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<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版

<日本灯台紀行 旅日誌>紀伊半島編

#12 七日目(1) 2021年3月26(金)

大王埼灯台撮影2

紀伊半島旅、七日目の朝は、近鉄志摩線の鵜方駅近くのビジネスホテルで目が覚めた。

<6時半起床 7時半出発 8時大王埼灯台>。おそらくは、旅も後半になり、疲れてきて、詳細なメモを書くのが嫌になったのだろう。したがって、今からは、思い出す、という精神的な労力が、多少必要となる。面倒ではあるが、ボケ防止のために、頭を使ってみよう。

近鉄志摩線の鵜方駅近くのビジネスホテルは、国道に面していた。大王埼灯台までは、この道をほぼ一直線に南下(正確に言えば南南東下)すればいい。かなりいい道で、走りやすかった。しかし、普通の市街地走行とほぼ変わらないので、面白みはない。書き残しておくことがあるとすれば、<甲賀>という地名のことだ。たしか、公園かなにかの名前になっていて、大きな案内板が目に付いた。

<甲賀>といえば、条件反射的に<伊賀>だろう。<忍者>だね。その忍者の里が、ええ~、この辺なのかと思った。しかしこれは、まったくの勘違いだったことが、先ほど調べてわかった。徳川家康の<伊賀越え>で有名な、甲賀衆は現在の滋賀県甲賀市付近が本拠地だったらしい。敵対関係にあったとされる<伊賀衆>は、その少し南の三重県の西部だ。それと、甲賀は<こうが>と発音するものとばかり思っていたが、<こうか>とも読み、この方が一般的らしい。したがって、眼にした案内板の甲賀の文字も<こうか>と読む。要するに、二重の勘違いをしていたことになる。ま、それにしても、子供の頃に夢中で読んだ、忍者漫画は面白かった。<伊賀の影丸>が最初で、そのあとの、白土三平の<サスケ>と<カムイ外伝>が特に好きだった。比較的幸せな時代だった。

ジジイに戻ろう。8時過ぎに大王崎の有料駐車場に着いたのだろう。たしか正面の小屋に料金を払いに行ったような気がする。愛想のいい爺が出てきたので、再駐車できるかと聞くと、領収書のような紙切れを渡され、それ見えるところに置いてくれと言われた、のかな?よくは思い出せないが、いい天気だったことは確かだ。

昨日の下見で、撮影ポイントは二か所だけだとわかっていた。一か所目の<八幡さん公園>に登った。もろ、逆光で写真にならない。とはいえ、いちおうは撮ってみた。またあとで来よう。あっさり公園から下りて、うす暗い急な遊歩道を上った。灯台の前を通り過ぎ、今度は、急な階段を下った。防潮堤沿いの崩れかかった旅館をちらっと見て、砂利浜に降り立った。ここが二か所目の撮影ポインドだ。明かりもほぼ順光、灯台に当たっている。砂利浜を歩き撮りしながら、灯台の立っている岬へと向かっていった。

狭い砂利浜で、背後には防潮堤がそびえたっている。さらに行くと、砂利浜はなくなり、かわりに、テトラポットが防潮堤の前にゴロゴロと寝そべっている。なるほどね、すぐ上には例の旅館があった。波しぶきをテトラが防御しているわけだ。この先は、行けないこともないが、じきに法面加工の断崖で行き止まりだ。

それに、岬のほぼ真下あたりに来ている。すでに灯台も見えない。引き上げようかな、と思ったが、浜の行き止まりに、羊羹のような形をした巨大なコンクリートがある。これは、明らかに、防潮堤を波しぶきから守っている代物だ。いわば、テトラのかわりに設置したのだろう。それにしても、中途半端な感じで、不自然さが際立っている。

なにかの衝動に駆られたようだ。テトラに足をかけ、羊羹コンクリートの上に登った。別にどうということもない。周りを見回した。海がきれいで、広々していて気持ちがいい。ただ、弧になった砂利浜の反対側の断崖が、無残に崩れていて、赤肌をさらしている。しかも規模が大きい。それに、長い間、放置されたままなのだろう。ま、復旧工事の法面加工も並大抵じゃない。予算がないんだな。

滑らないように、というのは、羊羹の上は時々波しぶきに襲われ、濡れていたからだが、慎重に巨大コンクリートの上から下りた。前を見ると、波打ち際に、テトラが一基、砂の中にほとんど埋まりかけている。これまた不自然な光景だと思った。ほとんどの仲間は、防潮堤際でごろごろしている。したがって、このテトラ君だけが猛烈な波しぶきに耐えきれず、波打ち際まで転がり落ちたのだろうか?いや、ひょっとすると、犠牲者はもっといて、砂の中にたくさん埋まっているのかもしれない。

とにかく、波打ち際に太い腿が一本、天に向かって突き出している。近づいてみると、コンクリの表面が風化していて、中の砂利が見えている。貝なども付着している。記念にと、いちおう、周りの風景も入れて写真を撮った。さらに、おもしろ半分でテトラ軍団に近づくと、最前線の兵士たちも、かなり風化している。のっぺりした、不愛想な灰色のコンクリが、いい塩梅にオブジェ化している。灯台と絡めて、撮れないものかと、少し真面目になってアングルを探った。だが、無理だった。背景の灯台が小さすぎる。それに、浜辺の風化したテトラポットなどは、よほどの思い入れがない限り、いくらなんでも、写真にはならないだろう。

