雑記:毛利輝元の居城と墓

中国地方に覇を唱えた毛利元就の孫で、その後継者となった毛利輝元は、後に豊臣秀吉に臣従し、所謂「五大老」の一人として豊臣政権の中枢にあり、その官位から「安芸中納言」と呼ばれた。

関ヶ原の戦いに際しては、西軍の総大将となったため、合戦に参加こそしなかったものの所領を大幅に削減され、百二十万石から防長二ヶ国三十六万石に減封となった。

豊臣政権時代に輝元が居城としていたのは広島城で、その後近世に安芸を領有した福島家、浅野家に受け継がれた。

元々の天守閣は、近代になっても残っていたが1945年の太平洋戦争末期の原爆投下によって倒壊し、現在の天守閣は後に復元されたものである(現在の天主は老朽化のため、2025年に閉館する予定であり、広島市ではその後で城を木造復元する計画が出ている)。

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江戸時代になって防長二ヶ国を領した毛利家は、その居城の場所から萩藩、あるいは長州藩と呼ばれ、幕末には討幕運動の中心的存在となり、藩内からは明治政府の高官が多く出た。

転封後に輝元が新たに築いた萩城は、現在石垣のみが残る(写真後方に移るのが指月山)。

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輝元の墓所は、萩市内の天樹院にあったが、現在寺は廃絶して墓所のみが残っている。

輝元の墓所は五輪塔で、向かって左側にある少し小ぶりの五輪塔は夫人の墓である。

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