見出し画像

世界史の教科書を最初から最後まで 1.3.4 ローマ帝国


アントニウスを倒した将軍オクタウィアヌスにとって、政治的なライバルはもはやいなくなった。
まさに権力の頂点に立ったわけだ。

でもそんなオクタウィアヌスにも、まだ警戒すべき存在があった。

「元老院」だ。

そもそもローマには、伝統的な不文律がある。
ローマという国は「元老院」と「元老院の指導する市民」によって成り立つべきだ(SPQR” 

彼の養父カエサルも、かつて「独裁官(ディクタトル)」として君臨したことで目をつけられ、暗殺されてしまっていたでしょ。
「元老院」を重んじるべきだという不文律を破ってしまったからだ。


だからオクタウィアヌスは意を決して行動を開始。

「もう非常事態は終わった。ちゃんと共和政に戻そう」として、第2回三頭政治によって獲得していた特別な権力を、国に返上することにしたのだ。

画像4


これに対し、元老院議員たちはざわめく。

「どうしてそんなことをするのか!? 立派すぎるやつだな!」

オクタウィアヌスはいう。

「いやいや、そんなことはないっす。

 ローマの伝統は守るべきっす。

 イタリア半島や周辺部は「元老院」の管轄する属州(元老院属州)にしていただいても構いません(ピンク色の部分)。

 で、私は防衛が困難な周辺地域を引き続き皇帝属州(緑色の部分)として統治し、ローマの平和を守ります。身を切る覚悟でいきます。すべては元老院とローマ市民のためっす。」

画像1

これに対して元老院はまたもや感動。

―しかし... 

お察しの通り、オクタウィアヌスにとって、こうした動きは全ローマを支配するための作戦の一部に過ぎなかった。

うまくやらなければ、元老院にカエサルのように目をつけられちゃうしね。

カエサルのように独裁官(ディクタトル)になっちゃえば、「王様になるんじゃないか」と疑われてしまう。
だから、あくまで執政官(コンスル)の立場のままで、どうやったら属州の支配権を獲得できるか考えたわけだ。


当時の元老院の立場を考えてみよう。
そもそも元老院が「内乱の一世紀」を終わらせたのではない。
オクタウィアヌスのおかげで、内乱が終わったのだ。
そんな元老院にとって、オクタウィアヌスの力を頼らなければ、属州をちゃんと支配することは不可能に近い。

オクタウィアヌスはこの状況を逆手に取ることにした。

元老院に属州を返却するように見せかけ、属州の総督の任命権はちゃんと確保したのだ。
そして、イタリア半島だけでなく属州においても、軍団の指揮権をも獲得した。
この指揮権のことをインペラトルというよ。英語の皇帝「エンペラー」の語源だ。

軍団を動かすことができるというのは、現代風に言えば、好きなときに自衛隊や軍を動かすことができるということ。
まさに国の最高権力を獲得できたわけだ。


前27年に、これらのオクタウィアヌスの動きを追認した元老院は、「アウグストゥス」(尊厳者)の称号を与え、彼が”特別な人間”なのだということにお墨付きを与えた。
しかし彼自身は自分自身のことを「たんなる市民の中の第一人者(プリンケプス)にすぎない」と言い続けた。
社長なんだけど「社員の中の第一人者」って名刺に印刷し続けるようなものだ。
自分が持っているのは「権威」であって「権力」ではないよ、と。
それほど「元老院」に睨まれるのが怖かったんだね。

画像5


こうして、「アウグストゥス」「インペラトル」そして「カエサル」といった複数の称号を持つ一人の個人が、「元老院」の権威を重んじる形式をとりつつ、実際には広い領土全域の軍団を動かす実権を手にする体制が実現した。

そういうわけで一般に、前27年以前にオクタウィアヌスに「アウグストゥス」称号が送られた後のローマのことを「共和政ローマ」、それ以降のローマのことを「ローマ帝国」と呼ぶのだ。


以後200年の間の時代は「ローマの平和」(パクス=ロマーナ)と呼ばれる繁栄と平和の時期。
映画化されたヤマザキ・マリさんの漫画「テルマエ・ロマエ」もこの時期が舞台だ。

初期の頃には評価の低い皇帝もいて不安定だったけど、96年~180年の間(今から1900年~1800年ほど前)には、"5人の賢い皇帝"(五賢帝)とたたえられる立派な皇帝による支配が続いたんだ。

とくに2番めのトラヤヌス帝(在位98~117)のときがローマの最盛期で、領土も最大に。帝国各地には、剣闘士の競技場(コロッセオ)や議会、広場、水道橋(すいどうきょう)をもつローマ風の都市が建設されたよ。


3人目のハドリアヌス帝のときに、領土はやや縮小。


5人目のマルクス・アウレリウス・アントニヌス名前が長い!)は、優れた政治家でもあり、同時に優れた哲学者であることでも知られるお方。その著書『自省録』は、ストア派の立場から人間の心の内面を見つめる内容で、21世紀になってもビジネスマンや経営者に読まれている名著中の名著だ。



なお、同時代の中国には、おそらく「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」を名乗る使者が到達したとの史料が残されている。

史料 大秦国から後漢への使節の派遣
桓帝の延熹九年(166年)になって、大秦王の安敦が使者を遣わして、日南郡の国境の外から象牙・犀角・玳瑁(うみがめの一種)を献上してきた。ここで[大秦と漢]は初めて通交できた。ところがその朝貢品には[大秦らしい]珍品がまったく無い。どうやら[大秦について]伝えられたことは大げさであったようである。

范曄(吉川忠夫訓注)『後漢書 10』一部改変(実教出版『世界史探究』)



帝国はいくつかの行政区分に分けられ、中央から皇帝を最高指揮官とする軍団が配置され、都市が支配の中心となった。

ローマ帝国各地の都市の上層市民には「ローマ市民権」が与えられ、ローマのために尽くし、ローマのために貢献することが立派な名誉とされたんだ。

のち212年にカラカラという皇帝(在位198~217)のもとで、下層市民を含む全ローマ市民に市民権が拡大されると、まさにローマ帝国は「一つの地域」を超えた「世界帝国」となるよ。

史料 カラカラ帝の勅令(212年)

皇帝は告示する。…されば外人が私の臣民となるごとに、我が国の神々の礼拝に導けば、諸神の神意に報いることになり、敬虔な行動となるであろう。ゆえに私はローマ帝国におけるすべての外人(自由民)に対してローマ市民権を与える。降伏者は例外として与えない。ただし国家の各種の制度は変更を加えない。私が市民権を付与するのは、私の国民は不幸についてのみならず、勝利についても共にわかちあうべきものと考えるからである。この勅令はローマ国民の尊貴を増すであろう。

『西洋史料集成』一部改変(『新詳 世界史探究』帝国書院、77頁)

ユーラシア大陸の西の端っこ、地中海を取り囲むエリアは、こうして「ローマ帝国」として一体化。



ユーラシア大陸の東からは、ローマの宿敵であったイランのパルティアを経由する陸路や、季節風(モンスーン)を利用した貿易船によって、さまざまな特産物が運ばれ、ローマの人々を楽しませたよ。

たとえば、当時「ティーナイ」と呼ばれた中国からは、すべすべのシルク(絹)がもたらされた。その製造法は謎に包まれていたんだけどね。

また東南アジアやインドからは香辛料がもたらされ、食卓をあざやかなものにした。




このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