見出し画像

12.3.5 東アジア国際秩序の再編 世界史の教科書を最初から最後まで

ヨーロッパ・アメリカ合衆国の進出と、日本の勢力が伸びたことにより、清朝を中心とする東アジアの国際関係は崩壊。

従来のように中国の皇帝がドカンとトップに居座り、周辺諸国が皇帝をヨイショしていた「朝貢体制」のもとでは、中国の皇帝は外国を“イコール”の存在としては見ておらず、「中国の“延長”」のように見なしていた。
「外国」に対応する必要がないのだから、特別に外交を扱う役所も設ける必要はないわけだ。

ところが、アロー戦争(1856〜1860年)後に結ばれた条約で、ヨーロッパ式の「外交官」を駐在させるべきことが取り決められると、それに合わせて1861年に初めて“外務省”が設置された。
これを、総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん、総理衙門)という。


それ以降、じゅうらい清の支配が間接的にしか及んでいなかった「西のほうのエリア」にも外国勢力が進出。

19世紀後半になると、次々に清朝の影響から切り離されていくことになった。

たとえば、1879年に日本が琉球を領有、

南方では1884年に、清仏戦争(しんふつせんそう)が起きて、ベトナムの阮朝(げんちょう)がフランス共和国の支配下に入った。


一方、朝鮮では、役人同士がグループにわかれて党争(とうそう)に明け暮れ、政治的にはぐらぐら。
19世紀には洪景来(ホンギョンネ;こうけいらい)が反乱をおこすなど民衆の生活も不安定だった。


17世紀以来、朝鮮がお付き合いしていた国は日本と清だけ。

社会不安の中で1860年代にはヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国も朝鮮に「開国」をせまるようになる。


朝鮮の国王である高宗(コジョン;こうそう、在位1863〜1907年)


の摂政(サポート役として口出しができる人)であった大院君(だいいんくん、1820〜1898年)はかたくなに「外国」を拒否し、諸外国を追い払うことにつとめた。
それに対し明治維新をすすめていた日本は1875年に江華島事件をおこし、朝鮮に開国をせまり、翌年の1876年には不平等なとりきめを含む条約(日朝修好条規;江華条約)を結んで、釜山(プサン;ふざん)などの3つの港を開港させた。



ソウル近くのインチョン国際空港のあるインチョンでは、「開国」の面影の残る街並みを今でも見ることができるよ。


朝鮮国内では「開国して近代化するべきだ」(改革派)と「開国しないべきだ」というグループ(攘夷派)との対立が勃発。


改革派のなかにも日本に接近して急進的な改革をはかろうとすると、清との関係をキープして“ゆっくり”改革をおこなおうとする外戚(がいせき。皇帝の后の一族)である金玉均(きんぎょくきん;キムオッキュン、1851〜1894年)と、清との関係をキープして“ゆっくり”改革をおこなおうとする外戚(がいせき。皇帝の后の一族)であるに(びんし)の一族など異なる立場があった。閔氏(びんし)の一族など異なる立場があった。閔氏(びんし)の一族など異なる立場があった。

画像3

高宗の妃だった閔妃(ミンピ(ミンビ);びんひ)



1882年には、大院君が、日本に好意的な閔妃を追放するため、漢城(現ソウル)の日本公使館を焼き討ちにする事件を扇動。
日本も中国の清も朝鮮に軍を派遣し、日清戦争は始まってしまう恐れもあったのだが、日本と清は外交交渉によって「開国を拒む大院君を引きずり下ろそう」という点で一致。
これを壬午軍乱(じんごぐんらん)という。

画像5


ことなきを得たものの、その後閔妃は清の近代式軍隊の”大物“である袁世凱(えんせいがい)

画像4

にすり寄ると、清は朝鮮半島に対する「宗主権」を挽回しようとしていく。


事態はさらに深刻化。

その後、朝鮮半島で「日本の明治維新にみならって近代化をすすめよう」というグループの活動が活発化したのだ。

日本に接近して急進的な改革をはかろうとする金玉均(きんぎょくきん;キムオッキュン、1851〜1894年)の独立党は、日本の政治家らの支援も受け、蜂起を実行。
この甲申事変(こうしんじへん、1884年)は、今度は閔妃の握る政権によって鎮圧された。


朝鮮の改革派を支援していた福澤諭吉は『脱亜論』を発表し、もう朝鮮のことは構わず日本だけ近代化を目指した方がよいと、持論を展開した。


こうした内輪揉めがしばしばおこっては、日清両政府としても心中穏やかではない。

そこで日清両国は1885年に天津条約を締結。
朝鮮半島から両国軍を撤兵させること、そして、今後将来に朝鮮半島に自国の軍を出すようなことがある場合には、事前にたがいに通告しましょうねと約束した。

画像1


しかし、こうした混乱のしわ寄せを一番に受けていたのは、朝鮮半島の農民たちだ。

画像6

特権階級である「両班」(ヤンバン)による支配と、朝鮮王朝の政府の無策に対して不満が高まる中、外国から流れ込むキリスト教の宣教師に対する敵対意識も高まった。

そんな中、勢力を伸ばしたのが、キリスト教(=西学)に対抗し、朝鮮在来の民間信仰に儒・仏・道の3教などを融合したグループである「学」だ。崔済愚(チェジェウ、1824〜64年)が創始者だ。

1894年、東学の指導者(2代目の指導者)が蜂起を起こすと、下級の両班身分だった全琫準(チョンボンジュン;1854〜1895年)ら

画像7

が、全羅南道を起点に各地の政府軍を次々に破り、反乱エリアは一気に拡大。甲午農民戦争(東学農民運動;東学の乱)を起こすと、混乱に乗じてついに朝鮮半島が日本と清の直接対決の場となっていく。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