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新科目「歴史総合」をよむ 3-2-2. 石油危機と経済の自由化

メイン・クエスチョン
ドル・ショックとオイル・ショックは、世界にどのような影響をあたえたのだろうか?

■ブレトン・ウッズ体制の崩壊と石油危機

サブ・クエスチョン
先進資本主義国は1970年代の経済危機をどのように切り抜けていったのだろうか?

 1970年代には、世界経済の根本的な変動も生じた。

 第一に、アメリカ合衆国を中心とするブレトン・ウッズ体制が崩壊した。
 1971年8月、アメリカのニクソン大統領は、ドルと金の兌換の停止を発表した。これをドル・ショックという。
 1973年までに、主要国の通貨は変動相場制に移行した。
 1960年代後半、ベトナム戦争の戦費拡大によりアメリカ合衆国の財政赤字と貿易赤字が拡大し、西側世界の基軸通貨であったドルの信用が低下したためである。

 第二に、1973年の第4次中東戦争と、1979年のイラン革命の際に、原油価格の高騰がおこり、それまで安価な原油輸入のおかげで経済成長していた欧米諸国の成長率が鈍化した。


資料 原油輸入価格の推移

(出典:エネ百科(日本原子力文化財団)、https://www.ene100.jp/zumen/1-2-6



 欧米諸国ではスタグフレーションに苦しみ、日本でも1974年には消費者物価が前年比20%も上昇する「狂乱物価」となり、生活必需品の買いだめによる品薄が発生するなど、国民生活は混乱して、戦後初めて経済成長率がマイナスを記録した。


資料 日本の石油備蓄の整備拡大と石油備蓄日数の推移

(出典:資源エネルギー庁『エネルギー白書 平成24年度版』、https://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2013html/3-2-3.html)「1973年に発生した第一次オイルショックに対応し、国は緊急石油対策推進本部(後に、国民生活安定緊急対策本部に改組)を設けるとともに「石油緊急対策要綱」を閣議決定し、全国民的な消費節約運動の展開、石油・電力の使用節減に関する行政指導等を行い、事態の収拾に努めました。更に、これと並行して緊急時における石油の安定供給等に関する立法作業が進められ、同年12月には、いわゆる「緊急時二法」と呼ばれる「石油需給適正化法」と「国民生活安定緊急措置法」が制定されました。 また、国際的には、1974年にアメリカの呼びかけにより我が国を含む主要石油消費国の間で「エネルギー調整グループ(ECG)」が結成されました。同年、同グループにより「国際エネルギー計画(IEP)」協定が採択され、「国際エネルギー機関(IEA)」が経済協力開発機構(OECD)の下部機関として設置されました。 IEPは、加盟国の緊急時におけるエネルギーの自給力確立のため、前暦年の平均純輸入量の90日分の備蓄義務と、消費削減措置付きの緊急時石油融通制度を規定しています。この規定に基づき、1970年代の二度のオイルショックに対応して、IEA加盟国を中心に石油備蓄の増強が図られました。特に、国家備蓄(日本他)、協会備蓄(ドイツ、フランス他)等公的な石油備蓄の増強が1980年代に図られました。これらにより、IEA加盟国では、2011年度末現在で、加盟国(純輸入国に限る)平均138日の石油備蓄を保有していました。」


 こうした変化に比較的早く対応したのが日本であった。省エネルギー技術やマイクロエレクトロニクス産業の技術革新を進め、その技術は他の欧米諸国にも寄与した。

 1975年には先進国(主要国)首脳会議(サミット)が初めて開催され、ブレトンウッズ体制の崩壊と石油危機の崩壊に対応し、世界経済をどのように立て直していくか、主要国の協調体制が確認された。


