■1990年代前半の日本
冷戦体制の崩壊と重なった昭和から平成への改元
昭和天皇の崩御にともない、1989年1月8日に平成が新元号となった。この年、東ヨーロッパでは社会主義政権が次々に崩壊し、12月3日にはマルタ島で冷戦の終結が宣言された。
一方、日本は年末の日経平均株価終値が38,915円87銭を記録し、地価・株価が実態とかけはなれて急激に上昇するバブル経済となっていた。
この背景には、1985年に、先進5か国(米・英・仏・西独・日)により合意されたドル高の協調介入による是正があった(プラザ合意)。この結果、円高ドル安誘導政策がとられ、円高が進んだことから不況となったため、日本政府は大幅な低金利政策をとった。この結果、好景気となったが、土地や株への投資が異常にすすむ結果となった。
産業の空洞化と外国人人口の増加
円高を背景として、日本企業は多国籍企業化をすすめていった。貿易摩擦問題を解消するため、日本企業は海外に資本を直接投下し、現地生産をおこなうようになる(産業の空洞化)。
逆に国内では、外国人労働者の雇用が肉体労働を中心として増加した。1980年代後半の日本では製造業などで単純労働力の不足が深刻化し、「ニューカマー」と称される新来外国人の流入がすすんだのだ。特に、南米諸国からの日系人の出稼ぎが増加した。
こうした動向を受け、1990年には出入国管理及び難民認定法(入管法)が改正された。依然として単純労働者の入国・定住は認められなかったが、日系2世・3世とその家族の就労が合法化された。
資料 在留外国人(登録外国人)数の推移
バブルの崩壊と55年体制の崩壊
しかしその後、1990年代半ばにかけて地価・株価が急落し、バブル経済は崩壊。銀行から融資された資金が返済されずに焦げ付いた不良債権が社会問題となった。
日本はこの先「失われた20年」と呼ばれる低成長の時代(平成不況)となる。経済不振が深刻化する一方で、佐川急便事件やリクルート事件などの汚職事件は政治不信を高め、自民党政権への批判が高まった。後者にからむリクルート社は、社会の情報化やサービス化の進展、中曽根政権の民活路線に沿って急成長を遂げた新興企業であった。
1993年には非自民8党派による連立内閣の成立により、自民党は史上初めて野党となり、冷戦体制下にはじまった55年体制は崩壊した。
(参考)社会のながれをつかむ! 選挙と政権交代からみる日本政治の変遷(上原功氏執筆、帝国書院)
■ 転換点としての1995年
平成の幕開けとともに、冷戦体制にとらわれない新しい政治・経済体制が模索されたが、「1995年」という年は、冷戦体制の崩壊後、日本社会が新たな局面に向かう重要な契機とされることが少なくない。
阪神・淡路大震災
その後、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が西日本を襲った。村山内閣は初動対応に失敗し、危機管理体制が問われることとなった。日本が都市直下型の巨大地震にいかにもろい環境にあるか、意識されるきっかけとなる災害であった。
資料 全国総合開発計画(概要)の比較(国土交通省資料PDF)
地下鉄サリン事件
また同年3月20日には、新新宗教・オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。犯行に携わったのは、伝統宗教やマス・メディアや「終末論」的なサブ・カルチャーの要素を加えて誘い込んだ、高学歴の経歴を持つ若者たちであった。
歴史認識問題
冷戦体制が終結すると、1980年代に成立していた「戦後合意」を見直し、先の大戦に対する見方を定め、「戦後」に区切りをつける議論が、憲法改正論議とともに左右両派において噴出するようになった。
1992年には皇后両陛下が訪中が実現し、日中両国の関係改善への期待も高まっていた。
しかし、自民党の長期政権が崩壊すると、東アジアの「歴史問題」がにわかに政局化していくことになる。
1995年には、戦後50年を経て、冷戦体制下において、これまで暗黙のうちに共有されてきた歴史を見直そうという動きが活発化した。
村山富市首相は、8月15日に次のような談話を発表している。
冷戦体制の崩壊は、左右のイデオロギー的な対立を終わらせ、歴史に対する大きな見方(=「大きな物語」)を揺らがせることとなった。
すでに1980年代、1982年の近隣諸国条項を契機に、歴史教育をめぐる議論が東アジアの外交問題として浮上していたが、冷戦終結後には、その延長線上に歴史教育の刷新を唱える議論が沸騰する。
