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新科目「歴史総合」をよむ 3-2-8.「平成」という転換点

メイン・クエスチョン
平成時代の日本は「世の中が変動した」といわれるが、それは、いつ、どのように進行したといえるだろうか?

■1990年代前半の日本

サブ・クエスチョン
1990年代前半の日本では、どのような出来事が起きたのだろうか?

冷戦体制の崩壊と重なった昭和から平成への改元

 昭和天皇の崩御にともない、1989年1月8日に平成が新元号となった。この年、東ヨーロッパでは社会主義政権が次々に崩壊し、12月3日にはマルタ島で冷戦の終結が宣言された。
 一方、日本は年末の日経平均株価終値が38,915円87銭を記録し、地価・株価が実態とかけはなれて急激に上昇するバブル経済となっていた。

 この背景には、1985年に、先進5か国(米・英・仏・西独・日)により合意されたドル高の協調介入による是正があった(プラザ合意)。この結果、円高ドル安誘導政策がとられ、円高が進んだことから不況となったため、日本政府は大幅な低金利政策をとった。この結果、好景気となったが、土地や株への投資が異常にすすむ結果となった。


産業の空洞化と外国人人口の増加

 円高を背景として、日本企業は多国籍企業化をすすめていった。貿易摩擦問題を解消するため、日本企業は海外に資本を直接投下し、現地生産をおこなうようになる(産業の空洞化)。

資料 東アジアの「三角貿易」
90年代以降、ASEANや中国の発展のなかで、東アジアは「世界の工場」としての役割を拡大させていった。たとえば2005年、自動車の生産台数では、すでに東アジアが世界の37.1%を占め、EUの27.3%やNAFTA(北米自由貿易協定)の24.6%を大きく上回っている。同年、化学繊維は全世界の生産量の67.3%、DVDレコーダー・プレーヤーは92.2%、パソコンに至っては96.8%を東アジアでの生産が占めている。しかもそのうち、DVDプレーヤーの場合は78.1%、パソコンの場合は87.3%を中国が占めるという(『通商白書』2007年度版)。
 この東アジア経済圏の域内交易の特徴は、電気機械など中間財の比率が高いことで、日本やNIEsで開発・生産された付加価値の高い部品を、人件費の安い中国やASEANで組み立て、日米欧に輸出していくという「三角貿易」が拡大していった。こうして今日、東アジアでは、地域内でのヒト、モノ、カネのやりとりが緊密化し、経済関係は一体化しつつある。

(出典:吉見俊哉『ポスト戦後社会』(シリーズ日本近現代史⑨)岩波新書、2009年、203頁)。現在はどうなっているだろうか?


 逆に国内では、外国人労働者の雇用が肉体労働を中心として増加した。1980年代後半の日本では製造業などで単純労働力の不足が深刻化し、「ニューカマー」と称される新来外国人の流入がすすんだのだ。特に、南米諸国からの日系人の出稼ぎが増加した。

 こうした動向を受け、1990年には出入国管理及び難民認定法(入管法)が改正された。依然として単純労働者の入国・定住は認められなかったが、日系2世・3世とその家族の就労が合法化された。


資料 在留外国人(登録外国人)数の推移

(参考:社会実情データ図録1180、http://honkawa2.sakura.ne.jp/1180.html)




バブルの崩壊と55年体制の崩壊

 しかしその後、1990年代半ばにかけて地価・株価が急落し、バブル経済は崩壊。銀行から融資された資金が返済されずに焦げ付いた不良債権が社会問題となった。

 日本はこの先「失われた20年」と呼ばれる低成長の時代(平成不況)となる。経済不振が深刻化する一方で、佐川急便事件やリクルート事件などの汚職事件は政治不信を高め、自民党政権への批判が高まった。後者にからむリクルート社は、社会の情報化やサービス化の進展、中曽根政権の民活路線に沿って急成長を遂げた新興企業であった。
 1993年には非自民8党派による連立内閣の成立により、自民党は史上初めて野党となり、冷戦体制下にはじまった55年体制は崩壊した。

(参考)社会のながれをつかむ! 選挙と政権交代からみる日本政治の変遷(上原功氏執筆、帝国書院)



■ 転換点としての1995年

サブ・サブ・クエスチョン
「1995年」は、どのような意味で、時代の転換点とみなすことができるだろうか?

