見出し画像

4.4.2 イスラームの社会と文明 世界史の教科書を最初から最後まで

イスラームは都市の宗教

イスラーム教は”砂漠の文明”というイメージがあるかもしれないけど、その教えは実は「都市」にフィットしたもの。

ムハンマド自身もメッカの大商人だったわけだからね。

都市には、周辺からも多様な経歴を持つ人が出入りする。
例えば、都市と都市を結ぶ遊牧民(ノマド)は商人としても活動し、都市に新しい文物をもたらす役目を果たしていたんだ。


都市内部では、軍人、商人、職人、知識人(ウラマー)などさまざまな経歴を持つ人が活動している。

都市の住民は、地区のモスクを中心にコミュニティに属し、冠婚葬祭などで絆を深め、困ったときには助け合って生活していた。

そして収入に応じて救貧税(ザカート)という税を役場に納付。
集めたお金は、モスクや井戸、市場の運営や、都市や農村を整備するために使われた。
また、お金持ちや支配者はこぞって公共目的のための”財団”を設立し、ファンドを運用。その収益は都市のインフラ整備のために寄付された。
放っておくと豊かな人に偏って分配されがちなお金の流れを変えるためのシステム。


この制度のことをワクフという。
いかにも都市で生まれた宗教らしいよね。

資料 イスラームにおけるワクフ
「…ワクフの特徴を、市場経済との関係からいまいちど整理してみるならば、ワクフとは、交換を前提としたうえで、互酬を目的とし、そのパフォーマンスとして再配分の機能を果たした制度ということになる。それは一言で述べれば、不動産――またある場合には動産――の信託行為である。そこでは、市場経済が繁栄すればするほど社会の福祉が向上するという、市場経済と社会の福祉公正との間の相互依存的な結びつきがみられる。」(加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版、2005年、190頁。

史料 イナーヤト・ハーン『シャージャハーン・ナーマ』(1658年前半)
[…]燦然たる墓廟[注:シャー・ジャハーンが王妃のために建てたタージ・マハルは、当時「燦然たる墓廟」(ラウザイ・ムナッワラ)とよばれていた。それが完成に要した]12年のあいだに、その費用として500万ルピーを費やしたことは紛れもないことである。また墓庭園の周辺には数々の広場や宿泊所、商店が設けられ、宿泊所の背後に多くの食品製造工房も設立された。多くの人々が住みついたこの町は、立派な都市の風格を持つにイたり、ムムターザーバードと呼ばれている。[この町は]首都アクバラーバード[アーグラー]のもとにある郡に所属する30ヵ村およびその他の若干の村々から上がる課税額400万ダーム、すなわち年額にして10万ルピー相当の収入があり、また商店街の各商店並びに宿泊所に課される関税によって、このが額は倍化される
かくしてこの燦然たる墓廟に設けられたワクフ制度によって、もし修繕が必要な場合にはこの寄進財産の収益でもってその支出に充当し、残余は[墓廟関係の]年俸受給者および月俸受給者に支給されるとともに、墓廟に仕える人々やその他困窮者たちのための必要な支出に充てられる。剰余が生ずれば、この墓廟の豊かな在庫に繰り入れられる。
(近藤治訳、歴史学研究会編『世界史史料2』岩波書店、98-99頁)

*著者のイナーヤト・ハーンの母は、ムムターズ・マハルの姪にあたる。宮廷図書館の管理者。この史料は  シャー・ジャハーン時代の正史をコンパクトにしたもの。


スークは値切ってなんぼ

人が集まるモスクの近くには、市場(いちば)がある(「市場」はアラビア語ではスーク、ペルシア語ではバザールと呼ばれる)。


お店には値札はなく、値段は交渉で決まるのが基本。

"よそ者" は足元を見られて高い値段を、常連さんは安い値段を...というように相手によって複数の値段が存在するのは当たり前。
言い値の否定からはじまるコミュニケーションを楽しむのだ。



さて、そんな市場は、ふつうモスクの参道に広がっている。
日本のお寺や神社の周辺と似ているね。

別にどこのモスクの中で祈ろうが問題ない。
お祈り後はほっと一息ご飯を食べたりしながら、おしゃべりを楽しむ。
モスクは旅人にとっても情報交換や貴重な憩いの場となったのだ。


紙メディアの発達

飛び交う情報量が増えるにつれ、メディアのあり方も変化する。

そのきっかけは8世紀前半に中国から紙をつくる技術が伝わったこと。
従来のパピルス

羊皮紙

に代わり、文字情報を記録するメディアがはるかに安価になったのだ。


製紙法を伝授したのは、751年のタラス河畔の戦いで降伏した中国の唐の軍隊の捕虜だったといわれる。
その後サマルカンド、バグダード、カイロなどに製紙工場が建設されていき、さらにイベリア半島とシチリア島を経て13世紀頃(今から800年ほど前)にヨーロッパに伝わった。



体もメディアとなる

なお情報伝達の手段は、紙メディアだけとは限らない。
頭デッカチな文字情報に対し、身体を動かして神様への信仰を実感するための奥義が追究されるようにもなる。

本当に大事な教えは「文字の意味を理解する」ことでは得られない。
「身体そのもの」を動かし、「神との一体化」を感じることで得られる。
“考えるな、感じろ” というわけだ。


10世紀(今から1100年ほど前)以後になると、夜になると修道場にあつまって、『コーラン』の文句や踊りをくりかえすイベントが開催され、カリスマ的な指導者も現れた。
こういった神秘主義は、”わかりやすさ”ゆえに都市の職人や農民の間に爆発的に広まり、12世紀(今から900年ほど前)になると「聖者」を中心に大きな教団がつくられるようになる。

あれ? 神様以外の崇拝はダメだっていう話だったんじゃないの? って思うかもしれないけど、「聖者」に対する思いは「崇」じゃなくて”リスペクト”つまり「崇」なんだと説明された。

彼らはしばしば粗末な衣服をまとって修行したので、「スーフィー」(粗末な羊毛をまとったもの)という名で呼ばれた。そこで彼らの信仰のことをスーフィズムともいうわけだ。

修行にはいろんなタイプがあったんだけれど、くるくるくるくるとにかくくるくる回転しまくるスタイルのメヴレヴィー教団が、現代ではもっともメディア受けするというか、有名な例だね。観光化もされている。


教団のメンバーはムスリム商人のルートにのって、アフリカ、中国、インド、東南アジアに進出。各地の信仰もとりこみながら「感覚的」で「わかりやすい」スタイルで、イスラーム教を広める役割を果たしたんだ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