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11.4.2 文学・芸術における市民文化の潮流 世界史の教科書を最初から最後まで

ロマン主義とオリエンタリズム


19世紀のヨーロッパでは、「革命によって人類社会を劇的にアップデートさせる」思想(革命思想)や、「「理性」をフル活用してこの世の中の真理をつかみ、合理的な社会をつくっていこうとする」思想(啓蒙思想)に対する “疑問” や “反感” が高まる。

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フランス革命中に開催された「理性の祭典」(キリスト教色を排した人工宗教)


それはフランス革命の勃発や、ナポレオンによるヨーロッパの広いエリアの統一のもたらした混乱に対する“疑問”や“反感”でもあった。


だって、「自由」や「平等」を叫んだ先にあったものは、最終的にはギロチンで反対意見を叫ぶ者を殺したり、他国を侵略したりという血生臭い状況。


「頭で考えたことがすべてただしいというわけじゃない。社会の秩序を保つためには不合理なこともときには必要だ」
「進歩ばかりでは社会は乱れる。社会の“ブレーキ装置”(保守)として「伝統」だって大切だ」

このようなさまざまな考え方が生まれるきっかけとなったんだ。



とくに、「革命思想にしろ啓蒙思想にしろ、フランス人が考えたものを人類全員に押し付けようとするのはおかしいよ」という考え方から、ナポレオン軍に占領されたドイツ地域を中心に、「ドイツ人の心に染み渡る歴史・物語のロマン」や「ドイツの伝統を生き生きと表したい!」という運動が巻き起こることに。


それぞれの民族や地域に固有の文化・歴史、それに個人の感情や想像力を重視するこのトレンドを、「ロマン主義」としてくくることがあるよ。


すでにドイツ地域では、19世紀初頭までにゲーテ(1749〜1832年)が主導していたドイツ語による“人格の完成”を描く格調高い文学スタイル(古典主義)がさかん。
ゲーテらの仕事をベースにする形で、「ロマン主義」は、ヨーロッパ中に波及し、“言葉の芸術”である文学だけでなく、“音の芸術”(音楽)や“視覚の芸術”(美術)にも発展。


「あ〜、これはドイツらしい文学だなあ」
「ドイツの伝説をベースにした音楽をつくろう!」といったような「国民文学

国民音楽」を生み出す原動力となった。


その背景には、「国民」をメンバーとする「国家」、市民を中心とする経済力の発展があったんだよ。

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急速な発展により「変わりゆく風景」の中で、「過去へのあこがれ」を持つ人も増えたんだ。

社会が激変しようとするとき、人間は決まって「昔」にあったことを持ち出す。人間は、前に進もうとすると、不安になって後ろの景色が気になってしまうのなのかもしれない。これまでは別に「伝統」とされていなかったような服装・習慣・風習が、あらたに 《伝統》 とされるようになっていく(伝統の創造)のもこの時期の特徴だ。

なお、「変わりゆく風景」の中で、「過去へのあこがれ」をオリエントや新大陸に求める動きも生まれた。
ヨーロッパで失われてしまったものが、いまだにヨーロッパの外の世界には息づいているはずだというイメージによるものだ。

西洋人が非西洋世界をことさらエチゾチックで艶かしく描く文化的な潮流は、ロマン主義の画家に特徴的であり、特にオリエンタリズムと呼ばれる。
ギリシア独立戦争に参加しギリシアで没したイギリスの詩人バイロン(1788〜1824)や、ギリシア独立戦争の惨禍を描いたドラクロワ(1798〜1863)がその例だ。


オリエンタリズムとは
「[…]サイードによれば、近代西洋における東方(東洋)への興味の背景には、自己の力を確たるものにし、自らのアイデンティティを確立するという西洋の欲望があった。[…]オリエントを、自分たちとは異なる他者として位置づけるということ。すると、その他者としてのオリエントと対比することで、自分たちのありよう、すなわち西洋のアイデンティティを見出し、確信することができる—こういうロジックですね。
[…]他者としてのオリエントの表象は、しばしば、野蛮、下品、暴力、蒙昧といった負のイメージのステレオタイプでした。となれば、それと対照される自分たち西洋のアイデンティティは、文明や理性といった正のイメージを伴うものとなる。ここに、〈自分たち西洋=文明/他者たる東洋=未開〉という西洋中心主義につながる観念が構築されていくわけです。

小池陽慈『現代評論キーワード講義』三省堂、2023年、90-91頁。


「キオス島の虐殺」(ドラクロワ)
「サルダナパールの死」(ドラクロワ)
サルダナパールはアッシリアの王。バイロン卿が1821年に発表した戯曲「サルダナパラス」に着想を得ている。 


「アタラの埋葬」(ジロデ・ド・ルシィ=トリオゾン画)

「[…]彼[シャトーブリアン]の書いた小説『キリスト教精髄』の挿話「アタラ」は、アメリカを舞台とする、ヨーロッパ人とネイティブ・アメリカンの混血の美少女の悲哀物語であった。[…]古く頽廃した旧大陸に対して、むしろ素朴かつ自然と密接な新大陸にこそ、純粋で高貴な感情や習俗が残されているという夢想は、ルソーの「高貴な野蛮人」以来のものである。

宇野重規『トクヴィル』講談社、2019年、46頁。



写実主義と自然主義


しかし19世紀後半にもなると「ロマン主義」の傾向は一変。
市民を“主人公”とする社会が安定すると、プラス面だけではなくマイナス面も見えてくるようになる。
また、近代科学やそれを応用したテクノロジーの進歩により、人間の物の考え方も一変。


ちょうど今では当たり前になったインターネットが、人々の生活だけでなく価値観も激変させたのと似ているね。

「過去へのロマン」「国民文化への誇り」「個人の感情の表現」を重んじるロマン主義は、たしかに世の中がイケイケドンドンのときには、人々の価値観にぴったり合っていた。


しかし、ほんとうに社会は良くなったのだろうか?