資料 ランブイエ・サミットにおける宣言(1975年)
1 我々は、この3日間に世界の経済情勢、我々の国々に共通する経済の諸問題、これらの人間的、社会的及び政治的意味あい、ならびにこれらの問題を解決するための諸構想について、十分かつ実り多き意見の交換を行った。我々は、この3日間に世界の経済情勢、我々の国々に共通する経済の諸問題、これらの人間的、社会的及び政治的意味あい、ならびにこれらの問題を解決するための諸構想について、十分かつ実り多き意見の交換を行った。
2 我々がここに集うこととなったのは、共通の信念と責任とを分ち合っているからである。我々は、各々個人の自由と社会の進歩に奉仕する開放的かつ民主的な社会の政府に責任を有する。そして、我々がこれに成功することは、あらゆる地域の民主主義社会を強化し、かつ、これらの社会にとり真に緊要である。我々は、それぞれ、主要工業経済の繁栄を確保する責任を有する。我々の経済の成長と安定は、工業世界全体及び開発途上国の繁栄を助長することとなる。
3 ますます相互依存が深まりつつある世界において、この宣言に述べられている諸目的の達成を確保するために、我々は、我々の十分な役割を果すとともに、経済の発展段階、資源賦存度及び政治的、社会的制度の差異を越え、すべての国々の間の一層緊密な国際協力と建設的対話のための我々の努力を強化する意図を有する。
4 先進工業民主主義諸国は、失業の増大、インフレの継続及び重大なエネルギー問題を克服する決意を有する。今回の会合の目的は、我々の進捗状況を検討し、将来克服すべき諸問題をより明確に確認し、かつ、我々が今後辿るべき進路を設定することであった。
5 最も緊要な課題は、我々の経済の回復を確保し、失業がもたらす人的資源の浪費を減少せしめることである。経済の回復を確固たるものとするにあたり、その成功を脅かすこととなる追加的インフレ圧力の発生を回避することが肝要である。目的とすべきは、着実かつ持続的な成長である。かくして、消費者及び企業家の自信が回復されることとなる。
6 我々は、我々の現在の政策が両立し、かつ、相補うものであり、回復が進行しつつあることを確信する。しかしながら、我々は、政策の遂行にあたり、警戒を怠ることなく、また、時宜に応じ対処する必要性を認める。我々は、回復の挫折を許容しない。我々は、インフレの再燃を容認しない。
7 我々の関心は、また、世界貿易、通貨問題及びエネルギーを含む原材料の分野における新たな努力の必要性に集中した。
8 国内的回復及び経済の拡大の進行に伴い、我々は、世界貿易の量的増大の回復に努力しなければならない。その増大と価格安定は、開放された貿易体制の維持により促進されることとなる。保護主義再燃の圧力が強まりつつある現在、主要貿易国は、OECDプレッジの諸原則に対するコミットメントを確認することが緊要であり、また、他国の犠牲において自国の問題の解決をはかり得るような措置に訴えることは、それが経済、社会及び政治の分野において有害な結果をもたらすものであり、回避することが緊要である。すべての諸国、なかんずく国際収支において強い立場にある諸国及び経常収支上の赤字国は、互恵的世界貿易の拡大のための政策を推進する責任を有する。
9 我々は、多角的貿易交渉が促進されるべきであると信じる。この交渉は、東京宣言にもられている諸原則に従って、一部の分野における関税撤廃をも含む大幅な関税引下げ、農産品貿易の相当な拡大及び非関税措置の軽減を目的とすべきである。この交渉は、最大限の貿易自由化を達成することを目的とすべきである。我々は、1977年中にこの交渉を完了するとの目標を提案する。
10 我々は、緊張緩和の進展及び世界経済の成長の重要な一要素として、我々と社会主義諸国との経済関係の秩序ある実り多き増進を期待する。
我々は、また、現在進められている輸出信用に関する交渉を早期に完結するための努力を強化する。
11 通貨問題に関し、我々は、より一層の安定のために作業を進める意図を確認する。この作業は、世界経済の基調を成す経済・金融上の諸条件のより一層の安定を回復する努力をも含んでいる。同時に、我々の通貨当局は、為替相場の無秩序な市場状態またはその乱高下に対処すべく行動するであろう。我々は、国際通貨制度の改革を通じて安定をもたらす必要に関し、他の多くの国の要請により、合衆国とフランスの見解に歩み寄りがみられたことを歓迎する。この歩み寄りは、IMFを通じ、同暫定委員会のジャマイカでの次期会合における国際通貨改革の諸懸案に関する合意を助長することとなろう。
12 開発途上国と先進工業世界との間の協調的関係及び相互理解の改善は、それぞれの繁栄の基盤をなす。我々の経済の持続的成長は、開発途上国の成長のために必要であり、また、開発途上国の成長は、我々の経済の健全性に大きく貢献するものである。
 開発途上諸国の現在の大幅な経常収支赤字は、これらの諸国のみならず世界全体にとって重大な問題である。この問題は、幾多の相互補完的な方途によって対処されなければならない。いくつかの国際的会議における最近の諸提案は、既に先進国と開発途上国との間の話合いの雰囲気を改善した。しかし、開発途上国を助けるために、速やかな実際的行動が必要とされている。従って、我々は、開発途上国の輸出所得の安定化のための国際的諸取極め及びこれら諸国の赤字補填を支援する措置を緊急に改善するにあたり、IMFその他適当な国際的場において我々の役割を果すものである。この関連において、最貧開発途上国に重点が置かれるべきである。
13  世界経済の成長は、エネルギー源の増大する供給可能性に明らかに結びついている。我々は、我々の経済の成長のために必要なエネルギー源を確保する決意である。我々の共通の利益は、節約と代替エネルギー源の開発を通じ、我々の輸入エネルギーに対する依存度を軽減するために、引続き協力することを必要としている。これらの諸施策及び産油国と消費国との間の双方の長期的利益に応えるための国際協力を通じて、我々は、世界エネルギー市場におけるより均衡のとれた条件と調和のとれた着実な発展を確保するために努力を惜しまない。
14 我々は、12月16日に予定されている国際経済協力会議の開催を歓迎する。我々は、すべての関係国の利益が擁護され、かつ増進されることを確保するとの積極的考え方に立ってこの対話をとり進める。我々は、先進工業国も開発途上国も、世界経済の将来の成功と、その基礎となる協力的政治関係に共に重大な利害を有していると確信する。
15 我々は、既存の制度の枠組み及びすべての関係国際機関において、これらのすべての問題についての協力を強化する意図を有する。