 平成の幕開けとともに、冷戦体制にとらわれない新しい政治・経済体制が模索されたが、「1995年」という年は、冷戦体制の崩壊後、日本社会が新たな局面に向かう重要な契機とされることが少なくない。


阪神・淡路大震災


 その後、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が西日本を襲った。村山内閣は初動対応に失敗し、危機管理体制が問われることとなった。日本が都市直下型の巨大地震にいかにもろい環境にあるか、意識されるきっかけとなる災害であった。


資料 高崎裕士「ポートピア見て来て考えた」
ポートピア会場内の神戸館には、この島をつくった巨大技術を誇らしげに展示してある が、そこには、自然に対する謙虚さはみじんもない。自然は、人間に都合よく改造し支配する のだという思想、技術への過信がのさばっている。これはさる財界人の主張した「新国土創成 論」や元首相の「列島改造論」の神戸版であって、万国博当時の高度経済成長やバラ色の未来 学全盛期の夢を、もう一度見ようというもの、いや、当時は夢であった技術も、ここ神戸では 現実のものになっていることの誇示にほかならない。実際、須磨にあった山をひとつそっくり 海に投げ入れたのだ。自然の山や河や海は、自然の摂理によって本来の姿を保っているものを、 山の跡と海上の両方に広大な平地ができるからといって、 こんな乱暴なことをして、いったい自然のしっぺ返しがないものだろうか。一方の埋め立て地 の方は地盤沈下が激しいというが、地震の時、どうか

(出典:高崎裕士「ポートぴあ見て来て考えた」『朝日新聞』1981年7月29日。太字は筆者による。http://eternal-life.la.coocan.jp/portpia.htm)。ポート・ピアの開発の歴史については、以下を参照のこと。

資料 ポートアイランドの歴史
1981年の開島の際、街開きイベントとしてポートピア'81(神戸ポートアイランド博覧会)が開催されました。夢と未来をテーマに行われたそのイベントでは、様々な企業のパビリオンが建てられました。その中でUCC(UCC上島珈琲株式会社)は巨大なコーヒーカップ状のパビリオンを建てコーヒーと生活のかかわりや文化を解説し、「コーヒーのある豊かな生活」をうたいました(UCC コーヒー博物館として現在も残っている)。このイベントにより、ポートアイランドや神戸は大阪万博以来の多くの人で賑わい、世界的に注目を集めました。またこのイベントをきっかけに地方博覧会ブームが起こり、街開きにあたって博覧会を開催するというこの手法はその後の主流となりました。

(出典:http://www.portisland.net/history/index.html

資料 全国総合開発計画(概要)の比較(国土交通省資料PDF)


資料 長田区と在日韓国・朝鮮人
神戸市長田区は神戸市内でもっとも多くの在日韓国・朝鮮人が居住する地域 である.区民人口は概ね13万人.外国人登録人員は1万人(神戸市全体では約4 万4,000人),そのうち韓国・朝鮮籍が約9,500人と9割を占めている.長田区の 人口全体は,1965年以降30年間で40%ほど減少したが,外国人登録人口に大きな変化がないことが特徴である(……).また,生活保護受給率は神戸 市ではもっとも高く,そして高齢化率も高い地域である(……).中 小・零細商工業と戦前からの低廉住宅が混住密集しており,そのため,震災に よる被害も甚大で,家屋の全壊・全焼率も神戸市内で一番高い率であった.(中略)
長田の地場産業はケミカルシューズ産業であり,全国シェアの75%を占める. 戦前,戦中,ゴム長靴と地下足袋の産地だった長田区(当時は林田区)は,戦 後,合成皮革とゴムを使った靴の生産地として発展してきた.震災前には,JR 山陽本線沿線の新長田駅・鷹取駅周辺を中心にして大小さまざまな規模のくつ メーカーが400-450社,関連の下請け・孫請けの工場が1,200社ほどあったと いわれている.そして,その事業主の60%が在日韓国・朝鮮人のである.
ケミカル産業に在日韓国・朝鮮人が従事していくようになった経緯について,
文献および聞き取りの資料などをもとに少し述べておきたい.
1909(明治42)年,神戸市に神戸ダンロップ護謨株式会社が設立されたこと を契機に,ゴム工業が神戸の有力な産業となった.それまで,神戸の地場産業 であったマッチ産業が第1次世界大戦後,衰退しはじめたこともあり,マッチ 工場の経営者たちはゴム工業の経営に転換していった.マッチとゴムはどちら もその製造過程で硫黄を使用し,必要な技術の応用が可能だったため経営転換もしやすかったという.そのような経緯から,神戸市は日本のゴム工業の中心 地となり,長田地区にはその関連の工場が多く存在するようになったのである. ゴム工業の現場はいわゆる「3K労働」の場であり,低賃金の労働力を必要と したため,植民地下の朝鮮半島から渡日してきていた朝鮮人の雇用が行われた という.1936年当時には,すでに長田地域の朝鮮人人口は7,719名(神戸市全体 では約1万6,000人)に達しており,その多くがゴム工場で労働者として働いて いたという.こうしたことが,戦後,在日がゴム工業,さらには,それを母胎 としたケミカルシューズ産業の担い手になることにつながっていったといわれている.

