見出し画像

2.3.8 漢代の社会と文化 世界史の教科書を最初から最後まで

これまで見てきたように、中国が今後2000年もの間 ”基本形” となっていく支配体制は、秦と漢にルーツがある。

支配の理想形はこうだ。

「天の神様に選ばれた立派な皇帝がトップに立ち、多数の役人たちを用いて、5〜6人程度で構成される農民小家族たちから税を取り立て、支配する」

でも理想は理想。

現実的には、トップダウンの支配を行き渡らせるのは難しい。

中国はヨーロッパがすっぽり入ってしまうほどのサイズだからねえ。

画像2

21世紀の現代でさえ、地域ごとに言語や文化が異なるほどなんだ。

画像1



豪族

だから、漢の時代はなおさらだ。

中央集権的な支配体制は長続きせず、農民を直接コントロールすることもままならなくなっていく。

農民たちは苦しい税を逃れ、国家の支配の及ばない「裏社会」へと逃げ込んでいった。

そこは、国の支配を逃れる力をもつ地方豪族の土地。
郷里社会で影響力を持った豪族たちは、異民族や逃亡農民たちを「流れ者」として抱え込んで奴隷や小作人として使い、盛んに山や荒れ地を開発し、自給自足が可能な独立エリアを築いていったんだ。

史料 後漢の政治家・崔寔(さいしょく、?〜170年)の『政論』
「豪族は巨万の富とたくわえ、大名のように広い土地をもち、賄賂で役人を買収して国の政治をうごかし、ごろつきを養って民をおどしつけ、罪なき人びとを殺すなど、横暴の限りをつくしている。……だから普通の農民はほんのわずかの土地もなく、親子ともども首をうなだれ、小さくなって奴隷のように豪族に仕え、妻子ともどもこれに使役されている。豪族なぜいたくな毎日を送っているのに対して、貧乏人はいつまでたっても奴隷のようなみじめな暮らししかできず、衣食にも事欠くありさまである。一生働き通しても、死んだときに葬式さえ出せない。ちょっとした不作の年には、家族はちりぢりになり、妻子を売ったりしなければならない。まったく農民の生活は、なんのために生きているのかと言いたいほど、痛々しいものである。」

柿沼陽平『中国古代の貨幣―お金をめぐる人びとと暮らし』吉川弘文館、2015年、150-151頁
画像4
画像3

郊外がワンダーランドな『三国志』(中国古代の戦争)より

しばしば宦官や外戚とも結びついていた豪族のことを、皇帝が無視することはもはやできない。
利権を配分したり、中央の官僚として豪族を「コネ採用」(郷挙里選)するなどしてなんとかつなぎ止めようとするけれど、これまたうまくいかない。

広い領域をいかに統治していくかは、その後の中国の王朝にとってもおおきな課題となっていくよ。

***

都市と商工業


漢代には、戦国時代のころから発展した手工業が、さらなる繁栄をとげた。

とはいえ、商業のおもな対象は、皇帝や中央・地方の高官、豪族などに限られたので、商工業の栄えたのは長安、洛陽、邯鄲 (かんたん) 、臨淄(りんし)といった大都市だ。

中国湖南省長沙市馬王堆の1号墳から出土した花柄の絹織物で、前漢時代(BC202~AD9)の紀元前2世紀とされています。パブリック・ドメイン、https://en.wikipedia.org/wiki/Sino-Roman_relations#/media/File:Silk_from_Mawangdui.jpg



こうした大都市には、大商人が店舗を営む市 (いち) とよばれる商業区域があって、営業時間などの規制を受けながら商業に従事していた。

また、漢は経済をコントロールするために塩、鉄、織物などの主要な生産地に塩官、鉄官、服官を置いて、その生産あるいは販売を独占したけれど、塩の生産は民間業者にまかされていた。

各地の特産物を産地から大都市に運び込んでいたのは大商人だ。

なかには北方の遊牧民や西域との貿易を担当する商人も現れ、ユーラシア西部のローマには絹織物や鉄が運ばれ、ザクロやブドウなど西域の産物が中国にもちこまれた。ギリシア語で中国を「セレス」(絹の国)とよんだり、ユーラシアを通る東西交易路を「絹の道」と総称するのは、こういった事情によるものだ。

史料 後漢から大秦国への使節の派遣
和帝の永元九年(97)年、西域都護の班超が甘英を派遣して大秦に使いさせた。条支(シリアまたはメソポタミア南部)に至り、大海に臨んで渡ろうとした。しかし、安息西界の船人が英に言った。「海は広大である。往来する者は、順風にあえば三ヶ月で渡ることができるが、もし凪にあえば、また二年かかる。…」と。英はこれを聞いて[渡航を]やめた。

范曄(吉川忠夫訓注)『後漢書 10』一部改変(実教出版『世界史探究』)


ローマの使者がやって来た?

