中国・四国地方の石造物⑬:洞雲寺宝篋印塔(伝・陶晴賢首塚)

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名称:洞雲寺宝篋印塔

伝承など:陶晴賢の首塚

所在地:広島県廿日市市佐方 洞雲寺


「安芸の宮島」の名で通称で知られる厳島は、世界遺産の厳島神社のある島として知られるが、毛利元就が陶晴賢を破って中国地方の大大名となる端緒となった厳島の戦いの舞台でもある。

戦後元就は晴賢の首を、対岸の洞雲寺で供養したとされ、同寺の境内には晴賢の首塚と伝承される宝篋印塔がある。

この宝篋印塔は無銘であり、晴賢の首塚と言うのはあくまでも伝承で、積極的な根拠はないようである。

ただ晴賢の首塚とされる宝篋印塔はかなり地方色の濃い形式で(墓地内には他にも同形の宝篋印塔が複数基ある)、山口県周南市の建咲院にある晴賢の父・興房の墓や、海印寺にある陶興昌の墓(「中国・四国地方の石造物⑧」参照)とよく似ており、この石塔を晴賢の首塚とすることには一定の信憑性があるように思われる。

銘文のある建咲院の興房の墓(天文八年)と比較するに、それよりもやや降る時期と考えられ、伝承の通り厳島の戦いからそれほど経っていない時期の作と考えてもさほど違和感はない。

陶晴賢の宝篋印塔の近くには、大内氏に討たれた戦国時代の桜尾城主・友田興藤の墓とされる宝篋印塔がある(三枚目)。

塔身には、「興藤」と天文九年銘があり、興藤の逆修塔(興藤は天文十年没)とされているが、宝篋印塔の形式だけ見れば、戦国時代よりも遡るものではないかと思われ(室町時代前期頃か)、銘文は追刻かも知れない。

なお、同寺には他にも毛利元就の四子である穂井田元清の墓(四枚目)や、毛利元就の重臣・桂元澄の墓(五枚目)もある(桂元澄の宝篋印塔は乱積み)。


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