(参考:山本かほり「在日韓国・朝鮮人の生活史のなかの震災」、岩崎信彦ほか編『復興・防災まちづくりの社会学』(阪神・淡路大震災の社会学
第3巻)昭和堂、1999年、207-217頁。http://www.showado-kyoto.jp/files/hansin3/317.pdf



地下鉄サリン事件

 また同年3月20日には、新新宗教・オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。犯行に携わったのは、伝統宗教やマス・メディアや「終末論」的なサブ・カルチャーの要素を加えて誘い込んだ、高学歴の経歴を持つ若者たちであった。




歴史認識問題


 冷戦体制が終結すると、1980年代に成立していた「戦後合意」を見直し、先の大戦に対する見方を定め、「戦後」に区切りをつける議論が、憲法改正論議とともに左右両派において噴出するようになった。

 1992年には皇后両陛下が訪中が実現し、日中両国の関係改善への期待も高まっていた。


 しかし、自民党の長期政権が崩壊すると、東アジアの「歴史問題」がにわかに政局化していくことになる。

資料 歴代総理大臣としてはじめて公的な発言として先の大戦を侵略戦争と述べた細川護煕首相
 1993年8月9日、細川護熙(もりひろ)(79)を首班とする非自民連立政権が発足した。翌日の記者会見で、細川は、日中戦争に始まる先の戦争について、こう述べる。「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」

(出典:https://www.asahi.com/articles/DA3S12856401.html


 1995年には、戦後50年を経て、冷戦体制下において、これまで暗黙のうちに共有されてきた歴史を見直そうという動きが活発化した。

資料 「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」 
決議本文
本院は、戦後五十年にあたり、全世界の戦没者及び戦争等による犠牲者に対し、追悼の誠を捧げる。
また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。
我々は、過去の戦争についての歴史観の相違を超え、歴史の教訓を謙虚に学び、平和な国際社会を築いていかなければならない。
本院は、日本国憲法の掲げる恒久平和の理念の下、世界の国々と手を携えて、人類共生の未来を切り開く決意をここに表明する。
右決議する。


 村山富市むらやまとみいち首相は、8月15日に次のような談話を発表している。  

資料 「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)(1995年8月15日)

わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

(出典:https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html)「談話」というかたちは、閣議決定を経た日本政府の公的見解。衆院本会議で6月に採決された「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」には、与野党251人(野党では新進党の141人など)が欠席し、参院決議が見送られたため、国会決議は無効に。これを受け村山は談話としての発表を決意した経緯がある。



サブ・サブ・クエスチョン
戦後50年たった日本とドイツにおける、歴史に対する見方には、どのような共通点・相違点があるだろうか? 両国内における意見が一筋縄ではないことも踏まえて考えてみよう。

 冷戦体制の崩壊は、左右のイデオロギー的な対立を終わらせ、歴史に対する大きな見方(=「大きな物語」)を揺らがせることとなった。



 すでに1980年代、1982年の近隣諸国条項を契機に、歴史教育をめぐる議論が東アジアの外交問題として浮上していたが、冷戦終結後には、その延長線上に歴史教育の刷新を唱える議論が沸騰する。