(参考)オイル・トライアングル

杉原薫「東アジア・中東・世界経済 : オイル・トライアングルと国際経済秩序」(『イスラーム世界研究』2(1)、2008年、69-91頁)


多角決済機構「オイル・トライアングル」の形成

「製造業では、石油消費型から省エネ型技術へ大きく転換し、1970 年代から 1980 年代にかけて新しい産業構造が確立した。これにより、鉄鋼、化学薬品、セメント、アルミニウム産業の重要性は相対的に低下した。機械工業部門では、輸送機械および重機械部門の比率が縮小する一方、電気機械(大半は電子機械)および精密機械部門が成長した。鉄鋼や樹脂その他の「新素材」に切り替え、自動車を軽量でガソリン節約型にした。家電産業も小型で軽量の製品を続々と開発した。また、工作機械工業の発展により、これらの工業の生産工程においてエネルギー効率を上げることが可能になった。

この新しい経済構造の中核にはエレクトロニクス産業の発達があった。コンピューター、半導体、電気通信機器、汎用電子部品の各部門は互いに影響し合いながら高度な通信ネットワークを形成したので、多くの製造業者は、その製品や関連するサービスをこうしたネットワーク・インフラに関連させて製造・販売するようになった。また、サービス部門の著しい成長は、これまでの銀行業や流通業に限らず、新しいソフトウェア産業、医療、教育、経営コンサルティングなどでも著しかったが、それらの多くもまた、新しく形成された技術とネットワークのインフラに依存していた。当時の日本のエレクトロニクス産業は規模も大きくなく、常に国際競争力を備えていたわけでもなかったが、このようにして他の産業に不可欠な技術と情報インフラの両方を提供したことは疑問の余地がない。

これらはすべて、「マイクロエレクトロニクス革命」によって引き起こされた産業構造のグローバルな変化の一部であった。しかし、日本がどこよりも早くエレクトロニクス産業で生み出された新しい製品や知識を多種多様な工業品に適用したことは、日本の国際競争力の向上に大きく貢献した(表1参照)。」
「石油危機への日本の第二の対応はオイル・トライアングルの形成であった。1970 年代後半までに、日本の貿易収支は産油国を除くほぼすべての貿易相手先に対し黒字となっていた。これは世界貿易のパターンに大きな影響を及ぼした。
 1974 年から 1985 年までの日本の対中東貿易赤字総額は 50 兆円に達したが、これを単純に年平均すると4兆 1330 億円(1985 年の為替レート1ドル= 238.54 円で換算すると 173 億ドル)にのぼった。他方、主要欧米諸国に対する日本の貿易黒字は 53 兆円に達し、年平均で4兆 4350 億円(186億ドル)であった。これらの二つの地域間貿易不均衡は非常に巨額であったため、国際的な懸念を呼んだ。どちらも、世界貿易の円滑な進行をはかるには、これを何らかの方法で決済しなければならなかったからである。もっとも簡単な方法は、中東の黒字を欧米先進経済へ移転するメカニズムの構築だった。図2は、この考え方を図式化したものである(各年の動向は図3を参照)。当時の世界貿易は、取引額では EC およびアメリカが主導していたが、そのなかにオイル・トライアングルがもっとも規模の大きい大陸間の多角決済メカニズムとして出現したのである。」
「同時に、オイル・トライアングルによって、欧米諸国の対中東諸国への武器輸出と日本との間には構造的なリンケージが存在したことも明らかである。日本国憲法の「平和」条項は、自衛隊の海外派兵を禁じており、国際紛争の解決手段として戦争に訴える国権を放棄している。戦後一貫して、おおっぴらな武器輸出は認められないものとされてきた。しかし、日本は中東諸国の武器購買力を支えたもっとも重要な国の一つであった。また、日本は、欧米先進諸国との間に貿易黒字を持つとともに、多くの民需型ハイテク産業の分野で激しい競争を展開することで、客観的には欧米先進諸国が中東諸国への武器輸出に傾く方向にプレッシャーをかけていた。日本国憲法の存在は、日本の製造業者を非軍事産業に特化させがちだったという意味において、このプレッシャーの重要な背景となった。意図せざるものではあったが、日本は、欧米諸国の対中東武器輸出によってオイル・トライアングルが完成したとき、そこから最大の恩恵を受ける立場にあった。」


