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【「ナチス」という言葉の重み】

今年は色々なことが起きたが、私にとってはあることを改めて考えるきっかけとなった。それは、日本の言論空間における「ナチス」や「ファシズム」など、批判する相手をナチスドイツと関連させる手法である。

昨日銃弾に倒れた人物は、首相在任中に様々な方向から批判されていた。しかし、中には彼が公人であることを良いことに、度を超えた誹謗中傷やレッテル貼りもあった。「ヒトラー」や「ナチス」に関連した物がその代表格だ。数々の「疑惑」はあったが、結局問題は無かったし、「独裁者」呼ばわりされることもあったけど、彼はどんな誹謗中傷も言論弾圧の口実にしなかった。「ヒトラー」や「独裁者」というのは実態に属していたのだろうか?むしろ、彼をナチスと同一視する人物が、ナチスが存在していた頃同様に独裁体制を強いていた国の国是であった思想をベースとしている党を何の疑いもなく支持していたりその党に所属していたりしていることもあり驚いた。

今年の冬にはロシアによるウクライナ侵攻が勃発したが、その時にはロシアがウクライナを「ネオナチ」であるとレッテルを貼って侵略した。この辺りの歴史について予め調べていた私は、「またか」と思った。誇張や嘘を交えながら周辺諸国を「ナチス」「ファシズム」呼ばわりして自分達がそうした国々に危害を与えるのは、ソ連やロシアがよく行ってきたことだからだ。

日本では、例の人物に対してだけでなく、自分が「問題がある」と思った人物に「ナチス」や「ファシズム」のレッテルを貼る人が少なくないしむしろ正当化されているが、今一度よく考えて欲しい。本当に実態に即した批判なのか。そして、むしろその人物を「ファシズム」と関連させようとしている側が独裁体制を暗に支持していないか。ウクライナ人は「ナチス」や「ファシズム」とレッテルを貼られた上で命を奪われ続けている。言葉は大切に使って欲しい。