7.2.4 清代の社会と文化 世界史の教科書を最初から最後まで
清の4代目皇帝(康熙帝(カンシーディ;こうきてい))によって、漢人の武将による反乱(三藩(さんぱん)の乱)が鎮圧され、さらに台湾での抵抗運動もおさめられと、清の中国支配はいよいよ安定したものとなった。
貿易についても、「朝貢以外はゼッタイに認めない」という海禁をゆるめ、中国商人が自由にジャンク船に乗って海外で貿易することを認めるとともに、ヨーロッパ船の来航もOKした。
こうして海上貿易は繁栄を迎える。
ヨーロッパ諸国やアメリカ大陸のスペイン・ポルトガルの植民地という新たなマーケットとの結びつきにより、生糸(カイコのまゆからとった糸)・陶磁器・茶は“ヒット商品”の座に君臨。
輸出の対価として、メキシコで生産された大量の銀が、太平洋を越えて中国に流れ込んだ。
そんな中、中国南部の福建や広東の商人の中には、「移住を禁止するきまり」をおかして東南アジアに移住し、現地で農村と国際マーケットを“接続”するネットワークをつくって富を築く者も現れた。
現在の東南アジア経済界において華僑の存在感が大きいのは、このとき以降の“東南アジア移住の流れ“にルーツがあるんだよ。
しかしその後、キリスト教の布教をめぐる揉め事(典礼問題)が起きたこともあり、第6代皇帝 乾隆帝(けんりゅうてい)は、ヨーロッパ船の来航を広州1港に限定。
13の商人グループ(公行(コホン;こうこう))に貿易をおこなう特別な権利が与えられた。
これをカントン=システムともいう。
キリスト教の布教を制限し、海域のコントロールをちゃんとしようとしたのは、同時期の朝鮮や日本でも見られる政策だ。
サツマイモが支えた数億人の人口
18世紀には中国の人口が急増し、3億人の大台を突破。
その背景には、政治の安定だけでなく、アメリカ大陸から伝わった”ある野菜“の力が大きかった。
それは、トウモロコシやサツマイモだ。
サツマイモが伝わった道(通説)
これら作物は山地でも栽培可能で、これまでの平地に代わり山にも農地が広がった。
しかし、人口の増加ペースが激しくて土地の開発が追いつかず、結果的に土地のない農民が多数現れてしまう。
貧しい農民たちは税金を逃れようとして、当局の調査の目をかいくぐって“闇社会”に潜り込み、余計に治安が悪くなる始末。
そこで18世紀初めに地丁銀制(ちていぎん)が導入され、人に課す税金(丁税)を土地の税にくりこませるようにして、税の取り方をシンプル化することとなった。
これにより、これまで調査から漏れていた人口の把握もできるようになって、歴史学研究の資料となる「中国の人口の統計」もようやく実態に近づくこととなっていったよ。
清の文化
明から清への激動の時代を経験した儒学者の顧炎武(グーイェンウー;こえんぶ、1613〜82年)は、どうしたら社会の秩序を回復させることができるだろうかと考えた人。理念重視の抽象的で頭デッカチな議論より、ファクトにもとづく実証的な研究が必要だと訴え、斬新な社会批判も光った。
また、儒学者の黄宗羲(こうそうぎ;ファンゾンシー、1610〜95年)は「民のための政治が大切だと」政治改革を説いたことで知られるよ。
しかしその後、清の政治が安定期に入ると、人々の文化や学問は比較的落ち着いた繊細さをみせるように。清の皇帝が言論をきびしくコントロールしようとしたことも、研究活動に影響していった。
とはいえ明から清にかけての儒教は、字句の解釈のみならず、政治・経済・地理・社会・言語など多岐にわたる実証的で実学的な側面をもっている。
内容には幅はあるものの、考証学(こうしょうがく)としてまとめられることが一般的だ。
また、文芸の世界では『紅楼夢』(こうろうむ)や
『儒林外史』(じゅりんがいし)といった長編小説が、こまかいタッチで上流階級や名家の役人(士大夫)を描き、庶民受けしているよ。
