■ブレトン・ウッズ体制の崩壊と石油危機
1970年代には、世界経済の根本的な変動も生じた。
第一に、アメリカ合衆国を中心とするブレトン・ウッズ体制が崩壊した。
1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、ドルと金の兌換の停止を発表した。これをドル・ショックという。
1973年までに、主要国の通貨は変動相場制に移行した。
1960年代後半、ベトナム戦争の戦費拡大によりアメリカ合衆国の財政赤字と貿易赤字が拡大し、西側世界の基軸通貨であったドルの信用が低下したためである。
第二に、1973年の第4次中東戦争と、1979年のイラン革命の際に、原油価格の高騰がおこり、それまで安価な原油輸入のおかげで経済成長していた欧米諸国の成長率が鈍化した。
資料 原油輸入価格の推移
欧米諸国ではスタグフレーションに苦しみ、日本でも1974年には消費者物価が前年比20%も上昇する「狂乱物価」となり、生活必需品の買いだめによる品薄が発生するなど、国民生活は混乱して、戦後初めて経済成長率がマイナスを記録した。
資料 日本の石油備蓄の整備拡大と石油備蓄日数の推移
こうした変化に比較的早く対応したのが日本であった。省エネルギー技術やマイクロエレクトロニクス産業の技術革新を進め、その技術は他の欧米諸国にも寄与した。
1975年には先進国(主要国)首脳会議(サミット)が初めて開催され、ブレトンウッズ体制の崩壊と石油危機の崩壊に対応し、世界経済をどのように立て直していくか、主要国の協調体制が確認された。
(参考)オイル・トライアングル
杉原薫「東アジア・中東・世界経済 : オイル・トライアングルと国際経済秩序」(『イスラーム世界研究』2(1)、2008年、69-91頁)
多角決済機構「オイル・トライアングル」の形成
オイル・トライアングルの変容(1)―韓国・台湾・シンガポール主導期
オイル・トライアングルの変容(2)―中国主導期
「東アジアの奇跡」と世界の「平等化」
■進む経済の自由化
戦後の西側先進国の福祉国家政策は、高い経済成長によって支えられていた。
1970年代の経済危機は、その前提を崩すものであった。
そこで西側諸国の政府は、福祉国家型の経済政策の見直しに入った。
すなわち規制緩和や民営化などの自由競争が促進され、経済活動の活性化がはかられるようになったのである。
その筆頭に挙げられるのは、1979年に発足したサッチャー政権による改革である。彼女は国営企業を民営化し、社会福祉を削減していった。
アメリカで1981年に大統領に就任したレーガンも「小さな政府」をかかげ、規制緩和と社会保障支出削減をすすめた。
イギリスとアメリカは金融市場の自由化を積極的にすすめ、国を超える資本の移動を活発化させていった。
石油危機によって、内需の拡大が頭打ちになった以上、生産拠点の海外移転と市場の拡大に活路を求めるほかなくなったのである。
資料 日本の経済関連統計(Datacommons.orgより)
こうした経済の自由化を進める動きは、日本の自由民主党政権にも波及した。中曽根康弘首相は、電電公社、国鉄などの公営企業を民営化し、規制緩和を進めていった(1985年2月に田中派は竹下派・反竹下派に分裂している)。
1980年代の日本は、マイクロエレクトロニクスの分野や自動車分野で高い国際的な競争力をもち、安定的な成長をとげていった。
日本製品の輸出が増えると、アメリカでは貿易赤字がふくらみ、財政赤字とあわせて「双子の赤字」と形容され、問題視された。
日米の貿易摩擦の原因は、日本がアメリカ企業の進出を阻む「慣行」を持っているからであるとされ、国内市場の開放が強く求められるようになった。
1985年9月22日にはニューヨークのプラザホテルにおけるプラザ合意において、日本と西ドイツの貿易黒字を是正するために、為替相場のドル安誘導が決定された。
これにより円高が進行し、輸出不振となり、円高不況が起きた。輸出力の下がった日本企業は、生産拠点を海外に移転させる動きをすすめることで対処し、これが産業の空洞化の一因にもなった。
円高の進行と貿易摩擦に対処すべく、日本では内需を拡大するために積極的な金融緩和がおこなわれた。その一方、余剰資金は投機的な取引にむかい、1980年代末には地価・株価の急騰するバブル景気を招くこととなった。
1987年2月のNTT株上場などをきっかけに株式ブームがおこり、1989年12月29日に日経平均株価は3万8915円を記録した。
参考
GDP成長率