の口で飛びはね、水中に落下した。と思うと、ニックの右の足元の渦に吸い込まれて、すこし下流の水面に浮かびあがった。肢で水を蹴りながら、みるみる流されてゆく。なめらかな水面に生じた早い渦の中に、そいつは消えた。鱒に食われたのだ。
 二匹目のバッタが壜から顔をだした。触覚が揺れている。前肢を壜の外にだして、いましも飛びあがろうとしている。ニックはそいつの頭をつかみ、体を押えながら細い針を顎の下に突き刺して、胸部から腹部の最後の結合部まで刺し通した。バッタは前肢で針をつかむと、タバコ汁のような茶色い液体を吐きだした。ニックはそいつを水中に放りだした。

 釣りの描写の前までだが、このバッタを壜からだして針を通すだけの描写が素晴らしい。

 小説はこのまま釣りの描写を続け、キャンプに帰るところで終わる。そんな小説を読んで誰が、これが戦争にいきPTSDになったニック・アダムスの物語だ。などと思うだろう? 確かの小説冒頭、唐突に山火事で焼き尽くされた町の説明があるが、何の情報もなければ、それがニック・アダムスの傷ついた心のメタファーだとわかる人などまずいないはず。この題名『二つの心臓の大きな川』(おそらく川の名前に合わせて小説もPART1とPART2にわけている)にしても、そういう説明をきいてようやく、じゃあこの小説は心に傷をおったニックがTwo-Hearted River(二つの心臓の川)、つまり一つ心臓が死んでももう一つ心臓をもっている川という、生命力あふれる名前をもつ川に癒される、という蘇りの物語だということがわかる。

 もちろん、上に書いたような小説の意味づけは全く不要で、そこはこの小説が書かれた背景の理解を深めるのに役に立つが、小説自体には邪魔でしかない。この小説の素晴らしいところは、一人の男のアウトドアの情景がいきいきと描かれていることだ。ではなぜ上記の説明を僕が書いたかといえば、今回の引用はあまりにも何も説明がいらなすぎて、小説の抜粋だけになってしまう恐れがあったから。アーネスト・ヘミングウェイ読んだことがないかたは新潮文庫、全短編の1がお薦めです。

 ではまた。

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