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人と自分が違うということをちゃんと理解しているか

家の目の前に、私立幼稚園がある。園庭で日課のように行われているお遊戯の時間。部屋にいるわたしは、ふと疑問が湧いた。くる日もくる日も大音量でかかっているBGMが必ずJ-POPなのは、なぜ?バッハとか、ビョークとか、三味線とか和太鼓とか、ロックにメタルにジャズ、アフリカンやアンビエントやテクノ、沢山あるのに?J-POPでもいいけれど、毎回ずっと同じ曲だし、どうしてほかの選択肢に触れさせてあげないのだろう?

お遊戯なのに、この洗脳J-POPのもと「ピッピッピー!」と小気味いい笛の音が絶えず鳴りわたっているし、先生のストレスフルな大声が規律のととのった団体行動をうながして、なぞのかけ声をかけさせられたり、足並み揃えさせられたり。兵隊になる場所なの?幼稚園って。文科省とかのマニュアルでどこもこんな感じでやっているのだろうか。

もう一つおかしなことがある。よく競争ごっこみたいなのをさせていること。「○組さん、一等!」「□組さん、二等!」「△組さん、三等!」とか拡声器で勢いよく聞こえてくるんだけれど、そのたびに子どもたちから歓声があがったり、しーんとしずまり返ったり。こうして勝つことを刷り込まれていくのかなあ。自分に勝つとかは、ひつような時があるかもしれないけれど、人に勝つっていう発想は、いらないと思う。「一等!」って呼ばれた子どもたちが割れんばかりの声で「イエーーーーーーイ!」と叫ぶたび、その「イエーーーーーーイ!」に胸が張り裂けそうになる。

「人より優れている」という錯覚を体験させて、それがなんの役にたつというんだろう。じぶんたちが順番をつけられる存在なんだっていうことを体で覚えてしまったら、それから先の人生が競ってばっかりのものになってしまう。いい思いをするために、いやな思いをしないために。部活とか、受験とか、就活とか、その他いろいろとか。じぶんを置いてけぼりにして、少しでも上にいくことばかりを求めるようになってしまう。教育って、わたしが受けてきたのも似たようなものだけれど、そんなものなのかなあ。今も。

そういえばいとこの住むロンドン近郊では、日本の小学校一年生にあたる子どもの通知表にこういう項目があると言っていた。「人と自分が違うということをちゃんと理解しているか?」日本の教育はいまだに真逆だと思う。「人と自分が同じことを(皆同じなのだということを)ちゃんと理解しているか?」

日本のとある保育園に子どもを入れている友人は、ある時先生にこんなことを言われたらしい。「おたくの○○君だけ、お弁当のお箸箱がスライド式じゃなくてパカッと開けるタイプなんですよね。それだと皆と違って可哀想なんで、スライド式のを買ってあげてください。」なんだそりゃ、と友人もずっこけたそうだけれど、なんで皆と違ったら可哀想って先生も平気で言えちゃうんだろう?本気でそう思っているのか、トラブル回避のためなのか、よくわからないけれど。

おかしな世界だけれど、どうか今の子どもたちが真に受けませんように。世界のいいところを沢山見つけていけますように。神頼みみたいなことしかできないじぶんがなさけないけれど。

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