1995年に設立された「自由主義史観研究会」や、1996年に結成された「新しい歴史教科書をつくる会」がその代表だ。事実に対する見方(=歴史観)が複数存在するとし、歴史観に応じて事実を選択して歴史を編もうとする動きは、同じく敗戦国であったドイツでも、はやくも1980年代に議論をよびおこし、事実に向かう歴史学者自身の姿勢自体も問い直されることとなった。
米軍兵士による沖縄少女暴行事件
1995年春、米クリントン政権で国防次官補を務めた国際政治学者ジョゼフ・ナイにより『第3次東アジア戦略報告』(ナイ・レポート)が発表され、アメリカ国外の軍縮小に歯止めをかける方針が示された。
9月4日には、沖縄県で小学生に対し性暴力をふるったアメリカ兵3名が、日米地位協定により日本側に引き渡されなかったことに対し、県民の怒りが爆発した。当時の大田昌秀知事は9月下旬の県議会で、軍用地収容に関する代理署名を拒否。10月には8万5000人の集まる県民集会が開かれ、沖縄の在り方の見直しを求める世論が高まった。
村山政権は退陣の前月95年12月に、沖縄県に対する行政訴訟をおこし、翌96年8月に県側の敗訴が確定。橋本政権下の96年4月には普天間基地の返還がアメリカとの間で合意された。1997年12月には普天間の基地機能の移設先とされた名護市で住民投票が行われ、「単純反対」が過半数を占めたものの、比嘉鉄也市長は基地受け入れを認め、辞職した。
■「失われた20年」
バブル崩壊後の政治と経済
バブル崩壊にともない、1991年頃から不況が本格化し、不良債権処理の難航した銀行や証券会社が連鎖的に破綻するようになった。「銀行はつぶれない」という神話が崩れたのである。
日本国内で「平成不況」が進行する一方、すでに1980年代から、中曽根政権の下で公共部門の民営化をすすめ、市場原理のもとで経済を活性化させようとする新自由主義路線がはじまっていた。この背景には、1970年代後半以降、進展していたグローバル化の波が関係している。
1995年から2000年前後にかけて、アメリカ合衆国でのちにIT関連の革新的な技術を擁する企業が設立され、1980年代以降世界を席巻したSONYに代表される日本企業が世界市場において大きな遅れをとるようになった。1997年には、ヘッジファンドの空売りの影響でタイで通貨危機が起こり、さらに韓国などアジア各地に飛び火、翌年にはロシアにも及んだ。アジア通貨危機の影響は日本にも及び、1997年には、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が破綻している。
こうしてバブル崩壊後の「平成不況」は、「失われた10年」を超え、「失われた20年」へと突入していったのである。
「小さな政府」を志向する行政改革路線は、2000年代に入り小泉純一郎政権にも引き継がれていく。
すでに橋本政権下の1996年11月〜98年6月に開かれた行政改革会議で、21省庁→12省庁に統合再編し、内閣府を設置し官邸主導をめざす中央省庁再編が議論され、1998年6月に再編基本法が制定されていた。
1998年8月には発足直後の小渕政権下で経済戦略会議が設置され、民間財界人を起用した首相直属の諮問会議とされ(小渕首相の所信表明演説)、のちに小泉政権下で経済財政諮問会議が設置される起点となった。
小泉政権は、マス・メディアの活用に気を配り、「小泉劇場」ともいわれた国民に直接訴えかける政治手法で、財政投融資の縮小を目的とした郵政民営化や労働派遣法改正などの改革を進めていった。
格差拡大と労働環境の変容
1970年代後半以降、「中流」と呼ばれる中間層の割合が低下していった。冷戦体制下においては、保守対革新という思想が政治的な対立軸となったが、中間層の低下が格差拡大を生むと、生活保守主義が新たな対立軸として浮上した(参考:吉見俊哉、上掲、185-187頁)。
2008年9月のリーマン・ショックを機に、世界同時不況(世界金融危機)が始まった。派遣労働者の解雇(派遣切り)が社会問題化し、翌年の年始にかけて日比谷公園には「年越し派遣村」が出現した。
■「戦後」から「ポスト戦後」へ
1945年にポツダム宣言を受け入れ降伏した日本は、1952年までの間、アメリカを中心とする占領軍による統治を受けた。この「占領期」を経て、1952年に主権を回復した日本は、1955年に「55年体制」と呼ばれる、保守派と革新派の対立する体制に移行することになる。