 1995年に設立された「自由主義史観研究会」や、1996年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」がその代表だ。事実に対する見方(=歴史観)が複数存在するとし、歴史観に応じて事実を選択して歴史を編もうとする動きは、同じく敗戦国であったドイツでも、はやくも1980年代に議論をよびおこし、事実に向かう歴史学者自身の姿勢自体も問い直されることとなった。


資料 新しい歴史教科書をつくる会 趣意書(平成9年(1997年)1月30日 設立総会)
私たちは、21世紀に生きる日本の子どもたちのために、
新しい歴史教科書をつくり、歴史教育を根本的に立て直すことを決意しました。
世界のどの国民も、それぞれ固有の歴史を持っているように、
日本にもみずからの固有の歴史があります。
日本の国土は古くから文明をはぐくみ、独自の伝統を育てました。
日本はどの時代においても世界の先進文明に歩調を合わせ、
着実に歴史を歩んできました。
欧米諸国の力が東アジアをのみこもうとした、あの帝国主義の時代、
日本は自国の伝統を生かして西欧文明との調和の道を探り出し、
近代国家の建設とその独立の維持に努力しました。
しかし、それは諸外国との緊張と摩擦をともなう厳しい歴史でもありました。
私たちの父母、そして祖先の、こうしたたゆまぬ努力の上に、
世界で最も安全で豊かな今日の日本があるのです。
ところが戦後の歴史教育は、
日本人が受けつぐべき文化と伝統を忘れ、日本人の誇りを失わせるものでした。
特に近現代史において、
日本人は子々孫々まで謝罪し続けることを運命づけられた罪人の如くにあつかわれています。
冷戦終結後は、この自虐的傾向がさらに強まり、
現行の歴史教科書は
旧敵国のプロパガンダをそのまま事実として記述するまでになっています。
世界にこのような歴史教育を行っている国はありません。
私たちのつくる教科書は、
世界史的視野の中で、日本国と日本人の自画像を、品格とバランスをもって活写します。
私たちの祖先の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、
その苦楽を追体験できる、日本人の物語です。

(出典:https://tsukurukai.com/aboutus/syuisyo.html)

資料 記憶をめぐるポリティックス
個の記憶は過去に関する個人の知や思いの総計であるが、その個が属する様々な集団のアイデンティティ(自己同一性)と絡み合っている。共同体(家族・地域社会・国民国家・文明共有集合体等々)の内部には、一般的に複数の「記憶の共同体」が併存し、雑多な記憶が存在する。その中で、有効に当該共同体の共同性を保証する過去認識として広く認められた特定の記憶は、「公共の記憶」となる。歴史のレベルで「公共の記憶」の座を獲得した過去認識にあり方が「正史」になる、といえる。公共の「記憶の場」をめぐって、本来多数存在し、異なった幻像をもつ多様な記憶の間で、不断に闘争や操作が行われている。「正史」が個々の記憶の簒奪・横領によって成立するとすれば、その過程を批判的に分析し、「正史」によって抑圧される人々の存在を示すことが「記憶の歴史学」の課題となる。

(出典:南塚信吾ほか編『新しく学ぶ西洋の歴史—アジアから考える』ミネルヴァ書房、2016年、370頁)



米軍兵士による沖縄少女暴行事件

 1995年春、米クリントン政権で国防次官補を務めた国際政治学者ジョゼフ・ナイにより『第3次東アジア戦略報告』(ナイ・レポート)が発表され、アメリカ国外の軍縮小に歯止めをかける方針が示された。

資料 ジョゼフ・ナイによる回顧
1990年代初め、多くの米国人は日本を経済的脅威と見なしていた。一方多くの日本人は、国家安全保障のため、米国ではなく国際連合中心のアプローチを取るべきであると考えていた。両国の人々の中には、日米安保同盟は解消されるべき冷戦時代の遺物と見なす者もいた。しかしこのトレンドは、中国に国際情勢への参加を呼び掛ける一方、日米同盟関係を強化することにより不確実性をヘッジした、クリントン政権の1995年東アジア戦略報告書(通称ナイ・レポート)により反転した。