オイル・トライアングルの変容(1)―韓国・台湾・シンガポール主導期

オイル・トライアングルの変容(2)―中国主導期


「他方、アメリカと EU に対する工業品の輸出は急速に伸び、元のレートの見直しを求める国際的な圧力が強まった。元がさらに切り上げられると、外国産原油の元建て価格が国内産のエネルギー価格に比べて下がるので、中国の外国産原油への依存度が増す可能性がある。これは、1970 年代および 1980 代の日本でも見られたことである。それとともに中国の対中東貿易赤字も増大する可能性がある
 このように、中国が原油輸入と対米・EU 工業品輸出の両面で東アジアのオイル・トライアングル拡大の原動力となった 2000 年代初頭は「中国主導期」と特徴づけることができよう。東アジア五カ国を全体として見るならば、オイル・トライングルは、日本ないし東アジアから見た二つの環節のうち、小さなほうの対中東赤字が過去 30 年間にわたって世界貿易の伸びとほぼ同じ速さで成長したという意味で、維持されたと言えよう。現時点で「中国オイル・トライアングル」といったものは存在しないが、中東諸国の原油に対する東アジアの需要は全体として、同地域の膨大な対米・EU 貿易黒字に対峙していると解釈できよう(図 10 参照)。」

「東アジアの奇跡」と世界の「平等化」

「以上の考察を本稿の議論に関連づけると、次の三つの仮説を導くことができる。まず、東アジアは、資源節約型径路とオイル・トライアングルの両方を発展させることによって、1970 年代以降における原油価格高騰の主要な受益者となった。先進国に対して貿易黒字を出せた国だけが高価な原油を輸入でき、オイル・トライアングルが誘発した世界貿易および資本移動のネットワークへの参入から利益を得ることができたのである。

 東アジアが工業品の輸出に力を注いだ理由の一つは、同地域が資源に乏しかったからである。そして国際的な比較優位を確立し、欧米先進国との分業体制を構築できたのは、同地域が労働集約型工業、さらには人的資本集約型の工業へ特化したからである。また、それによって東アジアは自由貿易体制にもっとも忠実に従う地域の一つとなった。東アジアとアメリカ(および西ヨーロッパ)の間の貿易摩擦にもかかわらず、東アジア諸国は、EC=EU やアメリカよりも積極的に、低賃金経済から労働集約型工業品を輸入しようとした。例えば、日本は韓国から、韓国は中国から、比較優位のある安価な工業品を輸入し、欧米諸国よりも速いスピードで、自国の産業構造を再編・高度化した。工業品に関する限り、東アジアは、本稿で取り上げた時期には、概して低水準の関税および非関税障壁に支えられた貿易体制の維持に成功したのである。」
「世界の所得分配は、少なくとも 1870 年(おそらくはもう少し早く)から不平等化したが、その傾向は 20 世紀中頃に逆転した。1950 年と 1990 年を比較すると、世界的にジニ係数の上昇は止まった。ただし、それほど低下したわけでもなかった[Sugihara 2003c]。もっとも世界所得分配の動きについては一致した見解が存在するわけではなく、特に 1990 年代には見方が分かれている[UN 1993; Arrighi, Silver and Brewer 2003. 後者は私見を批判している]。しかし、かりにこの 10 年間に所得分配が悪化したとしても、その度合いは緩慢なものであったろう。

