南関東の石造物㉘:普済寺五輪塔(岡部六弥太忠澄の墓)、附・岡五輪塔

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名称:普済寺五輪塔

伝承など:岡部六弥太忠澄一族の墓所

所在地:埼玉県深谷市普済寺


岡部氏は、現在は深谷市の一部となっている旧岡部町一帯に勢力を持った豪族で、武蔵七党の一つの猪俣党から出た一族である。

その祖である岡部忠綱の孫の岡部六弥太忠澄は、源義朝の家人となり、後に源頼朝の御家人として源平合戦や奥州合戦などで活躍した(一ノ谷の合戦で平忠度を討ち取ったのは六弥太であり、「南関東の石造物㉑」で紹介した深谷市清心寺の伝・平忠度首塚の五輪塔は、六弥太が建てたものと伝承される)。

深谷市(旧岡部町)の普済寺の交差点東方には、この岡部六弥太一族の墓所と言う五基の五輪塔群がある(地名の由来にもなっている普済寺の境外墓地である)。

五輪塔はいづれも凝灰岩製で、中には破損が激しいもののあるが、鎌倉時代後期の作である。

中央に建つ墓所中一番大型の五輪塔(三枚目)が六弥太の墓とされ、六弥太塔の向かって左側の、墓所中最も状態の良い五輪塔(四枚目)が六弥太夫人の玉ノ井(同じ武蔵野豪族・畠山重忠の妹)の墓、右側の破損が激しい五輪塔(五枚目)が六弥太の父・行忠の墓と言う(六枚目の五輪塔は一族の墓であろうか)。

五輪塔はいづれも六弥太の没年よりもずっと後代の作のため、墓と言うよりは供養塔であろうが、鎌倉時代後期の五輪塔群として貴重である。

なお、五輪塔は現在覆屋に納められており、入口は施錠されているため、柱の隙間から撮影せねばならず、やや全景が撮影しにくくなっている。


普済寺に近い同じ旧岡部町の岡(JR岡部駅の北東)の住宅街の一角にも、鎌倉時代の五輪塔が存在する(下の写真)。

こちらは角閃石安山岩製で、時期は普済寺五輪塔群よりもやや下る鎌倉時代末期の作と推定される。

地輪は凝灰岩製で別石と思われるが、水輪に仏像を刻むのは非常に珍しく、埼玉県内の鎌倉期の五輪塔では唯一の事例である(関東地方全体で見ても、数はさほど多くない)。

また、火輪の中央がくぼんでいるなど、独特の形式を持った石塔である。

造立者は不明であるが、この地には岡部氏の一族である岡村太郎(その名は『吾妻鏡』にも登場する)の居館があったと伝承されているため、岡村氏が造立に関わっているのかも知れない。

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なお、岡部氏が出た猪俣党は、前述のように武蔵七党の一つであるが、武蔵七党とは、平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国を中心とした地域に勢力を伸ばした同族的武士団の総称である。

七党とはそれぞれ横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党(西野党)、児玉党、丹党(丹治党)であるが、異説もあり、綴党、私市党を加える説もあって、武蔵七党に数えられる武士団は全部九つある(武蔵七党は後世生まれた呼称であるため)。

このうち、横山党と猪俣党の本姓は小野氏(小野篁の末裔を自称)で、横山党からは海老名氏、愛甲氏、大串氏、本間氏などが出、猪俣党からは岡部氏、横瀬氏(後の由良氏)などが出た。

また丹党は丹治(多治比)が本姓で、後に近世大名として存続した下野黒羽藩大関氏(中世は那須氏の属下の豪族)はその支族である。

平安時代末期の猪俣党の頭領であった猪俣小平六範綱は、源義朝の家人となり、源平合戦では同族の岡部六弥太忠澄とともに活躍している。

埼玉県児玉郡美里町の高台院には、猪俣小平六の墓所がある。

墓所は高台院本堂裏にあり、小平六の墓とされる二基の石塔(下の写真二枚目)は、ほぼ原形をとどめていないが、元々は鎌倉時代後期の造立された五輪塔であったと推定される。

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