(出典:ジョゼフ・ナイ「日米同盟:現在と未来」、https://www.rieti.go.jp/jp/special/p_a_w/001.html


 9月4日には、沖縄県で小学生に対し性暴力をふるったアメリカ兵3名が、日米地位協定により日本側に引き渡されなかったことに対し、県民の怒りが爆発した。当時の大田昌秀知事は9月下旬の県議会で、軍用地収容に関する代理署名を拒否。10月には8万5000人の集まる県民集会が開かれ、沖縄の在り方の見直しを求める世論が高まった。

 村山政権は退陣の前月95年12月に、沖縄県に対する行政訴訟をおこし、翌96年8月に県側の敗訴が確定。橋本政権下の96年4月には普天間ふてんま基地の返還がアメリカとの間で合意された。1997年12月には普天間の基地機能の移設先とされた名護市で住民投票が行われ、「単純反対」が過半数を占めたものの、比嘉鉄也市長は基地受け入れを認め、辞職した。


■「失われた20年」


バブル崩壊後の政治と経済

 バブル崩壊にともない、1991年頃から不況が本格化し、不良債権処理の難航した銀行や証券会社が連鎖的に破綻するようになった。「銀行はつぶれない」という神話が崩れたのである。

 日本国内で「平成不況」が進行する一方、すでに1980年代から、中曽根政権の下で公共部門の民営化をすすめ、市場原理のもとで経済を活性化させようとする新自由主義路線がはじまっていた。この背景には、1970年代後半以降、進展していたグローバル化の波が関係している。



 1995年から2000年前後にかけて、アメリカ合衆国でのちにIT関連の革新的な技術を擁する企業が設立され、1980年代以降世界を席巻したSONYに代表される日本企業が世界市場において大きな遅れをとるようになった。1997年には、ヘッジファンドの空売りの影響でタイで通貨危機が起こり、さらに韓国などアジア各地に飛び火、翌年にはロシアにも及んだ。アジア通貨危機の影響は日本にも及び、1997年には、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻している。
 こうしてバブル崩壊後の「平成不況」は、「失われた10年」を超え、「失われた20年」へと突入していったのである。

(出典:https://arigato-ipod.com/collection-chronology.html

 「小さな政府」を志向する行政改革路線は、2000年代に入り小泉純一郎政権にも引き継がれていく。
 すでに橋本政権下の1996年11月〜98年6月に開かれた行政改革会議で、21省庁→12省庁に統合再編し、内閣府を設置し官邸主導をめざす中央省庁再編が議論され、1998年6月に再編基本法が制定されていた。
 1998年8月には発足直後の小渕政権下で経済戦略会議が設置され、民間財界人を起用した首相直属の諮問会議とされ(小渕首相の所信表明演説)、のちに小泉政権下で経済財政諮問会議が設置される起点となった。

資料 今後の経済財政運営及び経済社会の構造改革に関する基本方針概要 経済財政諮問会議 「骨太の方針」(一部)
 新しい成長産業・商品が不断に登場する経済の絶え間ない動きを「創造的破壊」と呼びます。創造的破壊を通して、効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長部門へヒトと資源を移動します。これが経済成長の源泉です。
 創造的破壊としての聖域なき構造改革は、その過程で痛みを伴うこともありますが、構造改革なくして真の景気回復、すなわち持続的成長はありません。
おそれず、ひるまず、とらわれず
 まず、不良債権問題を2~3年内に解決することを目指します。それと同時に、構造改革のための7つの改革プログラムをパッケージで進めます。したがって、今後2~3年は日本経済の集中調整期間です。短期的には低い経済成長を甘受しなければなりませんが、その後は経済の脆弱性を克服し、民需主導の経済成長が実現されるでしょう。
 そこでは、国民が自信と誇りに満ち、努力した者が夢と希望をもって活躍し、市場のルールと社会正義が重視されます。また、それは誰もが豊かな自然と共生し、安全で安心に暮らせるとともに、世界に開かれ、外国人にとっても魅力を感じる社会でなければなりません。新世紀維新が目指すのは、このような社会です。

(出典:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizai/tousin/010626gaiyou.html
(出典:国土交通省、https://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/heisei12/1-2/zu1-2-1.htm


