7.4.2 インド地方勢力の台頭 世界史の教科書を最初から最後まで
南インドで豊富にとれる綿花と、綿糸を編み色鮮やかに染色する高い技術力は、北インドのイスラーム教徒政権(ムガル帝国)にとっての“憧れの的”。
南インドでヒンドゥー教を保護していたヴィジャヤナガル王国は1649年に滅亡。
第6代のアウラングゼーブ(在位1658〜1707年)の積極的な遠征により、南インドにいたる広大な領域も、ムガル帝国の支配下に入った。
北と南とでは言葉も文化もまったく異なるインド。
「カレー」も北インドと南インドじゃ全然ちがう。
広大なインドを支配しようとしたアウラングゼーブの支配は厳しく、税の取立てを強化する。
しかし、農村や都市で活発化していた商品生産を強くコントロールしたわけではなかったので、地方勢力の中には経済的に力をつけるものも現れるようになっていった。
そんな中、建国以来の「大転換」に激震が走る。
アウラングゼーブが、ヒンドゥー教徒に対し、第3代アクバル以来免除されていた人頭税(ジズヤ)を復活したのだ。
各地で農民反乱が勃発。
地方勢力の独立の動きも活発化し、西インドではヒンドゥー教徒勢力がマラーター王国(17世紀中頃〜1818年)として独立。
マラーター王国の王 シヴァージーはムガル帝国に立ち向かった英雄だ
さらに西北インド(パンジャーブ地方)でも、シク教徒が反乱を起こして、イスラーム政権に反発した。
18世紀初めにアウラングゼーブが亡くなると、インドの統一は崩壊。
デカン高原だけでなく、現在バングラデシュのあるベンガル地方にも独立政権が誕生し、デリーのイスラーム政権が直接コントロールできる地方は激減していくことになる。
この動きと並行して、16〜17世紀以降、インド沿岸に貿易拠点を勝手に建設していったのが、ポルトガル、フランス、イングランド(イギリス)といったヨーロッパ諸国だったんだ。
イギリスは、1640年にマドラス(現在のチェンナイ)、
1661年にボンベイ(現在のムンバイ)、
1690年にはカルカッタ(現在のコルカタ)に要塞を建設し商館を設置
それに対抗するように、フランス王国は1673年にシャンデルナゴル、
1674年にポンディシェリに要塞を建設し、商館を設置している。
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