おばあちゃんの台所
日本財団のインスタグラム上で公開させていただいている動画シリーズ『ばあばの、おだいどこから』で、取材協力してくださる方を募集しています。
このシリーズのことをゆっくりお話する機会がなかったので、今日はこの場をお借りして書いてみます。
”生きた場としての、台所と言葉”
1862 年、女性に基本的な人権がみとめられていなかった時代。『若草物語』などを記したルイーザ・メイ・オルコットは、日記にこうしるしています。
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今のおばあちゃん世代までの多くの女性が、社会へでていくよりも、家庭のなかで過ごしていたと思います。言いかたを変えれば、とじこめられていたということもできるかもしれません。
みずからの声を公にする、それも自分自身の言葉で話すということは、ましてインターネットもSNS もない時代、そうしたい気持ちがあったとしても、ほとんどの人ができなかったことだと思います。
そういった人たちの、オルコットのいうところの生きた"哲学"とは、まさに彼女たちが時間を過ごすことの長かった台所という場ではぐくまれてきたのでは、ないか。
そう実感するようになったのは、わたし自身が何年にも渡って体調を崩していたきっかけから一念発起し、それまで寄りつきもしなかった台所へ立ち、生きるための料理をするようになったことです。そうか、ここはじぶんという人間を生きるということをちゃんとやる場なんだ。ここでのことをうまく回避しようとしては、わたしの思う"よく生きる"は達成しえないだろう。
そういった思いに至ったことを通して、想像したことは、おばあちゃんたちは何十年、日々台所に立ち手をうごかし、水に触れ土に触れ火をあやつり、あたまや五感をすみずみまで使い、それぞれのからだで哲学のようなものを得ていったのではないか。台所というとじられた場を、日々をいきいき生きるためのひらかれた場へと転じてきたのではないか。そう考えるようになりました。
そんなおばあちゃんたちが歳月を経た今、何を感じ、考え、人生をどのようにふり返り、またどのようなことを世界へむけて伝えたいと考えているのかを知りたい。それが、この企画のまず発端でした。
おばあちゃん、というのは、わたし自身が女性だからということが、大きく影響していると思います。女性の生とは、いったいどのようなものか。女性として生きるということは、どういうことであった/あるか。そのような問いは、つねにどこかで持っていました。
うまれる時代がちがっていたら、彼女たちはどのように生きたろう。わたしが仮に彼女たちの時代の人間であったら、どのように生きることができただろう。そういう"もし"に垣間ふれることもあり、それが、今じぶんにできることを改めて見つめようという気持ちへ、繋がってもいきます。
さらには、自分の祖母たちとろくに話すこともなく居なくなってしまったという後悔。遠く離れていた祖母たちのことをほとんど何も知らず、わずかばかりのことを知ったとしてもそれは、本人たちの口から、本人たちの声で聴いたわけではない。聴いてみたかった、話したかったことが、沢山あります。体と体がそばにあって、肉声を聴いて、言葉でないものもいっぱいやりとりしあって、そういう時間を重ねたかった。
けれど、話がすこし逸れますが、ふしぎなのは年に一度会うかどうかの遠い存在だった祖母たちの、それでもふたりの台所はなんとなく思い出すことができること。祖母たちがそこで長い時間を過ごしていたこと、その多くがひとりであったであろうこと。そこでいろんなことを飲み込んだり、咀嚼したり、水に流したりがあったかもしれない。そのような目にはみえない匂いや気のようなものが台所には満ちていて、もしかしたら本人も気づかずに、日々それらが醸されつづけている。今思えば、子どものじぶんがうかうか近づいてはいけない畏れのような空気を、祖母たちの台所に感じていたと思います。やっぱり、台所にはなにかある。そういった感覚へ導かれる初めのできごとかもしれません。
もうひとつ、理由があります。
明治以降、一方的に定められた(利点もあるとは思うのですが)標準語という言葉にはない、その土地の生活に根づいて受けつがれてきた生きた言葉(方言)を聞きたい、記録したいという思いです。
標準語に組み込まれることのなかった、日本のあらゆる土地のこまやかでゆたかな書き表せない音、そこに込められている生活と結びついた中身のどちらもに、昔から惹きつけられます。テレビなどでエンターテイメントとして見せものになったり消費されたりするような型ばかりの方言ではない、じっさいに使うための言葉としての重みをともなった、それはその土地の風土や生活とともにありつづけてきたということだと思うのですが、そういう言葉を話す人の声。
おばあちゃんたちの何も代表してもいない、建前のない、素直な人の声。代々住みついできた土地の、おばあちゃん個人の、あゆんできた時間のつまった声。自然から切り離されて暮らす現代の人間の声にはない響き、重み、かろみ、厚み、おおらかさ、温もり、厳しさが、おばあちゃんたちの声にはある。やはり人のからだとは、自然と地続きなのだと感じます。
ありのままの声をさまざまな人びとに聴いてもらい、ここに力があるということを、伝えたいです。こういう小さな、うそのない声が聞こえなくなる世の中であってはいけない。おばあちゃんたちの声を聴くたびに、そう思っています。
取材が終わると、皆さんがおっしゃることがあります。言いたいことが言えてよかった。あー、ずっと言いたかったの。すっきりした。
それがすべてです。
台所と、言葉。
二つの、人が生きていくのになくなったり、うばわれたりすることが決してあってはいけない“生きた場"のことを改めて皆んなで考えられたらという願いから、『ばあばの、おだいどこから』はうまれました。
▲最近公開された、りゅうこさんのおだいどこvol.1〜3▲
長くなってしまいましたが、ここからは募集の内容です。
取材対象は、日々台所に立って料理をしている全国のおばあちゃんです。
台所へお邪魔し、料理の撮影および、これまでの人生のこと、今人に伝えたいことなどについて、インタビューをさせていただきます。撮影取材は、私ひとりでおこなっています。
#ばあばのおだいどこから
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これまでに取材させていただいた方々の動画は、インスタグラムでこちらのハッシュタグからご覧ください。
ご興味をお持ちいただいた方がいましたら、私のインスタグラムアカウントへのDMか、トップページのメールボタンから【ご年齢/お住まいの地域】を添えてご応募いただけると幸いです。詳細についてご連絡させていただきます。
取材はゆっくりさせていただいておりますので、お返事までに時間がかかることもありますが、ご了承いただけましたら幸いです。
どうぞ、お気軽にご連絡ください。自薦他薦問わず、お待ちしています。
お読みいただきありがとうございました。 日記やエッセイの内容をまとめて書籍化する予定です。 サポートいただいた金額はそのための費用にさせていただきます。