 小泉政権は、マス・メディアの活用に気を配り、「小泉劇場」ともいわれた国民に直接訴えかける政治手法で、財政投融資の縮小を目的とした郵政民営化や労働派遣法改正などの改革を進めていった。


格差拡大と労働環境の変容

 1970年代後半以降、「中流」と呼ばれる中間層の割合が低下していった。冷戦体制下においては、保守対革新という思想が政治的な対立軸となったが、中間層の低下が格差拡大を生むと、生活保守主義が新たな対立軸として浮上した(参考:吉見俊哉、上掲、185-187頁)。

(出典:OECD主要国のジニ係数の推移、厚生労働省、https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/17/backdata/01-01-03-01.html
(出典:年齢階級別非正規雇用労働者の割合の推移、男女共同参画局『男女共同参画白書令和3年版』2021年、https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r03/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-02-07.html



資料 日経連『新時代の「日本的経営」』1995年
 
日経連は平成4年(1992年)8月に「これからの経営と労働を考える」と題した報告書を発表した。この中で日本的経営の基本理念として打ち出されたのが、「長期的視野に立った経営」「人間中心(尊重)の経営」であった。その後、日経連では、この二つの基本理念が、日本企業を取り巻く経営環境の変化にも耐え得るかどうかを検討し、今後とも深化を図りつつ堅持していくべきであるとの結論を得た上で、基本理念を踏まえた実践的・具体的な指針の作成に取り組んだ。その結果完成したのが、『新時代の「日本的経営」』である。
 (……)「雇用ポートフォリオ」は、労働市場の需給両面の変化や雇用形態の多様化が進展していく中で、人材の育成と業務の効率化を図る上での対応策として示された。(……)日経連が、雇用ポートフォリオを構成する雇用・就業形態のタイプとして考えていたのは、以下の三つであった。
 第1は、従来の長期継続雇用という考え方に立って、企業としても働いてほしい、従業員としても働きたいという「長期蓄積能力活用型グループ」である(……)。
 第2は、企業の抱える課題の解決に、専門的熟練・能力によって応える「高度専門能力活用型グループ」である。Off-JT(Off the Job Training、仕事を離れての職業訓練)や、自己啓発(=労働者が自らの意向で取り組む教育訓練)を中心に能力開発を行うグループのため、このグループを活用しようとする企業は、能力開発のための支援や環境整備に努める必要がある。処遇は年俸制など、成果と処遇を一致させる制度に基づくのが望ましいとされた。
 第3は「雇用柔軟型グループ」と呼ばれるグループである。企業側は定型的な業務から専門的業務まで幅広い業務でこのグループを活用することが念頭に置かれ、一方、従業員側の就業意図としても余暇の活用から専門的能力の活用までさまざまなものが想定されている。能力開発は必要に応じて行われ、処遇は職務給などが妥当であると考えられた。

(出典:法政大学大原社会問題研究所編『日本労働運動資料集成』第12巻、旬報社、2007年、77-79頁)
(出典:同上)

 2008年9月のリーマン・ショックを機に、世界同時不況(世界金融危機)が始まった。派遣労働者の解雇(派遣切り)が社会問題化し、翌年の年始にかけて日比谷公園には「年越し派遣村」が出現した。



■「戦後」から「ポスト戦後」へ

サブ・クエスチョン
「戦後」は、いつ、どのように終わった(または終わっていない)といえるだろうか?

 1945年にポツダム宣言を受け入れ降伏した日本は、1952年までの間、アメリカを中心とする占領軍による統治を受けた。この「占領期」を経て、1952年に主権を回復した日本は、1955年に「55年体制」と呼ばれる、保守派と革新派の対立する体制に移行することになる。


 しかし、保守・革新を問わず前提としていたのは、経済成長のために国民の参加と動員を求める体制であり、福祉国家体制の充実が目標とされた。政・官・財の癒着は自民党による金権政治の温床となる一方、高度成長によって、国民に広く利益が配分される仕組みが整えられていったのである。
 この体制を支える前提が崩れていくのが、1970年代後半のこと。これについては、3-2-2. 石油危機と経済の自由化 で述べたとおりである。 



