神奈川県の石造物㉑:深沢宝篋印塔(泣塔)

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名称:深沢宝篋印塔(泣塔)

伝承など:洲崎合戦戦死者供養塔?

所在地:神奈川県鎌倉市寺分上陣出 旧JR東日本大船工場


湘南モノレール深沢駅からほど近い、上陣出に「泣塔」と通称される南北朝時代の宝篋印塔がある(宝篋印塔がある場所は陣出なので、「陣出の泣塔」と呼ばれ、またこの一帯は深沢地域に含まれることから「深沢宝篋印塔」とも呼ばれる)。

文和五年の銘文があり、総高二メートルの大型塔で非常に形の整った美しい塔であるが、塔の来歴や「泣塔」の通称が定着した理由などについては不明な点が多い。

新田義貞の鎌倉攻めの際の激戦地であった洲崎合戦(この戦いで最後の執権・赤橋守時は自刃している)の古戦場近くにあることから、二十三回忌に建てられた戦死者の供養塔とする説もある。

「泣塔」の名については、かつてこの石塔を別の場所に移した所、塔が夜な夜なすすり泣いたので元の場所に戻したことからついたと言う伝承があるが、移設の事実も含めて詳細は不明であり、また戦時中にこの地に横須賀海軍工廠深沢分工場が造営された際、石塔は取り壊される予定であったが、怪我人が出たり不可解な事故が起こったりしたため、結局この石塔のある一角だけはそのまま残されたと言う。

何かと曰くのある石塔であるが、石造物としての価値は高く、鎌倉を代表する宝篋印塔と優品と言える。


なお、戦後に泣塔がある一帯は国鉄に払い下げられ、かつてはここにJR東日本の大船工場があり、塔を見るには工場の入口で許可を得る必要があった(私が最初に訪れた際には、まだ大船工場管理時代であった)。

現在は鎌倉市の管理となり、自由に見学は可能であるが、石塔の周囲にはフェンスがあり、フェンスの中に入って塔を見るには鎌倉市に問い合わせて鍵を借りる必要がある(2019年の豪雨の影響で、宝篋印塔背後のやぐらが崩れてしまったため、現在はフェンス内には立ち入れないが、今回の写真はそれ以前に撮影したもの)。


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