砂利浜に足をとられながら、防潮堤の上に戻った。いまさっき下りてきた急な階段を見上げた。また<八幡さま公園>に戻って、灯台を撮ろう。例の崩れかかった旅館の横を通り過ぎた時、ガラスの引き戸越しに、中をチラッと覗き見た。誰もいなかったが、いい感じで日が差し込んでいる。日向ぼっこには最適だなと思った。

防潮堤が終わる所からは、急な階段だ。左手は海、絶景!右手は断崖で、石を積んだ壁で補強してある。この石の壁には、なぜか、ところどころに大きな暗渠があり、それがドクロの目と鼻のように見えて面白かった。それと、コンクリで塗り固めた壁よりも、趣があり、きれいに積みあげられた石たちには、どこか人間的な温かみがあった。職人の技が、人間の生活を守り、違和感なく、自然の風景の中に溶け込んでいるように思えた。

階段を登り切ったところには、桜の木が一本あって、白い花が咲いていた。少し手前で立ち止まって、記念に一枚だけ写真を撮った。この<記念に一枚>というのも、わけのわからない衝動のひとつで、やや<マーキング>に似ていないこともない。

そのあとは、灯台の敷地に入った。入場料を払い、灯台の正面に回ってみた。というのも、大王埼灯台の特徴として、正面、というか、海側から見た造形が独特なのだ。何本もの柱で支えられた回廊?が灯台の底部を構成している。それが、タコが八本の足で立っているように、自分には見えるのだ。ただ、惜しいかな、引きがない。自分のレンズでは、タコ足を含めた灯台の全景が、画面におさまり切れなかった。

灯台にも登ってみた。上からの眺めは最高だった。南側は、まさに大海原。西側には、<八幡さま公園>。展望スペースの全景が見えた。さらに、北側には、上半分に錆のでている電波塔があり、その背後には、思いのほか、人間の住居が密集していた。大海原とマッチ箱のような住居との対比が、なぜか小気味よかった。やはり、これもいわば<神の目>なのだろう。自分が、ちっぽけな住居で生活している、ちっぽけな人間だということを一瞬、忘れさせてくれる。

灯台内部の大きなレンズや、どてっぱらのガラス窓から見える外の景色などを、冷やかし半分に撮りながら、極端に急で狭い螺旋階段をおりた。そのあとすぐに灯台の敷地を出た。太陽がだいぶあがってきていて、薄暗い遊歩道の、ところどころに、日が差し込んでいる。再度<八幡さん公園>に上がった。岬に立つ大王埼灯台を横から狙った。天気もいいし、ちょうど灯台の右半分に明かりが当たっている。今が勝負時だと思って、気合が入った。

断崖の柵際を行ったり来たりしながら、右側の水平線と灯台の垂直が確保できるベストポジションを探した。だが、そもそものところ、水平線と、灯台の立っている岬は、<ねじれ>の関係になっている。水平線の水平を確保すれば、灯台が傾くし、灯台の垂直を確保しようとすれば、水平線が傾く。

とはいえ、このジレンマは、おなじみのものだった。もっとやさしい条件、たとえば、灯台だけを撮るときにも、水平線だけを撮るときにも、このジレンマは出現してくるのだ。つまり、ほとんどの場合、自分の立ち位置と、地上の事物が、正対していることはない。<ねじれ>の関係だ。ならば、そういう時にはどうするか、カメラを少し傾けて、画面内での灯台の垂直とか水平線の水平を確保するのだ。

ただし、こうして撮った写真は、画面内のほかの事物に<不自然さ>を強いる。ので、最終的には、画像編集ソフトを使って、画面内にあるすべて事物の、水平、垂直を補正せざるを得なくなる。ようするに、その時自分の見たものが<本物>だとすれば、シャッターを押した瞬間から、ウソがはじまり、さらには、補正作業で、ウソの上塗りをしていることになる。

しかしながら、こうも考えられる。そもそものところ、果たして、自分がその時見たものが<本物>だったのか?そう思っているだけなのではないか?<知覚>そのものを懐疑すると、真偽の境は曖昧になる。実際には存在しえない、写真の中の<風景>を何度も見ていると、それが<本物>に思えてくる。そのうちには、カメラやソフトでウソにウソを重ねた風景が<本物>になってしまう。実視から幻視を錬金する行為とは、ある意味では<イカサマ>だろう。だが、<空中に花挿す行為>だとロマチックに語ることもできるのだ。

大王埼灯台が見える、断崖の柵際で、行ったり来たりしながら写真を撮っていた。そのうちには、どこがベストポジションなのか、よくわからなくなった。だが、<ローラー作戦>よろしく、ほぼ一メートル間隔で撮っているのだから、なんとかなるだろう。それよりも、柵際に群れ咲いている<ムラサキダイコン>に、やや感傷的になっていた。お花たちをこの風景の中に取り込むことができないだろうか。何枚も何枚も、同じような構図で撮った。岬も灯台も断崖も、海も空も太陽も、そして風も光も、全ての物が、紫色の小さなお花たちの脇役にまわった。

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