労働問題
環境問題
社会問題

さまざまな問題が山積みじゃないか。

実際にはありもしないロマンを追い求めるのではなく、こうしたリアルな現実をありのままに書くことが、社会を変えるには必要なんじゃないか。
そういった文化のトレンドが生まれる。
これを「写実主義」(リアリズム)というよ。


文学における写実主義

文学においては、社会批判と心理描写にすぐれ『赤と黒』(1830年刊、貧しい青年ジュリアン・ソレルの一生。出世の選択肢が軍人か僧侶になるかの二択であった王政復古期を批判的に描いた)、『パルムの僧院』(1839年刊、イタリアのパルム公国を舞台に青年貴族ファブリスの半生を描く)を発表したフランスのスタンダール(1783〜1842)。

『ボヴァリー夫人』(1857年刊。田舎医者の妻エンマ・ボヴァリーの不倫から自殺までを描く問題作)、『感情教育』(1869年刊。二月革命期の青年フレデリックの苦悩を描く)などで、精密な考証に基づいて客観的に人物を描写したフローベール(1821〜1880)。

さらに、『ゴリオ爺さん』『谷間の百合』など、フランス革命から二月革命直前までのフランス社会のあらゆる階層の人物を、鋭い人間観察によって描き切った約90編の小説に、ダンテの『神曲』(神聖喜劇)の向こうを張って「人間喜劇」の総題をつけたバルザック(1799〜1850)が有名だ。

資料 バルザック『ゴリオ爺さん』
 「果たしてこの物語がパリ以外の人間に理解されるものかどうか、検討してみるのもいいだろう。なるほど、この物語の背景を説明するこまごました観察や地域色を多分に含んだ描写は、もしかすると、モンマルトルの丘とモンルージュの丘のあいだ、いまにも剝がれ落ちてきそうな漆喰壁と黒い泥の川とがつくりだすパリというその名高い谷間でしか、評価されないかもしれない。そこは正真正銘の苦しみと、大抵はまがい物である悦びが氾濫する谷だ。つねにめまぐるしく変化しているから、そこで多少とも長持ちする刺激を生みだそうとすれば、常軌を逸したなにかが必要となるはずだ。ところが、そこにはいたるところに苦しみが転がっており、谷に寄り集まった悪徳だの美徳だのが、そうした苦しみを偉大で厳かなものに育てている。なるほど、そうした苦しみを目の当たりにすれば、利己的な人間や打算的な人間であっても、さすがに足を止め、同情する。しかしそんな感動は、味はよいがすぐさま食われて消えてしまう果実のように儚い。文明という荷車は、ジャガンナートの神輿車さながらに、ときどき比較的頑丈な心臓に車輪を取られて速度が落ちることはあっても、やがてはすべてを踏みしだき、華々しい前進を続けるのである。  
あなただって同じだ。そうやって汚れひとつない手でこの本を摑み、ふかふかした椅子に腰かけ、これは面白そうだなどと呟いているではないか。あなたはゴリオ爺さんの秘かな不幸を読み終えると、ああ腹が減ったと夕食を取りながら、感動できないのを作者のせいにして、この本は大袈裟だの詩情がないだの文句を言うのだろう。ああ、それでもどうか、これだけはご承知おきいただきたい。このドラマはただの作り話でもなければ、小説でもないのである。「すべてが真実」なのであって、真を突きすぎて、誰もが、どこかしらに自分に通じるものを見つけることになるだろう。」

出典:中村桂子訳『ゴリオ爺さん』光文社、2016年、https://www.amazon.co.jp/ゴリオ爺さん-古典新訳文庫-バルザック/dp/433475337X



絵画における写実主義

絵画の分野では《石割人夫》で知られるクールベ(1819〜1877)や

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多くの政治風刺版画や《三等客車》で知られるドーミエ(1808〜1879年)が代表だ。どれもどこか暗〜いけれども、社会の真実をリアルに描こうという気迫がただよう。

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絵画における自然主義


また、その延長線上に、複雑化する人間社会の問題を解決するためには、科学的なアプローチが必要だ。
そのために作家やアーティストは、現実社会における偏見や矛盾を客観的に描き、みんなに問題を問う役割をになうべきなんじゃないかというトレンドも生まれた。
これを「自然主義」という。

その代表例が、農民出身でパリに学び、やがてパリ郊外のバルビゾン村に住んで、キャンバスをアトリエの外に運び出し、働く農民の姿に「人間としての“尊い”姿」を見出したミレー(1814〜1875)という画家だ。




絵画における「印象派」



「屋外で絵を描く」という運動はその後もつづき、やがて「屋外の光の “変化” 」を描けないかという運動につながっていく。
これを「印象派」と呼ばれ、やはりフランスで生まれた。
モネ(1840〜1926年)の《印象・日の出》がその名の由来だ。


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たとえばルノワールは《ブランコ》という絵(1876年)において、揺れ動く木々からこぼれおちる光の粒が、まるで今にも動き出しそうなテクニックを駆使している。

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印象派のグループは、従来は屋内のアトリエで大判の絵を描いていたアーティストたちの常識をひっくり返した。日本の浮世絵(うきよえ)が与えた影響も見逃せないよ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