 だとすれば、これは2つの顕著な動きがお互いを相殺した結果である。一方で、東アジアにおいて一人当たり GDP が飛躍的に上昇し、世界は平等化へと向かった。本稿で検討した東アジア諸国、さらにその他のいくつかのアジア諸国はこの 50 年のうちに(タイミングはまちまちだが)一人当たり GDP の未曽有の上昇を経験した。この「東アジアの奇跡」の累積によってこの地域の貧困国が減少し、中所得国、さらには富裕国が増加した。最富裕諸国の一人当たり所得の上昇が比較的緩慢だったことも平等化の動きに貢献した。図 11 からも垣間見ることができる東アジアの一人当たり GDP の成長は、人口の増加と相俟って、世界の GDP の地域別分布を大きく変えた。そして、何世紀にもわたって支配的だった大西洋圏に代わって太平洋圏が世界経済の中心となった。
 それと同時に、こうした動きを相殺したのが極度の貧困から抜け出せない国々の存在であり、近年の旧社会主義諸国の一人当たり GDP の大幅な低下である。これらの国々は、この 30 年間に見られる、生活水準の着実な上昇という世界的な動きを共有することができなかった。東アジアの奇跡がなければ、1870 年から 1950 年にかけての国際的な格差拡大の傾向は今日まで続いていたかもしれない。」



■進む経済の自由化

サブ・クエスチョン
石油危機後、先進資本主義国が福祉国家政策を見直していったのはなぜだろうか?


 戦後の西側先進国の福祉国家政策は、高い経済成長によって支えられていた。

資料 「共に勝ち抜こう」(1950年総選挙労働党マニフェスト)
新道徳秩序
 社会主義はパンのみにあらず。経済的な安定と、資本主義の奴隷化をもたらす物質的なくびきからの解放が最終ゴールではない。それらはより大きな目標、つまり、より思いやりがあり、より知的で、より自由で、より協同的で、進取の気性により富んだ、そして文化的により豊かになる人間の進化を達成するための手段である。それらは、個々人の完全で、自由な発展というより偉大な目標を達成するための手段である。すべての職業とあらゆる生活領域を代表する男女から成るわれわれ労働党員は、人間のより優れた想像力すべてを解き放つことを駆動力とするコミュニティ創造に着手した。(後略)

(出典:高田実・訳『世界史史料11』54-55頁)



 1970年代の経済危機は、その前提を崩すものであった。

 そこで西側諸国の政府は、福祉国家型の経済政策の見直しに入った。
 すなわち規制緩和や民営化などの自由競争が促進され、経済活動の活性化がはかられるようになったのである。
 
 その筆頭に挙げられるのは、1979年に発足したサッチャー政権による改革である。彼女は国営企業を民営化し、社会福祉を削減していった。

資料 『ウィメンズ・オウン』誌インタビューでのサッチャー発言(1987年10月3日)
あまりにも多くの子どもや大人たちが、もし自分たちに問題があれば、それに対処するのは政府の仕事だと思いこまされた時代を過ごしてきたように思います。「私は困っている。援助金が得られるだろう!」「私はホームレスである。援助金が得られるだろう!」「私はホームレスである。政府は私に家をさがさなければならない!」こうして、彼らは自分たちの問題を社会に転嫁しています。でも社会とは誰のことをさすのでしょうか。社会などというものは存在しないのです。存在するのは、個々の男と女ですし、家族です。そして、最初に人びとが自分たちの面倒をみようとしないかぎりは、どんな政府だって何もできはしないのです。自分で自分の世話をするのは私たちの義務です。それから、自分たちの隣人の面倒をみようとするものも同じように義務です。人生は互恵的な営みであるにもかかわらず、人びとは、義務も果たさずに、あまりにも権利のことばかりを念頭においてきました。最初に義務を果たさないならば、権利などというものは存在しないのです。(後略)

(出典:高田実・訳『世界史史料11』352-353頁)