キリスト教の布教方法をめぐる問題
理系の分野を担ったのは、ヨーロッパの宣教師、とくにイエズス会の宣教師だった。
以下のような人々が有名だ。
・ヨーロッパ式の天文観測によって中国のカレンダーの微調整をしたアダム=シャール(1591〜1666年)、フェルビースト(1623〜88年、世界地図も作成)
・ヨーロッパ式の実測で北京の地図(「皇輿全覧図(こうよぜんらんず)」)を作製したり、康熙帝の伝記をフランスの国王ルイ14世に伝えたブーヴェ(1656〜1730年)
フランス国王ルイ14世から康熙帝に送られた手書きの手紙(一部)
・ヨーロッパ式の画法を紹介し、北京郊外のバロック様式離宮(円明園)を建設したカスティリオーネ(1688〜1766年)
カスティリオーネの描いた乾隆帝(けんりゅうてい)の肖像画
(遠近法が使われている)
彼らは有力な役人(士大夫)に技術をプレゼンし、中国文化を尊重する形でローマ=カトリックのキリスト教を布教した。
布教できるならば、多少キリスト教の解釈を“中国っぽく”寄せても問題ない、とするのが彼らのやり方。
中国では、古くから「孔子さま」を神様としてまつったり、同族の祖先を「祖先の神様」としてまつったりしていたけれど、イエズス会はこうした儀礼を、キリスト教的な神様・イエスへの祈りと“共存”させるのを認めていたんだ。
左がマテオ=リッチ、右が徐光啓(じょこうけい)。中国服を着ているね。
しかし、イエズス会のやり方は「キリスト教の教義をねじ曲げている!」と、他の布教グループ(フランチェスコ派など)が抗議し、ローマ教皇にチクった。
ローマ教皇はイエズス会のやり方を否定したため、清の皇帝は対応に迫られることに。
結局、第5代雍正帝(ようせいてい)は、キリスト教の布教を禁止する結果となった。
この一連の問題を「典礼問題」(てんれいもんだい)という。
こうしたやりとりがあったことから分かるように、中国に関する情報は、イエズス会を通してヨーロッパにかなり伝わっていた。
たとえば、孔子を神としてまつる儒教は、さながら古代ギリシアのプラトンのアカデメイアを彷彿(ほうふつ)とさせるもので、ペーパーテストによって公務員を採用する科挙というしくみとともに、ヨーロッパの学者の興味をかっさらった。
18世紀の啓蒙思想家(古臭い伝統社会を“合理的”な考えによって変えていこうという思想家たち)の間では、「絶対王政をしているヨーロッパの王様よりも、学問を重んじる中国の皇帝のほうが立派じゃないか」という議論も生まれるようになっていく。
また、陶磁器や庭園のような中国の美意識・アートも、ヨーロッパ的な素材に飽きてきていた王侯貴族のお眼鏡にかなうものとなっていく。
あのフランスのマリ=アントワネットも、ベルサイユ宮殿の一角に中国風の離宮を建設させていたくらいだ。
このようなアートにおける中国趣味のことを「シノワズリ」という。
1742年にフランスの画家(ブーシェ)の描いた《中国の庭》という絵
もちろん”風“(ふう)だから、「実際にそんな格好をした人は中国にいないよ」っていう人の絵柄が使われていることもしばしば。
当時のヨーロッパにとっては “未知の存在”(他者)であった中国の”脳内イメージ“ が現れたものと言える。
日本の伊万里焼(いまりやき)とともに、ヨーロッパの王侯貴族がコレクションをするほどの人気を誇ったんだ。
なじみのない文化に対して”エキゾチック“な幻想を感じるのは、いつの時代でも同じことだけれど、ヨーロッパ側の抱いた ”アジアに対する脳内イメージ“ は、のちのち現実のアジアに対しても大きな影響をもたらすことになっていくよ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