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ドイツ旅)フランクフルト)神聖ローマ帝国とともに歩んだ街

ドイツ南部のフランクフルトを訪れました。神聖ローマ帝国の起源、フランク王国の宮廷があり、皇帝の選挙と戴冠式の地であり、ドイツ国民のナショナリズムが結実した国民議会の地であります。帝国とともに歩んだ街の現場を巡りました。

神聖ローマ帝国の「聖地」

フランクフルトは神聖ローマ帝国の聖地といってもよい場所です。

そもそもフランクフルトが歴史に現れるのは749年のフランク王国カール大帝の文書です。かつてローマ人がマイン川沿いに防衛拠点を築き、やがて大帝の宮廷が置かれます。

カール大帝は帝国内を巡行しましたが、その中でも長く滞在した都市のひとつでした。このフランク王国はローマ教皇により戴冠して、ローマ帝国の流れをくむ存在として位置づけられます。

そしてその後も、ドイツ王がカトリック教会を守護し、イタリアで教皇による戴冠を経て皇帝になるという図式の「神聖ローマ帝国」が誕生しました。

その後、1356年にカール4世が交付した「金印勅書」では、神聖ローマ皇帝の位が七選帝侯の選挙によってえらばれること、選挙と戴冠の地がフランクフルトの聖バルトロメオ聖堂と定められました。

冒頭の写真がその聖バルトロメオ大聖堂です。中に入ったのが下の写真。聖堂にしては珍しい赤い色が使われているのが特徴的です。

聖バルトロメオ聖堂の内部

分裂する神聖ローマ帝国

ただ実際に金印勅書が意味したところは、七選帝侯の領主権が大幅に認められたということです。この特権はほかの諸侯にも広がりました。神聖ローマ帝国の内部は、独立した諸侯や都市が混在しており、フランスなどの諸外国と比べて極端に分権的な存在でした。

1648年の三十年戦争後のウエストファリア条約では、諸侯の領域内の宗教(カトリックやプロテスタントなど)の決定の自由を認めるなど、完全な領邦の主権を認めています。「神聖ローマ帝国の死亡証明書」ともいわれるように、ここで帝国は事実上解体しました。

最終的に帝国が消滅したのは、フランスのナポレオン侵攻による保護下で1806年の「ライン同盟」の成立です。ナポレオンの圧迫の元、皇帝フランツ2世は帝国国制の消滅を宣言しました。

ナポレオン敗北後のウィーン体制で成立したドイツ連邦も、諸侯同士の同盟という性格で、帝国の復活はならず、分権的な状況が続きました。連邦議会はフランクフルトに置かれましたが、全会一致制をとってどんな小国でも拒否権が存在し、実際は機能しませんでした。

ドイツナショナリズムのシンボル的な存在に

そんなドイツですが、ナポレオンの侵攻とともにナショナリズムが芽生え、国民国家としての統一の機運も高まってきます。その中心となったのが、またしてもフランクフルトです。

次回はこうした経緯について書きたいと思います。


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