資料 サッチャー主義とその批判
 しかし、残念ながら戦後、とくに190年代末以 降のイギリス経済は、他の欧米諸国に比較して、 相対的低落傾向にあった。福祉の向上は、膨大な 財政赤字をもたらし、ポンドの価値は低下した。 ストも頻発して、1970年代のイギリス経済は「イ ギリス病」とよばれるほどになった。イギリスは なぜ衰退したのか、という「衰退論争」が大盛況 となったが、「充実した福祉」は、強い労組とともに、最大の病根の一つとされた。たとえば、充 実した失業保険は、イギリス人労働者の勤労意欲 を低下させ、ドイツや日本との対比で、その生産 性を著しく劣ったものにしたといわれたのである。 そうなると、資金不足の国民健康保険(NHS)は、 1970年代には、ほとんど機能しなくなった。余裕 のある人びとは、私的な保険に入り、保険外診療 を受けるようになっていったのである。 かくて、1979年、かのマーガレット=サッチャ ーが政権の座につくと、「貧困は自己責任」とい う「新救貧法」の精神への逆戻りがみられた。全 国民一律の福祉という「ベヴァリッジ報告」の精 神は否定されるようになったのである。
 21世紀にはいると、さすがに、このような新自 由主義には、強い批判がうまれている。

(出典:川北稔「ゆりかごから墓場まで—「べヴァレッジ報告」のゆくえ」、『世界史のしおり』2010年1月号、帝国書院、https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_world/index_201001.html



 アメリカで1981年に大統領に就任したレーガンも「小さな政府」をかかげ、規制緩和と社会保障支出削減をすすめた。

資料 レーガン米大統領の第1回大統領就任演説(1981年1月20日)
手始めに、現状の確認をしよう。国民がいるからこそ、政府は存立し得る――その逆ではない。これこそ、我が国が諸外国と異なる点である。我が政府は、国民の信任なくしては何の力も持たない。今こそ、国民の合意を越えた政府権限の拡大を食い止め、逆に縮小させるべき時である。
私の目的は、連邦制度の規模と影響力を抑制すると共に、連邦政府が有する権限と、各州や国民が有する権限との違いを認識してもらうことである。連邦政府が各州を創ったのではなく、各州が連邦政府を創ったということを、全国民が思い出さねばならない。
誤解しないで頂きたいが、私は政府の消滅を意図している訳ではない。むしろ、政府を機能させたいのである――国民を支配するのではなく、国民と協力するようにしたいのである。国民を圧迫するのではなく、国民に寄り添うようにしたいのである。政府は、機会を奪うのではなく提供できるのであり、生産性を抑制するのではなく育成できるのである。政府とは、そういう存在でなくてはならない。

https://ja.wikisource.org/wiki/ロナルド・レーガンの第1回大統領就任演説#cite_ref-3


 イギリスとアメリカは金融市場の自由化を積極的にすすめ、国を超える資本の移動を活発化させていった。
 石油危機によって、内需の拡大が頭打ちになった以上、生産拠点の海外移転と市場の拡大に活路を求めるほかなくなったのである。



資料 日本の経済関連統計(Datacommons.orgより)


 こうした経済の自由化を進める動きは、日本の自由民主党政権にも波及した。中曽根康弘首相は、電電公社、国鉄などの公営企業を民営化し、規制緩和を進めていった(1985年2月に田中派は竹下派・反竹下派に分裂している)。

 1980年代の日本は、マイクロエレクトロニクスの分野や自動車分野で高い国際的な競争力をもち、安定的な成長をとげていった。
 日本製品の輸出が増えると、アメリカでは貿易赤字がふくらみ、財政赤字とあわせて「双子の赤字」と形容され、問題視された。
 日米の貿易摩擦の原因は、日本がアメリカ企業の進出を阻む「慣行」を持っているからであるとされ、国内市場の開放が強く求められるようになった。

 1985年9月22日にはニューヨークのプラザホテルにおけるプラザ合意において、日本と西ドイツの貿易黒字を是正するために、為替相場のドル安誘導が決定された。
 これにより円高が進行し、輸出不振となり、円高不況が起きた。輸出力の下がった日本企業は、生産拠点を海外に移転させる動きをすすめることで対処し、これが産業の空洞化の一因にもなった。
 円高の進行と貿易摩擦に対処すべく、日本では内需を拡大するために積極的な金融緩和がおこなわれた。その一方、余剰資金は投機的な取引にむかい、1980年代末には地価・株価の急騰するバブル景気を招くこととなった。
 1987年2月のNTT株上場などをきっかけに株式ブームがおこり、1989年12月29日に日経平均株価は3万8915円を記録した。


参考

 
GDP成長率


(出典、内閣府 『平成24年度 年次経済財政報告』、https://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je12/h10_data09.html



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