資料 「戦後」から「ポスト戦後」へ

この体制は、戦中期の総力戦体制から連続して組織されたものであったから、ここで終わりつつあるのは、「戦後」であると同時に「戦中」でもある。

(出典:吉見俊哉『ポスト戦後社会』(シリーズ日本近現代史⑨)岩波新書、2009年、ix頁。下図の出典も同頁)


消費社会の進展

 1970年代以降の日本を覆っていったのは、高度(大衆)消費社会と呼ばれる状況であった。それは耐久消費財が一通り各世帯に普及した後、商品が、イメージや記号的な価値によって消費され、人々がそのような記号的な消費によって自己実現を図ろうとするような社会のことである。

 「戦後」の日本は、重化学工業を先端産業とし、「重厚長大」な商品をたくさんつくり、消費することが良いこととされてきた。しかし、そのような時代が幕を閉じ、新たな時代へと移行する。すなわち、情報サービス産業が主流となり、「軽薄短小」な商品が追求されるようになっていった。このことは、「戦後」と「ポスト戦後」を画する転換点の一つであったといえるだろう(消費社会の浸透を契機として、1960年代の安保闘争に代表される「思想による自己実現」は、1970年代後半以降、「消費による自己実現」へと転位していった。組織化された労働運動や学生運動は脱政治化し、残された運動は「総括」に典型的に示されるように自己閉塞的な過激化の道をたどるか、個を肯定する緩やかな社会運動のネットワークへと回収されていった。社会学者の吉見俊哉は、大塚英志や北田暁大の議論を踏まえ、その転換点を1972年の連合赤軍事件のなかに見ている(参考:吉見俊哉、上掲、2009:13-40))。

 ファッション雑誌のなかで展開された「個性」に応じた消費の場は、パルコによる渋谷公園通りの再開発に代表される都市の再開発によって、現実の都市空間の中に再現された。1980年代後半になると、都市の風景はトレンディドラマの世界でも展開されるようになる。メディアによって増幅されたイメージに沿って、都市の空間が構築されていったわけである(参考:吉見俊哉、上掲、2009:55-57)。

資料 高度消費社会
産業化が十分に進展した後に現れる社会と考えられている。J.ボードリヤール は,物がそれ自身として持つ効用のためではなく,他の物との示差的な関係から生れる記号的な価値のゆえに消費されるような社会を,消費社会と呼んだ。もし,すべての物が,記号的な存在であるとすれば,オリジナル (非記号) とコピーの区別は成り立たないことになる。現実がこのような記号的な存在によって構成されている状態を,ボードリヤールは「シミュレーション」「シミュラークルなどの語によって記述しようとしている。シミュラークルとは,オリジナルなしの記号的な存在のことであり,シミュレーションはそのような存在を生産するシステムのことである。
 

(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、コトバンク、https://kotobank.jp/word/消費社会-161810

 資料 ディスカバー・ジャパン
日本国有鉄道(国鉄)が、大阪万博閉幕後の旅客確保対策として「ディスカバー・ジャパン」のキャンペーンを始めたのは70年10月のことである。電通のプロデュースによるこのキャンペーンは、車内や駅のポスターのほかにも国鉄提供のテレビ番組「遠くへ行きたい」(日本テレビ、永六輔)や山口百恵が歌ったヒット曲「いい日旅立ち」などメディア・ミックス方式で勧められた。

(出典:吉見俊哉、上掲、2009:51-52)


サブ・サブ・クエスチョン
1983年に開業した東京ディズニーランドが、これまでの遊園地と比べ、まったく新しい特徴を持っていた。それは、どのような点にあったといえるだろうか?



変わる家族像

サブ・サブ・クエスチョン
1960年代から1980年代(現在)にかけて、テレビドラマにおける「家族」像(描かれ方)は、どのように変化してきたのだろうか?

