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自分の履歴書⑬ 30代後半、プレイヤーだけではいけない年齢になる

この記事は、サービスの成長だけではなく、若手メンバー育成にも関わる記事です。

お客様に感謝する

引き続き、機能追加やUX改善を行いながらサービスを成長させることに尽力しました。サービスを成長させることは、お客様の満足度を上げること、満足度が上がれば利用者数は増えるだろうと思っていました。毎朝、お客様から届くレビューやご意見全てに目を通すのが習慣で、的をついたご意見はすぐにサービスに反映させていました。
もちろんお客様の意見を反映させるだけでは駄目です。「何をほしいかなんて、それを見せられるまで分からない」というスティーブ・ジョブズの言葉があります。要望を汲み取るだけでは不十分で、それを超える新しい価値を提供したいといつも思っていましたし、実際に世に出していました。新しい機能をお客様に投げかけ、またお客様からご意見をいただく。サービスを通じていつも会話しているようなイメージでした。

振り返ると一番良い時期だった

サービスが大きくなるに連れ、プロジェクトメンバーも増えてきました。当初は全員が気心知れたメンバーでしたが、だんだん接点の薄いメンバーも増えてきました。それでも大所帯になるとできることのスケールが大きくなってきて、心から仕事が楽しいと思える日々が続きました。昔の私の社会人生活からは想像もしていなかったことです。
日々の業務の他にも、シリコンバレーに行き、まだ世に出ていないプロダクトに関わるサービスをデザインしたり、渋沢駅をジャックした広告をデザインしたり。ありがたいことにそのどれもがやって終わり、ではなく、きちんと社会的に評価されていました。

謙虚さを忘れずに

自分でも想像していないほどに評価され続けている中で、得意げな気持ちや慢心、謙虚でなくてはいけない、などいろいろな思いが頭の中で入り混じっていました。
実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。高い評価をいただいていると人は弱いものでどうしても高飛車になってしまうものです。うまく行っている時ほど謙虚に、と強く意識するようにしていました。それは、自分でも無意識のうちに態度だけが大きくなっている事が徐々に出てきていたためです。

周囲を成長させなければならない年齢になっていた

私は30代後半になっていました。特に若い人が役職に就く傾向にあるIT業界で、私のような年齢でプレイヤーでいるのは比較的少ないのです。上司からはナレッジを若いメンバーに共有し成長させるよう言われました。同時に、社外へも情報を発信すべきだと。愚直にプレイヤーでいるだけではなく、周囲を成長させる役割をしないといけない年齢だったのです。
自社ブログに記事を執筆したり、セミナーなどに登壇したりといった活動もしました。ありがたいことに記事やセミナーの内容はSNSで拡散していただきました。
こういった記事はネット上に残り続けるので、うまく行っている時は良いけれど、うまく行っていない時は読まれたくないな、、と思っていました。有名無力無名有力、と心に留めていた私にとっては、自分で自分の首を絞めているような気持ちでもありました。

感性は教えられない

一気に3人の若手がメンバーとして移籍してきてくれ、育成する役割を担いました。
何かの課題を解決したり、新機能を追加する際に、デザイナーの役割はざっくり3つあります。
・どのような体験にするかというUX
・使い勝手を考えるUI
・どのような見た目にするかというビジュアルデザイン
最近はこれらが分業化されている企業も多いようですが、当時の私は1人でこの3つの視点で考えていました。
UIに関しては、ある程度ルール化できるのでナレッジとして教えることができます。ただ、UXやビジュアルデザインは感性による部分も大きいと私は思っていました。もちろん世の中にはこの感性の部分をロジカルに説明できるデザイナーもたくさんいるのでしょうが、私にはそのチカラが弱かったのかも知れません。
本もろくに読まない、映画も芝居も長いこと行ってないーそんな人が美術館やホールの設計で力を出せますか?」建築家の安藤忠雄氏の言葉です。良いUXを提供するには、様々な体験をしなければいけないですし、良いビジュアルデザインを作るにはたくさんのグラフィックやアートにふれて感動してこそ生み出せるものなのです。20代の時に教わった上司とのやり取りを思い出し、後輩にも伝えました。例えば高いレストランに行ったら、なぜ高いのかを自分なりに分析するクセをつけると良い。料理が美味しいだけではないはずなのです。

だんだんとほころび始める

3人来た若手は結局2人がチームから去っていきました。大変だったのだと思います。それはメンバーの育成のためにサービスの品質は落とせないという思いがあり、私の世界観を後輩にも押し付けてしまっていたのかもしれません。分担していた仕事は自分の手元に戻ってきて、また大半を自分でデザインすることになりました。
管理職につきなさい、と言われましたが、メンバーを育てることよりもお客様が直接触れるものは私が細部まで責任を持ちたい、という思いが強かったです。これでは、ただのガンコな職人ですよね。成功しているうちはそれでも良かったのですが、成功し続ける人間などいないのです。それでも評価をいただいていた私はプレイヤーにしがみつき続けるのでした。

社会人30代後半その2へ続きます

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