なお、ユーラシアを海路でむすぶ「海の道」(海のシルクロード)の交易拠点は広州に置かれ、東南アジアの扶南やチャンパーなどを介して、西方との季節風交易が活発に行われた。
桓帝(かんてい)の統治下である166年には、大秦王安敦 (あんとん)の使者と名乗る一行が、現在のベトナム中部のフエに置かれていた日南郡に入港している。

この大秦王安敦は、五賢帝のひとり、そして「哲人皇帝」で名高い、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニウスではないかと考えられている。


では、なぜわざわざローマの使者と称する者が海路からやってきたというのだろうか?
次の史料を読んでみよう。

史料 大秦国から後漢への使節の派遣(1)
大秦王は常々漢に使者を遣わして通交したいと望んでいたが、安息が漢の彩りのある絹布を用いて大秦と交易しようとし、妨害して[使者が]通行できないようにさせた。

范曄(吉川忠夫訓注)『後漢書 10』一部改変(実教出版『世界史探究』)

 安息とは、イラン高原から一時メソポタミアにかけてを支配していたパルティアという王国のことだ。
 ローマはパルティアとの間で、メソポタミアをめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。
 ユーラシア大陸を東西に結ぶ交易路を確保するためだ。
 この史料によれば、パルティアが交易路を支配下に置き、交通が阻害されたと、ローマの使者を名乗る彼らは主張したようである。

史料 大秦国から後漢への使節の派遣(2)
桓帝の延熹九年(166年)になって、大秦王の安敦が使者を遣わして、日南郡の国境の外から象牙・犀角・玳瑁(うみがめの一種)を献上してきた。ここで[大秦と漢]は初めて通交できた。ところがその朝貢品には[大秦らしい]珍品がまったく無い。どうやら[大秦について]伝えられたことは大げさであったようである。

范曄(吉川忠夫訓注)『後漢書 10』一部改変(実教出版『世界史探究』)

 彼らが本当はどのような人々だったのか、真相はわからないが、大秦がローマであるということを含め、ユーラシア大陸を東西に結ぶ陸海ネットワークが紀元前後に存在していたことがわかる史料だ。


史料 中国で発見されたローマのガラス器

パブリック・ドメイン中国広西チワン族自治区の墓から発見された、東漢時代(紀元25~220年)の古代ローマの緑色のガラスコップ。北京の国立博物館にて撮影。




思想


前漢の皇帝が広い中国を支配するにあたって重視したことはほかにもある

統治の理念を示すことだ。

はじめ秦は「法家」を採用し、ルールによる厳しい支配を目指した。
けれど厳しすぎるのも考えものだ。
民間で信者を増やしていた「道家」の占いやまじないの儀式も重んじられたけれど、国の理念としてはいまいちだ。


そこで武帝が採用したのが儒学だった。
武帝は教義を統一するために、儒学の教養を持つ人を“国家資格”化しようとした。
その頂点に立つのが五経博士(ごきょうはくし)という役職で、董仲舒(とうちゅうじょ)という学者が任命を受ける。
重要な聖典は五経(『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』)とされ、こうした古文の読み方を研究する訓詁学(くんこがく)の学者(鄭玄(じょうげん)ら)が後漢の時代に活躍したよ。
儒教は家族内や主君と家来の間の上下関係を重んじるので、そもそも皇帝の支配にとって都合がよいからね。


ただし、紀元前後(今から2000年ほど前)に西域から中国に伝わった大乗仏教をはじめ、さまざまな宗教を信じることは禁止されず、道教・儒教・仏教が共存していくこととなるのが中国世界の特徴だ。



紙と文字


書物は初めは紙ではなく、竹を割ったもの(竹簡)が用いられていた。でも後漢の時代になると、紙をつくる技術が改良され、しだいに紙が広まるようになっていったよ。

画像5


もし「紙」がなかったら...考えても想像がつかないよね。
漢字の書体は漢の時代になると「隷書」(れいしょ)というフォントに統一され、辞書もつくられた。


歴史書


歴史書としては司馬遷(しばせん、前145頃〜前86頃)という博覧強記の人が、武帝の命令を受けて、神話時代以降の中国の歴史をテーマ別の『史記』にまとめている。

画像6

テーマ別に歴史をまとめた形式を紀伝体(きでんたい)といって、司馬遷ならではの鋭い視点で、歴史上の人物を評したものだ。

自分の文明だけでなく、当時知られている世界のすべてを余すことなく記録しようとした同時期の歴史家としては、ギリシアのヘロドトスが有名。
さしずめ、”西のヘロドトス、東の司馬遷””といったところだね。


また、後漢の皇帝も班固(32〜92)という人に、『漢書』を紀伝体でまとめさせた。
中国に限らず、支配者というものは、往々にして歴史を自分の支配に都合良く書き替える傾向がある。中国の正史を読むときにも、そういう視点を持つことが大切だ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