 1970年代の経済危機に直面した日本企業は、経営合理化の一環として、男性の終身雇用、女性の非正規雇用としての活用を推進し、高度経済成長期に家庭を支える役割を果たした「主婦」人口は、減少の一途をたどることとなった。
 1985年には男女雇用機会均等法が制定されたものの、男女の格差はさまざまな面で依然として残されているが、家庭・就労に対する国民の性別役割意識の変化は、1970年代後半以降、着実に変化し続けている。

 女性の家庭や企業での役割が変化する中、「家族」に対する意識にも変化が見られるようになっていった。性愛と性別役割を一致させる近代家族のモデルを標準とみなす意識や制度は、国民国家同士の戦争や未来に向かって経済成長をめざす動きと、同時並行的に普及していった。しかし1970年代後半以降の国際社会や国内政治・経済の変化は、そういった近代家族の一員とは異なる主体への人々の意識の変化をもたらすことになったのである。

資料 ファミリードラマの変化
ファミリードラマはテレビ草創期からつくられてきたテレビドラマの主流ですが、それが多様化するのが1970年代。高度成長期が過ぎ、オイルショック以降の経済停滞期を反映するかのように、家庭内のさまざまな問題を描く“辛口ホームドラマ”が登場します。
1970(昭和45)年から1975(昭和50)年にかけてTBSで放送された「ありがとうシリーズは、水前寺清子や石坂浩二らを起用し、明るく温かな家庭像を描くファミリードラマの決定版。しかし、1976(昭和51)年に始まった橋田壽賀子脚本「となりの芝生」(NHK)は、そうしたドラマへのアンチテーゼのように嫁と姑の確執を辛辣に描き、「みじめすぎて見ていられない」「家の中までおかしくなった」といった投書や電話が殺到したのだそう! また、実際に起こった水害を題材に平凡な家庭が崩壊する様を描いた山田太一脚本「岸辺のアルバム」(TBS/1977〈昭和52〉年)も、家族とは何か、親子の関係はどうあるべきかといった普遍的な難問に取り組む “衝撃のホームドラマ”として大きな影響を与え、日本のホームドラマの金字塔となりました。

(出典:https://www.ntt-card.com/trace/sp/vol43/special/index.shtml

資料 理想の家庭像の変遷

(参考:荒牧央「45年で日本人はどう変わったか(1)」『放送研究と調査』2019年5月、https://www.nhk.or.jp/bunken/research/yoron/pdf/20190501_7.pdf




ポップカルチャーとサブカルチャー


 2021年現在の高校1〜3年生は、2003〜2006年生まれに相当する。つまり、彼らが10歳を迎えた年齢は、2013〜2016年頃のこと。
 それ以前に起こったことを授業で扱ったとしても、共有するのは難しい。

資料 Z世代とミレニアル世代

(出典:https://dime.jp/genre/999531/


(出典:https://dime.jp/genre/999531/


(出典:https://www.nikkei.com/article/DGXKZO47040390V00C19A7EA2000/日本経済新聞ウェブ版、2019年「▼ミレニアル世代 米国で主にマーケティング戦略で使われる言葉。一般に1981~96年生まれの23~38歳を指す。「ミレニアル」は「千年紀(ミレニアム)」の形容詞で、2000年代に社会進出した世代。物心ついた頃からIT機器を使う「デジタルネーティブ」で、成長期に米同時多発テロを経験し、多様性を重視するとされる。 日本でも20代を指す言葉として使われることがある。JTB総合研究所は平成初期(1989~95年)生まれの世代と定義。SNSで情報を収集し、旅行に積極的な傾向があるという。ゆとり教育を受けた「ゆとり世代」と重なり、好景気を知らず現状に不満が少ないとの分析もある。」)

 まず、2021年現在の高校生は、日本社会に大きなインパクトをもたらした東日本大震災(3.11)をリアルタイムで知らない。2012年12月の第二次政権発足から2020年の退陣まで、首相は一貫して安倍晋三あべしんぞうであった。また、2019年には平成から令和への改元を経験し、2020年以降はコロナウイルスの世界的大流行に見舞われた。

 スマートフォンやSNSを通して、動画を高速で閲覧でいる状況がもはや当たり前の環境として浸透していることも、2000年代に中高生であった世代とは異なる点だ。2017年には「インスタ映え」が流行し、同年夏にはTikTokは日本に上陸、同じ頃からBTSに代表される第3次韓流ブームの影響も色濃い。

2013年の流行語大賞(出典:https://image.itmedia.co.jp/l/im/news/articles/1312/02/l_sk_ryuukou_01.jpg#_ga=2.63728111.1306612330.1640766749-352787630.1640766748

 



 









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