しかし、保守・革新を問わず前提としていたのは、経済成長のために国民の参加と動員を求める体制であり、福祉国家体制の充実が目標とされた。政・官・財の癒着は自民党による金権政治の温床となる一方、高度成長によって、国民に広く利益が配分される仕組みが整えられていったのである。
この体制を支える前提が崩れていくのが、1970年代後半のこと。これについては、3-2-2. 石油危機と経済の自由化 で述べたとおりである。
消費社会の進展
1970年代以降の日本を覆っていったのは、高度(大衆)消費社会と呼ばれる状況であった。それは耐久消費財が一通り各世帯に普及した後、商品が、イメージや記号的な価値によって消費され、人々がそのような記号的な消費によって自己実現を図ろうとするような社会のことである。
「戦後」の日本は、重化学工業を先端産業とし、「重厚長大」な商品をたくさんつくり、消費することが良いこととされてきた。しかし、そのような時代が幕を閉じ、新たな時代へと移行する。すなわち、情報サービス産業が主流となり、「軽薄短小」な商品が追求されるようになっていった。このことは、「戦後」と「ポスト戦後」を画する転換点の一つであったといえるだろう(消費社会の浸透を契機として、1960年代の安保闘争に代表される「思想による自己実現」は、1970年代後半以降、「消費による自己実現」へと転位していった。組織化された労働運動や学生運動は脱政治化し、残された運動は「総括」に典型的に示されるように自己閉塞的な過激化の道をたどるか、個を肯定する緩やかな社会運動のネットワークへと回収されていった。社会学者の吉見俊哉は、大塚英志や北田暁大の議論を踏まえ、その転換点を1972年の連合赤軍事件のなかに見ている(参考:吉見俊哉、上掲、2009:13-40))。
ファッション雑誌のなかで展開された「個性」に応じた消費の場は、パルコによる渋谷公園通りの再開発に代表される都市の再開発によって、現実の都市空間の中に再現された。1980年代後半になると、都市の風景はトレンディドラマの世界でも展開されるようになる。メディアによって増幅されたイメージに沿って、都市の空間が構築されていったわけである(参考:吉見俊哉、上掲、2009:55-57)。
変わる家族像
1970年代の経済危機に直面した日本企業は、経営合理化の一環として、男性の終身雇用、女性の非正規雇用としての活用を推進し、高度経済成長期に家庭を支える役割を果たした「主婦」人口は、減少の一途をたどることとなった。
1985年には男女雇用機会均等法が制定されたものの、男女の格差はさまざまな面で依然として残されているが、家庭・就労に対する国民の性別役割意識の変化は、1970年代後半以降、着実に変化し続けている。
女性の家庭や企業での役割が変化する中、「家族」に対する意識にも変化が見られるようになっていった。性愛と性別役割を一致させる近代家族のモデルを標準とみなす意識や制度は、国民国家同士の戦争や未来に向かって経済成長をめざす動きと、同時並行的に普及していった。しかし1970年代後半以降の国際社会や国内政治・経済の変化は、そういった近代家族の一員とは異なる主体への人々の意識の変化をもたらすことになったのである。
資料 理想の家庭像の変遷
ポップカルチャーとサブカルチャー
2021年現在の高校1〜3年生は、2003〜2006年生まれに相当する。つまり、彼らが10歳を迎えた年齢は、2013〜2016年頃のこと。
それ以前に起こったことを授業で扱ったとしても、共有するのは難しい。
資料 Z世代とミレニアル世代
まず、2021年現在の高校生は、日本社会に大きなインパクトをもたらした東日本大震災(3.11)をリアルタイムで知らない。2012年12月の第二次政権発足から2020年の退陣まで、首相は一貫して安倍晋三であった。また、2019年には平成から令和への改元を経験し、2020年以降はコロナウイルスの世界的大流行に見舞われた。
スマートフォンやSNSを通して、動画を高速で閲覧でいる状況がもはや当たり前の環境として浸透していることも、2000年代に中高生であった世代とは異なる点だ。2017年には「インスタ映え」が流行し、同年夏にはTikTokは日本に上陸、同じ頃からBTSに代表される第3次韓流ブームの影響も色濃い。