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14.4.4 ナチス=ドイツとヴェルサイユ体制の破壊② 世界史の教科書を最初から最後まで



「大統領緊急勅令」から「全権委任法」へ


1933年1月に政権をとったヒトラーがまず掲げたのは「共産党をぶっこわすこと」だった。

2月に国会議事堂への放火事件が起きると、これを共産党の犯行と断定。

「共産主義者がドイツを暴力的にぶっこわすのを防ぐ」ために、2月28日にヴァイマル憲法にのっとる形で大統領緊急令が出された。


「ドイツ民族とドイツを守るため」ということで、憲法に規定された人権は停止。
「国の敵」とされた人物は、たとえ何らかの行為におよんでいなくても、秘密国家警察ゲシュタポによって逮捕・収容されることになったのだ。

その後10月までの間に、共産党員をはじめとする10万人が拘束された。


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この過程を冷静に振り返ってみれば、「ヒトラーは民主的な選挙によって選ばれた」とするのも、「ヒトラーは憲法を破壊した」とするのも、どこか事柄の半分を見落としているように感じるだろう。




“科学”っぽい人種主義思想と議会外で大衆を動かす活動で支持を集め、議席を増やし、政権をとるまでを第一のステップとするならば、ヴァイマル憲法そのものにプログラムされていた “バグ” を、「国家の非常時」という雰囲気のなかで巧みに利用していった段階が、ファシズムにいたる第二のステップだ。




そして、第三のステップ。

ここまでくると、国家に強大な権限を与えようという流れは、もはや抗(あらが)いがたいものとなる。


3月に国会が開かれると、ヒトラーは全権委任法(ぜんけんいにんほう)を提出。

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なんと向こう4年間もの間、政府が憲法を気にすることなく法律をつくれるというもの。
「非常事態」を理由に、ナチ党に反対する勢力を弾圧することも可能だった。


ナチ党単独では可決できなかったのだが、他の保守政党の賛成に加え、「反対してももはや無駄」と判断したカトリック政党(中央党)が協力したことで成立した。

この状況下で反対演説をおこなったのは、社会民主党のオットー・ヴェルスただ一人。

投票総数535票、反対94票(社会民主党のみ)、賛成441票(うちナチ党は288票、ドイツ国家人民党は52票)で可決された(総議員の2/3以上の出席の上、出席議員の2/3以上での可決が条件だった)。
この中に、ドイツ共産党は含まれていなかった(すでに予防拘禁されるか逃亡していた)。


全権委任法の成立によって、ヒトラー政権による国家権力の掌握は加速する。


ナチ党以外の政党は解散。労働組合も解散された。
教育や文化を含む、社会のあらゆる領域が政権によるコントロールを受けることになった。
政権の“手足”を担ったのは、先ほどの秘密国家警察(ゲシュタポ)のほか、SS(エスエス、親衛隊)、

SA(突撃隊。1934年の粛清以後、SSがほぼ吸収する)。

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正規の軍である「国防軍」のほかに、さまざまな武装組織があったのだ。
彼らによって共産主義者、民主主義者やユダヤ人など、政権の考えに異論を唱える者は、拘束され、強制収容所に送られた。


1933年8〜9月には、ニュルンベルクで30〜40万人規模の党大会(第5回)が開かれた。映像作品も作られているので、目にした人も多いだろう。



1934年8月にヒンデンブルク大統領が亡くなると、ヒトラーは大統領の権限を首相権限にあわせ、独裁体制を確立。

9月にはニュルンベルクでド派手な党大会を開催している。

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ヒトラーお抱え建築家 考案
垂直のサーチライトを柱に見立てた「光の大聖堂」



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国民に車とレジャーを


一方でヒトラーは、四カ年計画という計画経済によって、ドイツ経済を立て直すことも忘れなかった。大規模な土木工事をおこなって失業者を減らそうとしたのは、同時代のアメリカ合衆国のニューディール政策そっくりだ。
ドイツの自動車専用道路(アウトバーン)はこのときにつくられたもの。



イタリアのファシズムをみならって、大規模なレジャー施設やレクリエーション組織、福祉事業も整備。
ラジオの普及などによる大衆娯楽にも積極的で、国民の支持を得た。



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ヴェルサイユ条約の破壊へ


国内支配をかためたナチスは、1933年秋に国際連盟から脱退



1935年にはヴェルサイユ条約に規定されていた住民投票によって、フランス国境地帯にあった炭鉱地帯のザール地方を編入


さらに同年にはヴェルサイユ条約を破って徴兵制を復活させ、再軍備を宣言した。

これにたいしイギリス、フランス、イタリアは一致して抗議したものの(ストレーザ戦線)、まもなくイギリスのネヴィル=チェンバレン首相はドイツと海軍協定(英独海軍協定)を結び「海軍を保有してもいいけど、イギリスの海軍力の35%にとどめなさい」と、事実上再軍備を追認。

そして、1936年3月には、ヴェルサイユ条約やロカルノ条約で禁止されていたラインラント(ライン川流域)に軍を進めた(ラインラント進駐)。


フランスで1935年に、ファシズムに反対する「人民戦線内閣」が成立し、ソ連との間にドイツを仮想敵国とする仏ソ相互援助条約(ふっそそうごえんじょじょうやく)が結ばれたことが理由だった。本格的にヴェルサイユ条約の破壊を進めていく意思を国際社会に示したよ。


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そんな不穏な空気の中、ベルリン夏季オリンピックは予定どおり開催。
ヨーロッパ文明の伝統を受け継ぐ「誇り高きアーリア人種の肉体美」だけでなく、「ドイツの国力」と「ナチ党のすごさ」を示す絶好の機会となったのだ。



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初の聖火リレー



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